第1章

第1話

 怒濤のような一日の勤務を終えて、大須賀沙希(おおすかさき)はソファの上にぺたりと尻餅をついた。固く張ったふくらはぎを二、三度叩いてみる。家まで自転車を漕げるか心配なくらい張っている。

 ナースステーション奥の休憩室には誰もいない。この御時世に定時であがれるのは新米看護師の自分くらいなものということか。

 ドアを閉めると院内の喧噪がシャットダウンされて、八畳ほどの室内は嘘のような静寂に包まれている。ウィルスの侵入を防ぐため透明のビニールで覆われた大きな窓から西陽がぼんやりと差し込んでいる。

 ソファにもたれかかり、防備服から顔を出してマスクを外す。ようやく一息ついた。そう思ったところでノックの音が聞こえてドアが開いた。

「お疲れのところ申し訳ない。内科から応援の要請が来てるんだけど、行ける人が誰もいなくて——悪いけど、大須賀さん、行ける?」

 そう言って顔を出したのは一年先輩の大竹佳奈(おおたけかな)だった。立場上先輩ではあるが、歳は自分よりもだいぶ下のはずだ。いちおう普段は「さん」付けで呼んでいる。

「わかりました。すぐに行きます」

 脱ぎかけた防備服のファスナーを元に戻しながら腰をあげた。やはり定時で帰ることなど無理なのだ。

「ほんと、ごめんね」と佳奈は顔の前で両手を合わせて言った。

「佳奈さんが謝らなくても」

「まあ、それはそうなんだけど」彼女自身、本当は小児科所属の看護師なのだが、救急外来の応援に来ているのだ。ここのところ診療科の壁はないに等しくなっている。「可哀想っていうかツいてないっていうか。まだ入って一月も経ってないのにいきなりこれだからね。研修もまだやってないんでしょ?」

「ええ、まあ」外していたマスクを付けながら答えた。「でもこんな新米がいきなりこんな経験させてもらえて、本当に感謝してるんです」

 本当にそう思う。いま自分がこんなふうに働けていること自体が奇跡的なほどだ。

「沙希ちゃんて、けなげなんだなあ。感心感心」

「そんなことありませんよ」沙希は手を振った。「それに帰っても何もすることないですから」

「沙希ちゃんて」佳奈は人懐こい笑みを浮かべた。「彼氏とかいないの?」

「いないですよ。私、いままで誰とも付き合ったこともないんです」

「嘘でしょ?沙希ちゃん、こんなに可愛いのに非モテ女子なんてあり得ない」

「そんなこと全然ないですって」と沙希はまた手を振った。

 たぶん自分は誰とも付き合ったことはない。好きになった人はいた。たぶんあのまま時が流れ続けていれば、いずれは付き合うということになっていたのかもしれない。でも時は止まってしまった。

「今日はもう特にすごいよね」

 佳奈はあっさりと話題を変えた。顔半分はマスクで隠れているが、目元にありったけの笑みを掻き集めているのがわかる。へんなこと訊いてしまってごめんね。そういう笑みだ。ちょっと申し訳ない気持ちになる。たぶん無意識のうちに暗い顔をしてしまったのだろう。きっと佳奈はハッとして話題を変えてくれたのだ。

「ほんとですよね」

 殊さら軽い調子でそう言って大きく微笑み返した。

 中途半端に相手の過去に立ち入ることに誰もが疲れを感じているのだ。みんなが相手の過去に向かう言葉を敏感に避け、そして相手にも同じことを期待している。

 何年か前からたぶん東北全体がそんな雰囲気につつまれている。人々の会話にはいつもちょっと芝居がかった雰囲気があるのだ。芝居を演じることでギリギリ現実が紡がれているとでもいった、生の現実の露出を防ぐフィルムにくるまれているかのような空気がそこにはある。

 当たり障りのない会話にはなんとなくいつも虚無感が漂っている。そしてみんなそれがわかっている。わかっているが誰も敢えて取り払おうとはしない。下手に触れると、せっかくこれまで積み上げてきたものがボロボロと崩れ落ちてしまう気がするからだ。まだあまり話したことはないけれど、この先輩の佳奈だって軽口の向こう側に深い傷を抱えているのかもしれないのだ。

「こんな状態がいったいいつまで続くのかなあ。もう足パンパンだよ」

 そう言って佳奈はふくらぎの裏側を両手で叩いている。

「じゃあ悪いけど、よろしくね」

「はい、すぐに行きます」 


 新型H5N1ウィルスによる世界的なパンデミックの波は東北地方にも押し寄せていた。ついこの間、四年間にも及ぶコロナ禍がようやく終わったと安堵していたばかりなのに、数年もしないうちにまさか再び別のウィルスに攻撃されることになるなどと世界中の誰が想像していたであろうか。

 タイミングの悪さにはいつも自信があった。

 新人看護師としてこの病院に就職したのは一月ほど前。ちょうどその頃から地方都市でも感染者が出始め、先々週あたりからひっきりなしに救急外来に感染者が運び込まれるようになっていた。院内は文字通り猫の手も借りたい状態で、自分を含めた数名の新人看護師たちはいまだに何科に配属されるのかも決まっていない。ただ毎日の急場を凌ぐため、最も人手の不足している救急外来と内科の応援に充てられているのだ。予定されていた一ヶ月間の研修も行われず、いきなり過酷な現場に放り込まれていた。士気が低い者ならもう挫けていたっておかしくない。

 だが、沙希には挫けるなどという選択肢はない。

 震災後、避難先の地で通い始めた中学でイジメに遭い、それから十年近くヒキコモリを続けた。それから母の後を継いで看護師になろうと決意して、通信で高校卒業の資格を取り、それから二年間看護学校に通って、ようやく辿り着いたのが今の自分なのだ。

 これまで経験してきた荒波の高さと激しさに比べたら、何のこれしき、と心から思う。かえってパンデミックのおかげでこんなにも未熟な人間がいきなり現場に投入され、他の人にはできないような経験をさせてもらっている。タイミングが悪いどころではない。自分は運に恵まれているのだ。あの日を生き延びて、いまこうして誰かのために尽くす機会を与えてもらっていることが何よりの証拠ではないか。

 ナースステーションを抜けて廊下へ出ると、外来口につけた救急車からストレッチャーに乗せた患者が運び出され、物凄い勢いで迫ってくるところだった。

 衝突するギリギリのところで蛙のように飛び跳ねて壁際に身を寄せた。その瞬間、尻に衝撃を感じた。

 その人は壁にぶつかってから跳ね返り、足が絡まったのか、そのまま廊下に倒れ込むと体操選手のように派手に転がった。男性だった。

「すみません、大丈夫ですか」

 慌てて声をかけた。男性は白衣の上から防備服を纏っている。医師を突き飛ばしてしまうとはついていない。何科の先生だろうか。

「強烈だなあ」男性医師は脇腹の辺りをおさえている。「ダイビング・ヒップアタックをくらったみたいだ」

 プロレスか何かの話だろうか。こんなときに冗談のつもりなのだろうか。笑っている場合でもないし、お怪我はありませんか、と取り敢えず言ってみる。

「大丈夫、ありがとう」と言って男性医師は立ち上がり、ずれていたマスクを整えてからこちらを向いた。顔半分しか見えないが、まだかなり若い。

 二人は見詰め合ったまま仁王立ちの状態になった。その瞬間、男性医師の眸が大きく開くのがわかった。

 跋の悪さに先に視線を逸らしたのは沙希のほうだった。深々と御辞儀をして、

「すみませんでした。失礼します」

と言って横を通り抜けようとしたときだった。

「ちょっと待って」

 立ち止まった。振り返る。

「はい?」

 男性医師はじっとこちらを見つめている。目元にいくつも皺が寄っていて、マスクの上からでも大きな笑みを浮かべているのがわかる。

「沙希ちゃんだよね?」と男性医師は言った。

「え?」と口から声が漏れた。

「大須賀沙希ちゃんだよね?」

 頭の中が真っ白になる。「はい。先生は——」

「佐藤です」と男性医師は言った。「覚えてないかな?佐藤貴宏(さとうたかひろ)です」

「はい、佐藤先生ですね——」

 この一ヶ月の間、数え切れないほどの医師と出会ってきていた。しかもたいていの場合、応援に駆けつけたどこかの診療科の現場でろくに名も名乗らぬまま医師の補助として患者の手当をするような状態が続いていた。既にどこかで出会っていたとしても名前まで思い出せる人物はほんの一握りしかいなかった。

「では失礼します」

 再び会釈して踵を返した。するとまた声がした。

「ちょっと待って」

 こんなときにいったい何なのだろうか。内心そう叫びながら振り返る。苛立ちを隠そうと精一杯の笑みを浮かべた。「先生、まだ何か?」

「しつこくてごめん」

 彼は相変わらず嬉しそうに微笑んでいる。いったいこの笑顔はどういうつもりなのか。

「お帰り、沙希ちゃん」

 呆気にとられて言葉を失った。

「また今度ゆっくり」

 彼は手を振ると廊下を曲がって行ってしまった。

 いったい何なのだろう。お帰りというのはどういう意味だろう。何よりいきなり人をちゃん付けで呼ぶなんて、何ハラなのかはわからないが、ハラスメントもいいところだ。

 ハッと我に返って腕時計に目をやった。小走りで廊下を急ぐなか、あの佐藤という医師の表情が脳裏に蘇った。目元の皺の寄り方。芯の強そうな黒くて大きな瞳。

 間違いなく見覚えのある微笑みだった。今にも思い出しそうで思い出せないのがひどく歯痒かった。


 内科のナースステーションに行くと、沙希は年配の看護師長から至急三〇三号室へ行ってほしいと指示された。

「わかりました」

 廊下に出ようとすると後ろから看護師長が声をかけた。

「大須賀さん」

 立ち止まって振り返った。「はい」

「しっかり、頑張ってね」

「はい——」

 看護師長はキリッとした、でもどこかやさしげな眼差しでこちらを見つめていた。背筋を正して会釈すると廊下に出た。

 三〇三号室。一週間前に新型H5N1ウィルスに感染して救急外来に運び込まれた高齢女性の病室だ。数日前から重症化して人工呼吸器を装着して様子を見ている。今朝、検温に行ったときにははっきりと意識があっっていくらか言葉も交わしたのだが、その後容態が悪化したのだろうか。

 ドアをノックして病室に入る。付き添っていた看護師が立ち上がり、こちらに向かって会釈しながら微かに笑みを浮かべた。名前はわからないが、どこかで一度見かけたことのあるかなり上の先輩だ。防備服とマスクの上からだが、激しく憔悴しているのがわかる。もう限界という感じだ。

 申し送りを受けながら、ベッドに横たわる中畑さんという高齢女性に視線をやった。酸素マスクの隙間からくぐもった喘ぎ声が漏れている。眉間に皺を寄せて固く目を瞑ったまま苦しそうに胸を上下させている。息を吸って吐くという当たり前の行為がいかに奇跡的なことなのかとふと気づかされる。

 あろうことか、中畑さんの苦しげな表情が波に呑み込まれ水中でもがいている人々の姿と重なった。決して近づかないように心の一番奥の底にきつく鍵を掛けて閉じ込めておいたものがうっかり溢れ出でしまったような気持ちになる。胸が締めつけられ思わず涙が出そうになるのをぐっと堪えた。

「何かあったら、無理せずにコールしてくださいね」

「ありがとうございます」

「頑張ってね」

 先輩の看護師はそう言って自分の腕を軽く握ると部屋から出ていった。


 小一時間すると、激しかった中畑さんの呼吸が次第に収まっていくのがわかった。

 眉間の皺は消え、西向きの窓から差し込む夕陽が彼女の横顔を照らしていた。静かな澄んだ表情を浮かべている。

 何かを感じて体がこわばっているのが見て取れた。ナースコールを押そうか迷う。ただ、ボタンを押すとそれがきっかけで何かが起こってしまうような錯覚に囚われる。

 迷った末に、やはりボタンを押した。枕元の小さなスピーカーから、すぐに行きます、という声が聞こえた。

 ベッド脇に設置されたタブレットの画面には御家族の姿が何人か映っている。皆じっとこちらを見つめて何かを呟いている。オフになっていたタブレットの音声ボタンを押した。小学一、二年生くらいの男の子が何度も中畑さんの名を呼んでいる。男の子の母親らしき女性がハンカチで口元を覆いながら嗚咽している。

 布団の上に投げ出された中畑さんの手が動いた。何かを掴もうとしているらしい。腕を伸ばして皺だらけの掌を両手で握りしめた。御家族の代わりなのだ。微かに残るこの掌の温もりが画面の向こうまで届いて欲しいと精一杯祈る。

 ふと、中畑さんとのやり取りが目蓋の裏側に蘇った。

「あなたも大変だったの?」

 薬が効いて呼吸が落ち着いていたある午後、中畑さんはぽつりと言った。やさしい目をしていた。

「うちは母と弟が——」

「そう」

 中畑さんはどこかをじっと見つめていた。

「十五年——長かったような、短かったような」

「そうですねえ」

 ピピっ、ピピっと体温計が鳴った。検温表に数値を書き込んだ。

「うちはお父さん——」中畑さんはどこか嬉しげだった。「柄にもなく寂しがり屋でね。随分待たせてしまったわ。これでやっとそばに行けるのかしらねえ」

 返す言葉が見つからなかった。曖昧に首を振って微笑むことしかできなかった。

「頑張りすぎちゃ体に毒よ」

 中畑さんはそっと手を伸ばして何度も背中をさすってくれた。その皺だらけの掌がいま最後の温もりを自分の指先に伝えていた。

 不思議なことに、どこかからピアノの音が聞こえてくる。聞き覚えのある懐かしいメロディ。ショパン『別れの曲』だ。こんなときに病院のどこかで人がピアノを弾いているはずがない。きっと空耳にちがいない。

 でも——聞こえてくる。かすかだが、やはり聞こえてくる。

 中畑さんはうっすらと目を開けていた。彼女にもピアノの音が聞こえているのだ。目が微笑んでいる。幻聴でもいい。もう少しそのまま弾き続けてほしい。

 中畑さんの指先に微かに力がこもるのがわかった。いつの間にかじっとこちらを見つめている。静かな、きれいな目をしている。

 ありがとう、ありがとう。唇が二回そう動くのがわかった。

 気がつくと、ピアノの音はいつの間にか止んでいた。


 市内で立て続けに発生したクラスターはようやく落ち着いて、病院内はいくらか平穏を取り戻したようだった。結局全体研修は行われず、新人看護師たちはそのまま各診療科に配属されることになった。

 沙希は面接時に伝えた希望通り、小児科に配属された。

 小児医療センターこと小児科病棟は、西棟の六階から八階までを占めるかなりの大所帯だ。病棟入り口の壁には青々と葉の茂った大きな桜の樹が描かれており、アンパンマンやショクパンマンやバイキンマンたちが枝に腰掛けて楽しげに手を振っている。中に入ると天井一面が青空になっていて、いくつもの白い雲が浮かぶ。廊下の壁はアニメのキャラクターや動物たちで埋め尽くされており、病院というよりは保育園か幼稚園といった雰囲気だ。

 小児科看護師として初めての勤務となる日の朝。

 用意されたナースユニフォームに袖を通すと、化粧室の大きな鏡の前に立ってみた。この日のために切った短い髪が、アンパンマン・キャラのロゴで覆われたカラフルなスクラブとよく似合っている。新鮮な気分が全身に漲っていく。ようやくここまで辿り着いたのだ。心も体も、すべてが新品に生まれ変わった思いがする。ファイト、と呟きながらテレビ体操のお姉さんのように両手をあげて微笑もうとしたが、緊張のせいでうまく笑顔にならなかった。

 小児科ナースの一日は夜勤担当者からの申し送りから始まる。そのあとで各病室を巡回しながら検温し、必要に応じてバイタルサインを測定する。次に午前の処置が昼前まで続き、それから配膳および食事の介助を行う。そのあと交代で昼食休憩を取り、再び検温と午後の処置を行う。十五時になると子供たちにおやつを出し、必要に応じて御家族と面談し情報交換をする。一六時半に一日の看護記録を整理し、夜勤の看護師に申し送りをして一日の勤務を終える。

 初日は、救急外来で何度か顔を合わせていた佳奈とペアを組んで仕事をこなすことになった。心理的負担を減らすために、なるべく面識がある人と一緒になるよう取り計らってくれたのだろう。実際、佳奈なら気さくで話しやすい。スタッフの細やかな気遣いをありがたく思う。

 メモを取りながら佳奈のあとについて回る。緊張していたこともあって次から次へと目まぐるしく事が運び、午前中はあっという間に終わった。

 昼食休憩を経て午後になると少し気持ちに余裕が出てくるのを感じた。検温の巡回が終わると、何名かの病室を回って患児の経鼻胃管を交換するよう指示を受けた。口から物を摂取できない場合に、鼻にチューブを通して直接胃に薬や栄養分を送り込むのだ。チューブは定期的に交換する必要があった。

 最初の患児は小檜山大樹(こひやまだいき)という名の一〇歳になる男子だった。

「大樹君、おはよう。気分はどう?」

 佳奈が元気よく個室に入っていく。そのあとについて中に入る。少年はこちらに目を向けると一瞬嫌な顔をして、それから読んでいた本を閉じてベッド脇の床頭台の上に置いた。『ハリー・ポッターと賢者の石』だ。そうか、あんなふうに嫌な顔をされるのか、と内心ハッとした。

「さっすが大樹君、偉いねー」と佳奈が言う。「こちらは新人看護師の大須賀沙希ちゃん。今日から小児科になったの。仲良くしてあげてね」

「新米看護師の大須賀沙希です。よろしくお願いします」

 御辞儀をしながらそう言った。だが少年はこちらを見つめたまま何も言わなかった。薬が効いているのか、いくらか目がどろんとしているように見える。

「早いとこお願いします。いまちょうど面白いところなので」

 これが、沙希が耳にした大樹の第一声だった。まだ声変わりする前のいくらか甲高い声。滑舌のよさから少年の利発さが伝わってくる。

「オッケー。もう透明マント出てきた?てか、あたし映画しか観てないんだけどね」そう言って佳奈は大声で笑う。なるほどこれが佳奈の患児向けのキャラなのだと感心した。

「ネタバレざけんなよ」

 大樹はふて腐れた顔をして言った。そのキツい口調に思わず気持ちが尻込みしてしまった。小児科の子供たちは看護師のことを慕ってくれているという、考えて見ればあまり根拠のない思い込みが初日から見事に吹き飛んだ。この一〇歳の少年のことが怖いとさえ感じた。

「おお、悪い悪い」

 佳奈は少年の不平には取り合わず軽い調子で受け流した。そしてそんなやり取りの間にいつの間にかに彼の鼻からチューブを抜き取っていた。

「コツはね——」そう言って佳奈はこちらにチラリと視線を送る。「チューブを入れるときにこうやって頭を持ち上げて少し前に倒す感じ。そうすると食道に入りやすくなるから」

「なるほど」慌ててメモを取る。

「チューブが入りにくいときは先端部分を氷水に浸して固くすると入りやすくなる。最初はゆっくり挿入して、チューブの先が喉を過ぎたなと思ったらサササと素早く入れる」

「なるほど」

 佳奈の手際のよさに目を瞠った。

「もし肺のほうに行っちゃったら一度抜いて、少ししてまたやり直す。最初はドキドキするけど、二、三回やればすぐに慣れるよ」

 最後に頬にテープを貼ってチューブを固定し、経鼻胃管の交換はあっという間に終了した。ものの二、三分というところだ。

 部屋を後にする際、視線を感じて振り返った。大樹がじっとこちらを見ていた。思い切って胸元で小さく手を振ってみる。すると彼は窓のほうに身体を向けて布団を被ってしまった。手を振ったことを後悔した。

「大樹くん、難しいでしょ?」

 次の病室に向かう途中、佳奈が唐突に言った。

「先天性横紋筋肉腫」

「え?」

 センテンセーオーモンキンニクシュ?

 突然の耳慣れない言葉に、それが病名だと分かるまでにかなりの時間がかかった。しかも聞いたこともないような病名。難病かもしれない。

「ここまで抗がん剤治療で頑張って来たんだけど——」

 頭の中がうまく整理できないうちに佳奈は重たい情報を容赦なく浴びせてくる。

「お父さんはプロのアーティスト。小檜山隆(こひやまたかし)って聞いたことある?」

 佳奈は中途半端に色々なことを口にする。ここまで頑張って来たんだけど——その先が気になって仕方がないが、とりあえず、アーティストですか、と返事をする。

「うん。詳しくは知らないんだけど、地元で頑張ってるらしいよ。絵を描いたり、木を削ったりするのかなあ。めったに面会にも来なくて私もお会いしたことないのよ。ママはとっても素敵な人だけど——」

 そうこうしているうちに次の病室に辿り着いた。こちらは個室ではなく四人部屋だった。

「おっす、ケンちゃん」

 佳奈は手前のベッドで起き上がっていた患児に向かって拳を差し出す。男の子は嬉しそうにグーにした手を佳奈の拳に触れた。ゴールデンイーグルスのロゴがついた小さなグローブを手にはめてゴムボールを握っている。

「おっす、ケンちゃん」佳奈の真似をして手を伸ばしてみた。「大須賀沙希です。よろしくね」

 男の子は照れくさそうにはにかみながらこちらの拳にチョコンとグーをぶつけてくれた。何ともいえない柔らかな気持ちに満たされる。たったこれだけのことなのに心が洗われる心地がする。自分が少しずつ更新されていくのがわかる。

 残りの三つのベッドにはカーテンが引かれていた。佳奈は奥の窓際のベッドへと進み、失礼します、と言ってカーテンを引いた。

 次の患児は術後まもない四歳の女子だった。寝息を立ててよく眠っていた。付き添いのママらしき女性もベッドの上にもたれかかってうとうとしている。まだ若い。三十前後というところだろうか。眉間の皺が疲れを物語っている。

 ママは二人の気配を感じたのか、目を開けると、すみません、と言って体を起こした。それから、お願いします、と小声で言った。

「エミちゃん、ちょうど眠っちゃってますね。いまのうちにこっそりやっちゃいましょう」

 佳奈はそう言うと沙希の耳もとに顔を寄せて、

「エミちゃんね、すごーく怖がりなの」

 と囁いた。それから続けた。

「どう?ちょっとやってみる?」

「え、いきなりですか?」

 チューブ交換は成人患者になら何度かやったことがあった。でも患児相手は初めてだ。

「大丈夫。よく眠ってるから。いい練習になるよ」

 声が届いたのか、練習という言葉にママが反応し眉を顰めた。

「こちら今日から小児科になりました大須賀さんです」

「よろしくお願いいたします」

 ママに向かって御辞儀したが、向こうは軽く会釈しただけで何も言わない。不安そうな表情を浮かべている。

 佳奈に促されるままベッド脇に立って作業を始めた。まず顔に貼られたテープを剥がす。指先が女の子の頬に触れる。なんて柔らかいんだろう。感動を覚えつつチューブを引っぱると、スルスルと簡単に引き抜けた。

「いいよー、その調子」

 佳奈が軽い調子で言うが、ママは不安そうな表情を緩めていない。

 次に問題のチューブの挿入。うまく行きますようにと祈りながら、さっき佳奈が見せてくれたように患児の頭の後ろに手を回して少し持ち上げ、それに合わせて小さな鼻腔にチューブを差し込んだ。最初はゆっくりと、チューブの先が喉を過ぎたら素早く——。そう思ったところで熟睡していたはずの少女の瞳が熱せられた貝殻のようにパカッと開いた。

 次の瞬間、甲高い絶叫が響き渡った。

 あちゃー、という佳奈の嘆息が聞こえた気がするが、もうそれどころではなかった。少女は物凄い勢いで顔を左右に振っている。その勢いで喉元まで入りかかっていたチューブがあっという間に鼻腔から引き抜かれてしまった。

 少女は泣きわめきながら手足をばたつかせイヤイヤの仕草を続けている。布団がベッドからずり落ちた。するとカーテンが引かれている他のベッドからも同じくらい激しい叫び声が漏れ始めた。子供の恐怖心は簡単に伝染するのだ。見るとさっきグータッチした隣のベッドの少年も大粒の涙を流して叫び声を上げているではないか。頭の中が真っ白になって、引き抜かれたチューブを手にしたまま立ち尽くすしかなかった。

「エミちゃん、いい子にしてればすぐ終わるんだよー。わかってるよね?」

 佳奈が助け船を出してくれるが、少女は相変わらず手足をばたつかせて沙希を寄せ付けようとしない。

「仕方ないな」佳奈は小声で呟くと「ちょっと押さえててくれる?」と言った。

「はい」

 言われるままに泣き叫ぶ少女の体に覆い被さるようにして手足を押さえた。その隙に佳奈は女の子の左右の手をタオルでベッドに縛り付けた。

「あの、すみません、お母さんも片足を押さえていてもらえますか?」

 佳奈の言葉を無視するわけにもいかず、ママは迷惑そうな顔をしながら娘の足を押さえつけた。

「大須賀さん、いまのうちに、速く」

「はい」

 しっかりしろと何度も自分に言い聞かせる。パニック寸前のところでギリギリ踏みとどまる。

 暴れようとする少女の頭を手で押さえつけながら、チューブを鼻の穴に挿入した。きつく閉じられた眸から大粒の涙が零れ出ている。重たい黒い鉛のような重圧が腹の底に積もっていく感じがする。まるで自分が地獄からやって来た化け物か何かのように感じられる。相変わらず病室中に患児たちの泣き声が響き渡っている。ベッドに縛り付けられた少女の姿は拷問そのものだ。全身に重圧がのしかかり手先が震えた。さっきからママが苛立っているのが伝わってくる。そのせいで余計に焦った。焦るせいでなかなかチューブが喉を通ってくれない。

 そのうちにエミちゃんはゴホゴホと激しく咳き込んでしまった。チューブが食道から逸れて肺のほうに行ってしまったのだ。ママのほうからチッと舌打ちする声が聞こえた。その瞬間、必死に繋ぎとめていた糸が切れたように感じた。

「ごめんなさい」

 ママはすぐに謝ってくれた。申し訳ないのは勿論こちらのほうだ。自分のほうこそお詫びしたいのだが息が詰まって声にならない。舌打ちの音が耳元にいつまでも纏わり付いている。もう限界だった。

「ごめんごめん、まだちょっと早かったね」

 佳奈はそう言って背中をさすってくれた。

「私がやるから、悪いけどちょっと廊下に出ててくれる?怖い顔してると子供に伝染しちゃうんだ。ホントごめん」

 小さく頷くと握っていたチューブを佳奈に手渡した。それからエミちゃんママに向かって床に顔がつきそうになるほど深く頭を下げた。

 廊下に出た。頭の中は真っ白だった。大勢の人たちが忙しく動き回っているのに何の喧騒も耳に入ってこない。少し先のラウンジまでとぼとぼと歩いて壊れた人形のようにベンチにぺたんと腰を下ろした。その拍子に堪えていた涙が溢れ出た。

 意気地なし。これくらいのことでめそめそ泣くなよ。初めから全部うまくいったら誰も苦労しないではないか——。何度も自分に言い聞かせた。頭ではわかっているが涙が引いてくれなかった。少し前には幸福な気持ちに癒やされていたのに、次の瞬間には苦しみの底にたたき落とされる。ジェットコースターみたいだ、と思った。あのママが舌打ちする音が生々しく耳元で蘇った。両手で耳を塞ぎたい衝動に駆られる。

 ふと、視線を感じて顔をあげた。車椅子に乗った少年が人通りの激しい廊下の中央で止まって、こちらに目を向けていた。大樹だ。

 車椅子を押している私服姿の女性は恐らく彼の母親だろう。目が合うと、彼女は見知らぬ誰かに共感の気持ちを示すときの慎ましい笑みを目元に浮かべながら小さく会釈した。スクラブの袖で涙を拭った。それから腰をあげ、可能な限り陽気な笑顔をこしらえて頭を下げた。

 すると大樹がハンドリムに手を掛けて数メートル自走し、こちらのすぐ手前まで来て停止した。それから顔を見上げるようにして言った。

「大変でしょ、看護師って?」

 一瞬何を言われたのかわからず、ぽかんと彼の顔を覗き込んだ。口元にうっすら浮かぶ笑みを見て、涙の合間から笑顔が溢れ落ちた。無愛想で素っ気ない言い方だったが、予想外の慰めの言葉が嬉しかった。ありがとうと内心で呟きながら大きく頷いた。それだけに、次に続いた彼の言葉はひときわ深く胸に刺さった。

「もう懲りたでしょ?早いとこ撤収したほうがいいよ」

 それは励ましでも慰めでもなかった。その逆だった。

 しかも、彼が口にした撤収という言葉にいっそう深く傷つけられた気がした。ひどく場違いな冷たい言葉を、彼は自分を傷つけるためにわざと使ったのだ。

「看護師のなかで一番退職率が高いのって、小児科の看護師なんだって。ネットにそう書いてあったよ。ね?だから、早いとこ撤収しちゃおうよ」

 大樹はそう言い残すとハンドリムに手を掛け、車椅子をくるりと反転させて母親のところへ戻っていった。彼女はこちらに向かって再び会釈した。喧騒に掻き消されて、自分の息子が口にした言葉は彼女のところまでは聞こえなかっただろう。狼狽する気持ちを押し殺し、かろうじて彼女に向かって小さく頭をさげた。それから治療室のほうへ消えていく二人のうしろ姿を呆然と見送った。


 少しの間、ベンチに座って廊下を往来する看護師や患者をぼんやりと眺めていた。動揺はなかなか収まらなかった。看護師としての洗礼を浴びたことは理解できたが、どう気持ちの整理をつけたらいいのかわからなかった。いずれにしても、もう戻らなければならない。そう思って腰をあげた。するとポンと肩を叩かれた。振り返ると貴宏が立っていた。

「お疲れ」

 このあいだと同じように大きな笑みを浮かべている。慌てて居住まいを糺しながら、先日は失礼しました、応援を頼まれてすごく急いでいたものですから、といった趣旨のことを述べた。

「いいっていいって、そんなこと」貴宏は手を振りながら言った。「それより、アイツに何かキツいこと言われたのかい?」

「見てらしたんですか?」

 きっと自分が泣いていたところも見られていたにちがいない。顔が熱くなる。

「まあね」と貴宏は言った。「アイツのことは具に観察しているからね」

「アイツって——」沙希は口ごもった。「先生は——」

「そうか。まだちゃんと名乗ってなかったっけ」彼は大袈裟に背筋を正して見せた。「自分は外科医の佐藤貴宏です。小檜山大樹の主治医をしております。よろしくお願い致します」

 そう言って深々と御辞儀をした。

「主治医…」

「そう」貴宏は茶目っ気のある笑みを顔一杯に浮かべた。「驚いた?」

 この人は本当にいつ見ても楽しそうだ。この明るさはいったいどこから来るのかと訝しくなるほどだ。

 返事に窮していると彼は続けた。

「患児の主治医ってのは普通は小児科の医師がやるのだけど、彼はちょっと特別でね」彼の表情が不意に硬くなった。「骨肉腫って聞いたかな?けっこう重くてね。それでオレが外科から呼ばれたってわけ」

「そういうことだったのですね」

「アイツ、とんでもなく賢いんだけど、でもすげえ繊細で、すげえ難しいやつなんだ。なかなか人と打ち解けたりしない。だからちょっとびっくりした」

「どうしてびっくりなさるんですか?」

「ラウンジに座っている看護師のところに自分のほうから駆け寄って声をかけた。そんなの初めてだからさ」

「でも——」沙希は戸惑いながら言葉を探した。「あまり友好的な言葉ではありませんでした。どちらかといえば、非友好的というか」

 慎重に選ばれたその言葉を聞いて貴宏は笑った。

「非友好的か。それはなかなか上手い言い方かもしれん」

「看護師なんて早く撤収したほうがいいって、そう言われました」

「そうか。まずは右の頬を一発ビンタされたってわけだ」

 思わず苦笑した。撤収だのビンタだの、小児科勤務の初日に耳にするとは思いもしなかった言葉が次々と飛んでくるのがおかしかった。まるでどこかの戦場の最前線に送り込まれた兵士みたいだった。いや、実際そうなのだ。病院とはきっと戦場なのだ。そう思うと妙に納得した。

「で、どうする?」と貴宏は悪戯そうな笑みを口角に湛えながら続けた。「敵に右の頬を叩かれた。その次に、どうする?」

「敵——ですか?」

「うん。そう思っといたほうがいい」

「わかりました。そういうことなら——」沙希は顔をあげて言った。「敵に右の頬を叩かれたら、そのつぎは左の頬を差し出します」

 その言葉に貴宏は声をあげて笑った。正解ということなのだろうか。貴宏の返答を待ったが、彼はそれ以上何も言わなかった。

 いずれにせよ、やはりここは戦場らしい。それならそれで、こうなったら戦うしかない。そう思うと不思議と気持ちがスッキリした。

「ところで沙希ちゃん」貴宏が言った。また口角に笑みが零れている。「オレのこと、まだ思い出さないかい?」

 訊かれるのではと思っていた問いが案の上来た。

 このあいだ出会ったとき以来、思い出そうとしてずっと思い出せずにいるこの笑顔。この病院に就職してから出会った人々たちなどよりも、どこかずっと遠い昔から知っているような、そんな懐かしさを湛えたこの微笑み。この人が相変わらずの慣れ慣れしさで接してくるのも、きっと昔からの知り合いだからにちがいない。それなのになかなか思い出せずにいるのだ。いい思い出もつらい思い出も、みな一緒くたにして記憶の箱の中に仕舞い込んでしまったからだろうか。

「先生はたしか——」

「うん、たしか?」

「すみません。お会いしたことがあるのは覚えているのですけど——」

「そっか」

 貴宏は態とらしいリアクションをして頭を搔いた。

「ま、そのうち思い出すでしょう」

 そう言い残すと、彼は二人の後を追うように治療室のほうへ消えて行った。

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