第2話
中畑さんが旅立ってから一ヶ月になろうとしていた。
昼食休憩になると、沙希は売店で買ったサンドイッチと日傘を手にして中庭のテラスに出てみた。
夏の終わりの日射しはまだまだ厳しい。そのせいか、緑に囲まれたテラスに人影は少なかった。やはり日傘を持って来て正解だった。庭園中央にある噴水そばのベンチに腰を降ろしてサンドイッチを摘まんだ。
蝉たちが鳴いている。何年ものあいだ地中で力を溜めていた彼らは数日前にこの世界に姿を現し、数日後には再び旅立っていくのだろう。そんな掛け替えのない僅かな瞬間に自分は偶然彼らと巡り会ったのだ。考えて見れば不思議なことだ。この世のあらゆることは単に偶然の巡り合わせでしかないように思えてくる。
休憩が終わるまでまだだいぶ時間があった。庭園の少し先のほうまでぶらついてみることにして腰をあげた。病院の敷地内がどうなっているのか、まだろくすぽ把握していなかった。
庭園から病院正門のほうに続く小道の少し手前に、いくらか盛り土がされた一角があった。数本の桜の樹が植えられている。小石で固められた石畳の階段を上がって桜の樹の木陰で足を止めた。顔をあげると遠くの方に海が見えた。
小児科への配属でドタバタしていたけれど、ようやく一段落ついた感じがしていた。少し気持ちに余裕ができたせいか、今頃になってしみじみと悲しみが込み上げてくる。
「頑張りすぎちゃ、体に毒よ」
中畑さんの最後の言葉が耳元に蘇った。
看護師としての初めてのお別れだった。これまでだって数え切れないくらい多くの人に別れを告げてきた。だがこういう気持ちになったことは今までなかった。
医療従事者として微かな疚しさがあった。それほど強い感情ではないにせよ、それでもやはり命を救えなかったことに対して申し訳ない気持ちがあった。
だが一方で、そんな後ろめたい気持ちを抱いている自分を醒めた目で眺めている自分もどこかにいた。
あらゆる命が救えるわけではない。どう足掻いても人間の力ではどうすることもできない自然の摂理もあるはずだ。それに抗おうとするのは身の程知らずの奢った態度なのではないだろうか。そのときが来たら気丈に受け容れるのがプロとしてのあるべき態度なのではないだろうか。
迷い、戸惑う。だが結局は、そんな思いが単に自分の頭の中だけで堂々巡りする独りよがりのものでしかないことに気づかされる。一人内向きになって、妄想じみた考えに酔いしれる自分の小ささに気づかされる。
新たに建て増された防波堤の向こうで強い日射しを受けて水平線が輝いている。
看護師だった母は、時折自宅の庭に植えられた桜の樹の下に佇んでじっと海を眺めていることがあった。それは家族の皆が自然に受け容れていた母の習慣だった。
誰もそのことで母に尋ねたりすることはなかった。月のきれいな晩や霧のかかった早朝や炎天下の午後に、桜の樹の下で一人静かに肩を震わせていた母。よくケンカもしたけれど、我が家の自慢だった母。
そういえば、震災の日の朝も母が庭の桜の樹の下で佇んでいたのを覚えている。そしてようやくいま、母の気持ちが少しだけわかったような気もしている。
ふと、どこかから人の声がした。
空耳だろうか。感傷的な思い出に浸っていたせいで幻聴だったのかもしれない。
「すみません」
また声がした。間違いなく現実の声だ。沙希は我に返って後ろを振り返った。
見るとスーツ姿の男性が立っていた。旅行へ出かけるかのような大きな革の鞄を抱えている。マスクをしているが、たぶん自分と同じくらいの年齢だろうか。どうやら医師ではなさそうだ。
「すみません」男性は会釈をしながら言った。「ちょっと道に迷ってしまったらしくて」
「はい」
「西病棟の受付はどちらかわかりますか?」
「はい、もちろん」
「こちらの病院は二回目なのですが、位置関係がまだよくわかっていなくて」
「そうですか」
盛り土の少し高いところから石段の下に佇む男性を沙希はじっと見下ろした。
何故かはわからない。日傘を持つ自分の手が震えている。胸の鼓動が高鳴って軽い目眩を感じる。
「どうかされましたか?」男性は不審そうな表情を浮かべている。「なんだか顔色が悪いようですけれど——」
辺りには耳をつんざくほどの蝉の鳴き声が木霊している。それなのに男性の声は少しも掻き消されることなく、真っ暗な洞窟の奥から聞こえてくる呼び声のように伝わってきた。
ふと懐かしい気持ちが湧き上がった。
この声——だが、そんなはずがない。
無言で立ち尽くすこちらの様子に困惑したのか、男性は「本当に具合が悪いのではないですか?病院に行かれたほうがいいかもしれませんよ——いや、ここが病院でしたね」と言って苦笑した。
「すみません。大丈夫です」
「そうですか。それならよいのですが——」
「西病棟は」海と反対の方角を指さしながら言った。「ここを道なりに行くと噴水がありますので、そこを右へ曲がってください。看板があるのでわかると思います」
そう言いながらも男性の顔から目を離すことができなかった。マスクを外すと思っていたのと全く別の顔つきだった、ということは頻繁にある。目元だけならこの世に似ている人物など無数にいるだろう。何より、声も顔ももうすっかり変わってしまっているはずだ。頭ではよくわかっているのだが、どうしても目を離すことができない。
「わかりました。ありがとうございます」
男性はそう言って目元を綻ばせてみせた。単なる社交辞令の笑みでしかないのに背中を強く叩かれたようにドキリとする。微笑み返す余裕などまるでない。
「その制服」男性は続けた。「可愛いですね。すごくお似合いです」
「ありがとうございます」
強ばった笑みを浮かべながらなんとか返事をした。
「小児科の方ですか?」
「はい」
「そうですか。自分も子供が好きなもので——」
ふと会話が途切れて二人は沈黙に落ちた。目を合わせたまま互いの顔を見詰め合う。蝉の鳴き声が二人を包み込んだ。
沈黙を破ったのは男性のほうだった。いくらか小首を傾げて言った。
「失礼ですが——以前にどこかでお会いしたことがありましたか?」
「いえ——」一瞬の間を置いて言った。「ないと思います」
何故そう言ったのかは自分でもよくわからなかった。
「そうですか——」男性は訝しさを掻き消すように笑みを浮かべた。「では失礼します」
そう言い残すと大きな旅行鞄を抱えて噴水のほうへ向かって歩き始めた。
後姿を目で追った。だいぶ先まで行ったところで男性が立ち止まるのが見えた。旅行鞄を地面に降ろして背広のポッケからハンカチを出して額の汗を拭っている。そして男性が耳元に手を伸ばしマスクを外した瞬間、思わず息を呑んだ。
似ている。あまりにも似すぎている。声を聞いたときから何かを感じた。でもそんなことがあるはずがないと打ち消した。
しかし——あの横顔。こんなに遠くからでもはっきりとわかるあの面影。もちろん一五年も経てば人の顔などいくらでも変わり得る。それなのに彼に違いないと直感してしまう。何故かはわからない。稲妻に打たれるように彼に違いないという思いに体が震えた。
だがやはり——そんなはずはない。
しばらく呆然としているうちに男性の姿は見えなくなっていた。ふと我に返って慌てて後を追って走り始めた。噴水に辿り着いて周囲を見まわしたが男性の姿はなかった。急いで西病棟のほうへ向かって進んでいった。
でも——走りながら別の思いも浮かんできた——もし本当に彼があの人なら何故自分に気づいてくれなかったのだろう。自分のことを忘れてしまったのだろうか。そんなはずはない、と思った。絶対にそんなはずはない。
男性が西病棟の受付の場所を訪ねていたことを思い出して、外来患者で混み合っている正面ラウンジを小走りで抜けて受け付け窓口に辿り着いた。
辺りを見まわすがやはりどこにも姿は見えなかった。外見からして医師ではなさそうだった。外来患者といった感じもしなかった。製薬会社の営業マンかもしれない。その可能性はあった。
正面ラウンジ奥にある外科病棟のスタッフステーションを覗いてみた。だがそれらしき人物はいなかった。窓口の女性に声を掛けた。
「あの、男性の方がこちらのほうに来ませんでしたか?たぶん製薬会社の営業の方だと思うんですが——」
「いつですか?」と女性は返事をした。
「たったいまです」。
女性は首を捻って、
「さあ。どなたもいらしてないと思いますが——」
と言った。
「そうですか。ありがとうございます」
いったい何だったのか。普通に考えればどう見ても単なる人違いでしかあり得ないことに、何かに取り憑かれたように必死になっていることに自分でも呆れる。狐に抓まれるというのは正にこういうことなのか。
訝しい気持ちを抱きながら、小児科病棟へ戻ろうと踵を返した。
すると見覚えのある顔が立っていた。
「よう、沙希ちゃん」
貴宏だった。そう言えば彼は外科の医師だった。
「どうしたの、そんな怖い顔して?」
「え?」
「まるで幽霊でも見たみたいだよ」
「……」
「顔面蒼白ってやつだな。真っ青だよ」
「あ」
その瞬間、声が漏れた。
思い出した。佐藤貴宏という医師のことをようやく思い出した。
「もしかして——」彼に向かって人差し指を突き刺しながら言った。「ツンツル?」
貴宏は満遍の笑みを浮かべると、嬉しそうに頭を掻いた。
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