第8話

 その晩、沙希は何ヶ月ぶりに天翔にメールを送った。

「天翔君、お久しぶりです。夜分にごめんさない。今日、譜面台の上にタクトを置き忘れていったよ。明日渡すので、予行練習が終わったら屋上に来てもらえますか?」

 天翔からはすぐに返信が来た。

「沙希ちゃん、本当にお久しぶりだね。タクト、うっかりしていたました。ありがとう。わかった、絶対に行きます。久しぶりに沙希ちゃんと話ができるのが楽しみです」

 信じられない気持ちで、夜が更けても何度も何度も彼の返信を読み返した。いつまで経っても涙が止まらなかった。朦朧とした意識のなかで、タクトを握り締めたまま眠りに落ちていった。

 そして翌日。卒業式本番前の最後の全体予行練習が終わり、体育館から教室へ戻ったときだった。

 鞄の奥にしまっておいたはずのタクトがなくなっていた。心臓は破裂寸前だった。それから自分に対する激しい怒りが押し寄せた。なぜ肌身離さず体育館まで持っていかなかったのだろうか。この数ヵ月、自分がどういう立場に置かれているか、嫌と言うほど味わってきたというのに——。

 だが、後悔しても後の祭りだった。

 沙希は咄嗟にクラスメートたちの様子を覗った。真っ先に脳裏を過ぎったのはレイコだった。だが彼女は予行練習のあいだ間違いなくずっと体育館にいた。沙希のすぐそばの列にいたのでそのことはよく覚えていた。練習中、彼女がその場を離れた記憶も特になかった。

 その日、朝から登校していないクラスメートが数名いた。予行練習の途中、御手洗いに行った生徒たちも何人もいた。その中には、レイコと親しい一軍の生徒たちが何人か含まれていた。そのうちの誰かが教室に立ち寄って、沙希の鞄からタクトを抜き取るのは容易いことだった。

 ふと沙希の視線が一人のクラスメートの背中でとまった。

香苗だった。

 そういえば、香苗は今日、遅刻して途中から練習に加わっていた。まさか——。

 もう考えるのはよそう。ひょっとすると、朝、鞄に入れたつもりで実は自分の部屋に置き忘れてきたのかも知れない。咄嗟にそんなことを考えた。

 それよりも、早く天翔に知らせなければならない。

 体育館から戻った天翔は、いつものように一軍の生徒たちに取り囲まれて話をしていた。沙希はケータイを取り出すと急いでメールを打った。

「円谷君、ごめんなさい。ちょっと急用ができてしまって、これから急いで家に帰らないといけなくなりました。タクトは明日でも大丈夫ですか?明日の午後三時に屋上で会えますか?」

 送信ボタンを押して祈るようにして天翔の背中を見つめた。ほどなくして、彼はポケットからケータイを取り出して何かを打ち込み始めた。そして沙希のケータイ画面に通知が表示された。

「沙希ちゃん、大丈夫?明日の三時、了解です。実は僕も沙希ちゃんに話したいことがあります。明日、必ず待ってます」

 天翔は椅子から立ち上がると、さりげなくこちらへ視線を向けた。彼は不安げな表情を浮かべながら一軍のクラスメートたちと教室から出ていった。

 ごめんなさい——沙希は心の中で呟いた。きっと情けない顔をしているにちがいない。彼のものを盗っただけでなく、嘘までつくはめになってしまった。いつの間にかズルズルとダメ人間に転落していく自分を全取っ替えしたい衝動で全身が震えた。

帰宅すると、沙希は家中を隈無く探した。見つからないのはわかっていた。ただ単に、誰かに盗られたという現実から逃れるためにそうしているだけだった。

 焦りが募り始めた。気がつくともう零時を回ろうとしていた。そしてふとある考えが浮かんだ。せめて買って返したらどうだろうか。

 沙希はケータイでタクトを検索し始めた。安いものなら千円も出せば手に入るようだった。けれど、天翔のあの白いタクトはどう見ても安物には見えなかった。グリップにはT・Tというイニシャルまで入っているのだ。おそらく特注か何かの高価なものにちがいなかった。

 沙希は財布の中を覗き、それから貯金箱の中身をチェックした。合わせて千円程度にしかならなかった。溜息が漏れた。そんな安物を天翔に渡すのは気がひけた。第一、駅前の楽器店にそれで買えるタクトが置いてあるかもわからなかった。天翔に会う前に、とにかく行き当たりで行ってみるしかなかった。

 ふと隣の部屋からパソコンを叩く音が聞こえてきた。

 兄の拓哉はまだ起きているらしかった。たしか彼の高校でも、明日、卒業式の最後の予行練習が行われるはずだった。兄は卒業式総代で、式辞を読むことになっていた。

 沙希は忍び足で部屋から出ると、拓哉の部屋のドアをノックした。

「お兄ちゃん、まだ起きてる?」

 カチャカチャとパソコンを叩く音が聞こえてくるが、返事はなかった。

 もう一度ノックしてみた。すると少しして音もなくドアが開き、拓哉が顔を出した。ひどく動揺した表情をしていた。

「どうした?なんか用か?」

「ごめん。悪いんだけど、お金を貸してもらえないかと思って。お小遣いで必ず返すから」

「お金?珍しいな。いくら?」

「いくらでも…多いに越したことはないっていうか」

 拓哉は変な顔をして沙希を凝視した。それから、

「ちょっと待ってろ」

 と言って顔を引っ込めた。ガサガサと何かを探しているような物音が聞こえた。ドアの隙間から机の上のパソコン画面がうっすらと見えた。拓哉は数年前からオンラインのヘルプラインをやっていた。ちょうどその相談を受けていたところのようだった。

 少しして拓哉が再びドアの隙間から顔を出した。

「いまこれしかないな。足りるか?」

 差し出された掌には千円札が三枚乗っていた。

「こんなにいいの?」

 拓哉は頷きながら紙幣を握った手を差し出した。

「ありがと」

 紙幣を受け取り部屋へ戻ろうとすると、拓哉が言った。

「沙希、お前のところは今日予行練習だったんだよな?」

 沙希は振り返って頷いた。「うん、やったよ」

「お前、ピアノの伴奏どうだったんだ?うまく弾けたのか?」

「うん。緊張したけど、普通に弾けたよ」

「そうか。で、指揮はやっぱりあの子がするのか?」

「あの子って…」

「えっと、なんて言ったっけ」

「円谷君のこと?」

「ああ、そうそう」

「うん、するよ」

「あの子は本当にすごい子だな。この前も新聞に出てたしな」

 沙希は曖昧に微笑んだ。なぜ兄がいまこのタイミングで天翔の話をしてくるのかよくわからなかった。

「頑張れよ」

 拓哉はそう言い、ドアが閉じられた。


 翌朝、沙希はいつもより早く目が覚めた。お金のことが気になって、一晩中眠りが浅かったようだ。ネットに出ていたワンランク上のタクトを買うにはまだ数千円足りなかった。朝一番に母の明子に小遣いを前借りできないか訊こうと思っていた。

 ベッドから抜け出して窓のカーテンを引いた。春の朝日が目に眩しかった。海を見渡すと水平線が輝いていた。いい天気になりそうだった。

 それからふと人の気配を感じて、窓の下の方に視線が吸い寄せられた。

 自宅の庭には、民家には珍しく桜の木が一本植えられていた。花が咲くのはまだだいぶ先だったが、枝には固く結ばれた蕾がもういくつも芽吹いていた。その桜の枝の編み目の向こうに明子が佇んでいた。

 それは大須賀家でずっと前から続いている習慣のようなものだった。明子は時々そうやって、桜の木の下で佇んでいることがあった。どうやらそれは彼女が勤務する病院での出来事と関連しているらしかった。

 明子の後ろ姿はどこまでも哀しげだった。もしこの世に哀しみという色があるとすれば、その後ろ姿は哀しみ一色に染まっている——そんな感じがした。彼女はいつも桜の幹に手をついて、海を見つめながら微かに肩を震わせていた。

 沙希は服に着替えると、下に降り洗面所で顔を洗った。それからキッチンに行った。

 明子はもうすでに流しの前に立っていた。ダイニングテーブルでは拓哉がちょうど朝食を食べ終えたところだった。

 拓哉がキッチンから出て行くと、沙希は言った。

「お母さん」

「なあに?」明子は洗い物を続けながら言った。

「お小遣いを前借りしたいんだけど…」

「また?」明子は顔をあげて振り返った。「あなた、この間も前借りしたじゃない」

「わかってる。でもどうしても必要なの」

「前借り前借りって、もう何ヶ月も先まで借りてるんだから——お母さん、破産しちゃうわよ」

 明子はそう言ってエプロンで手を拭くと、バックの中から財布を取り出した。

「もう本当にこれで最後よ」

 彼女は財布の中から千円札を一枚抜き取って差し出した。

 千円ではまだ足りなかった。素直に受け取るか、迷った。

「なによ。要るんでしょ?」

「ごめん」と沙希は言った。「三ヶ月分、まとめて前借りできないかな?」

「そんなに?」明子は驚いた様子で言った。「何に使うの?お母さんも今月いろいろあって、けっこう大変なのよ」

 天翔に安物のタクトなんか渡したくなかった。どうしてももう一つ上のものを買いたかった。そう考えて体が固まってしまった。

「これでいいでしょ?ほら、速く。要らないの?」

「ずるいよ」

「え?」

 言ってはいけないと思いつつ、声が漏れてしまった。もう止まらなかった。

「ずるいよ、お兄ちゃんばっかり」

「え?」明子は驚いた様子で繰り返した。「何がずるいの?お兄ちゃんばっかりって、どういう意味?」

「いつもお兄ちゃんばっかり何でも言うこと聞いてるじゃん。パソコンも買ってあげたり、お兄ちゃんの言うことならいつも何だって聞いてあげてるじゃん。卒業式だって、お兄ちゃんのには行くくせに、私のには来てくれないし。お母さんはいつもお兄ちゃんばっかりだよ」

「だって仕方がないでしょ?お母さん、二日も連続で病院を休めないのよ。あなただって、代わりにお父さんが来てくれるならいいって、そう言ってたじゃない?いまさら何を言ってるのよ」

「連続で休めないっていうから、渋々そう言っただけだよ」

「そうだったの?なんでもっとちゃんと言わないのよ」

「言ったって、どうせお母さんはお兄ちゃんのほうに行くってわかってたから…」

「だって仕方がないでしょ?お兄ちゃん、総代なんだから、見に行ってあげなきゃお兄ちゃんが可哀想でしょう?」

「ほら、やっぱり」沙希は零れそうな涙を堪えながら無理やりに笑いを浮かべた。「お母さん、自分で矛盾してるのわからないの?馬鹿みたい」

 明子は大きな溜息を漏らした。

 台所に立ち尽くす二人の間に、大きな沈黙が木霊した。途端に、沙希の胸に後悔の念が押し寄せた。酷いことを言ってしまった。謝るならいましかなかった。だがどういうわけか言葉が出てこなかった。

 少しして明子が沈黙を破った。

「ほら、要るの?要らないの?どっち?」

 珍しく投げやりな言い方だった。彼女も意固地になっているようだった。

「どうしてもダメ?あと二ヶ月分?」

 明子は顔をあげ、きっぱりとした調子で言った。

「ダメ」

 子供っぽい反応であることは自分でもよくわかっていた。だが込み上げる衝動を堪えることができなかった。

「けち」

 吐き捨てるようにそう言うと、沙希はキッチンを飛び出した。まさかそれが母に向かって口にする最後の言葉になるなんて夢にも思わなかった。


 鬱屈した気持ちのまま、あっという間に午前中が過ぎた。朶先生からクラス全員に最後の通信簿が授与されて、小学校最後の日はあっけなく終わった。

 登校して門を出るまで、沙希は一人きりだった。話しかけてくる者は誰一人いなかった。天翔とは一、二度目が合って、密かに午後の約束を確認し合った。もうそれだけで十分だった。教室内の喧騒も、どこか遠くから聞こえてくるBGMのようだった。もしかすると、クラスメートたち全員が見て見ぬ振りをしながら、本当はタクトがなくなってパニックに陥っている自分のことをあざ笑っているのかもしれない——そう考えると恐ろしくて仕方がなかった。相変わらずこちらに背中を向けたままの香苗の後ろ姿を見ると、キリキリと胸が痛んだ。

 下校時間になって門を出た。ちょっと体が軽くなった気がした。深呼吸を一つすると、沙希は駅前の商店街に向かった。楽器店にはピアノの楽譜を買いに行ったことは何度もあったが、指揮棒を目にした記憶はなかった。だがとにかく行ってみるしかなかった。

 店内に入ると、いつもの癖で数台並んだピアノの前を通りすぎて、楽譜売り場のほうへ足が向かった。キョロキョロと辺りを見まわしていると、年配の男性店員が近寄って来た。

「何かお探しですかね?」

「あ、はい」と沙希は言った。「指揮棒はありますか?」

「指揮棒ね。ええ、ありますよ。こちらです」

 男性店員は愛想良く微笑むと店の奥のほうへ案内してくれた。いつもはあまり足を踏み入れたことのない一角の棚に、ささやかな指揮棒のコーナーがあった。

 見ると、鉛筆立てのようなケースの中に、まるで食堂の割り箸のように何本もの白いタクトが入れられていた。見るからにプラスチックとわかるパッとしない代物だった。

「よかったら手に取って見てくださいね」

 じっと見つめているだけの沙希に向かって男性店員は言った。

 これを買って天翔に渡しても何の意味もない——内心そう思っていると、男性店員が続けて言った。

「あまりお気に召さないようですかね?では、こちらのはどうでしょう?」

 彼はそう言って、奥にある小さなショーケースのほうへ視線を促した。

 目を向けると、ガラスの向こうの赤い敷物の上に、美しいフォルムをした白いタクトが数本並べられていた。グリップの部分はコルク製だろうか。イニシャルこそなかったけれど、天翔のタクトとよく似ていた。

「ドイツ製です。少々お値段がはりますがね、プロの指揮者も使っている方が多いんですよ」

 沙希の視線は咄嗟に値札に向けられた。驚くほど高価な値段ではなかった。ただ——すかさず頭の中で計算が始まった——あと、ちょうど千円くらい足りなかった。朝、明子からあの千円を受け取っていれば買えた値段だった。

 胸のうちで深い溜息が漏れ、途方もない後悔が打ち寄せた。それからすぐに遣り場のない怒りがこみ上げ、自嘲の念が後に続いた。

 いまから病院へ行って明子に謝り、千円をもらって戻ってくるべきだろうか。そんな時間はとてもなかった。明日またお金を持って出直してくればいいのではないか。だが次にいつ天翔に会えるのかもわからなかった。郵送で送るのはどうだろうか。沙希は彼の住所を知らなかった。いっそ家まで届けに行けばよいのでは?ただ、きっとまたインターフォンを押せずに帰ってくるに決まっていた。郵便ポストに入れるのはどうだろう?そんなのダメだ。彼に直接会って渡すのではなければ何の意味もない。そうだ。今日これからあの屋上で、二人にとって思い出のあの場所で、彼に直接手渡しするのでなければ何の意味もない。

 やはり今ここでこのタクトを手に入れるよりほかにない。お金は明日必ず持ってくるからと言ってお願いするのはどうだろうか。いま払える分だけ払っておいて、足りない千円分だけ明日持ってくると言ってみたらどうか。このやさしそうな店員ならきっと受け容れてくれるのではないか。そんな気がする。

 沙希はすぐ隣でこちらの様子を覗っている店員の様子を密かに覗った。

「あの…」

 沙希は口を開いた。するとそのとき店のドアが開く音がした。

「ちょっと失礼」

 そう言って男性店員はその場を離れて、ドア口のほうへ行ってしまった。立派なスーツを着た年配の男性客が入って来て、男性店員に手をあげて挨拶をした。店員は男性に向かってペコペコと何度も頭を下げた。自分への接し方とはまるで別人のようだった。どうやら知り合いの客らしかった。

 店員はなかなか戻って来なかった。男性客は店員に向かって延々と何かを語っていた。「娘の卒業祝いに」「このあいだお願いした」——そんな言葉が聞こえきた。時折笑いを交えながら、二人は楽しそうにお喋りを続けた。話が終わりそうな気配はまるでなかった。

 沙希は時計に目をやった。もうそろそろ戻らないと天翔を待たせてしまうかもしれない。真っ青な三月の冬空の下で、彼が凍えて風邪でも引いたらそれこそ目も当てられない。万が一、彼が明後日の卒業式に出られなくなったりしたら——。

 もう諦めよう。諦めて、すべてを告白しよう。つい出来心でタクトを鞄にしまってしまったこと。本当は昨日返すつもりでいたのに、予行練習のあと教室へ戻ると鞄の中からタクトが消えていたこと。せめて代わりに買って返そうと思ったけれど、お金が足りずに買えなかったこと。すべてをありのままに打ち明けよう。そして彼の赦しを乞おう。彼がどんな反応をするのかはわからない。だがそれが自分にできる最善の道のような気がする。きっとそうだ。

 沙希は指揮棒売り場をそっと離れ、楽譜の棚の後ろを通り抜けて店のドア口へ向かった。

 音を立てないようにそっとドアを押し開けると後ろから声がした。

「あ、お嬢さん」

 沙希は振り返った。男性店員がこちらに向かって手をあげていた。男性客も一緒にこちらを見ていた。

「あのタクト、よろしいんですか?」

「あ、はい。大丈夫です」と沙希は言った。

「もしなんでしたら、御代金は後でも——」

 思った通りだった。男性店員はとっくに自分の胸のうちを見抜いていたのだ。もっと早く言っていてればよかったのだ。

 でも、もういい。もう心のうちは決まっていた。男性の温かさがわかっただけで十分だった。

「ありがとうございます。でも本当に大丈夫です」

 沙希はそう言って御辞儀をした。それから楽器店を後にした。


 学校へ向かう途中、涙が溢れてきて頬を伝った。

 涙の意味はわからなかった。一つはっきりしているのは、それは悲しみの涙ではないということだった。嬉しいというのともちょっと違った。何か温かい大きなものに包まれたときに流れる涙——そんな気がした。

 ふと頭の中に、ピアノの音が流れ始めた。もうすっかり暗譜している譜面が脳裏にちらつき、無性にサン=サーンスの『Le Cygne』が聴きたくなった。

 沙希は鞄の中からプレーヤーを取り出すと、イヤフォンをつけてボタンを押した。ピアノが流れ出し、十六分音符が奏でる光の珠がきらきらとさざめく湖の水面を転がり始めた。

 深い森。静まりかえった湖畔。微かに渡る風。水はどこまでも碧く深い。

湖の底から、光り輝く水面めがけて無数の水泡が昇っていく。やがて主旋律が始まり、一羽の白鳥が水の上を滑っていく。

 傷ついた白鳥は相変わらず戸惑っている。飛び立つべきか、地上にとどまるべきか。痛んでいた羽はもうとっくに直っている。一条の勇気さえあれば、もう不可能なものは何もない。ただ勇気さえあれば——。

 商店街を抜けて川沿いの一本道に出た。本町第二小が正面に見えた。六年間、毎日歩いた通学路。天翔のことが気になり始めて、香苗に嘘をついて遠回りをした裏道。毎朝、擦れ違うたびに何となく互いを意識して目を合わせたT字路。

 蒼い空の下に、屋上のフェンスが霞んで見えた。

 もう少しで辿り着く。あの思い出の場所に——。

 ピアノが後半に差し掛かって主題を繰り返すと、ふと彼の温もりが蘇った。

 片方ずつイヤフォンをつけて聴いた『別れの曲』。彼は両手で頬を包み込みそっとイヤフォンをつけてくれた。彼の匂い。彼のあの独特の近さ。二人で覗き込んだ『Le Cygne』の譜面。頭の中で彼の指揮に合わせて奏でた『Le Cygne』のメロディ。拍子を刻む彼の白い指先。そして、彼と初めて薬局で出会ったときの驚きと戸惑い——。

 懐かしかった。ほんの数ヵ月前のことだなんて、本当に信じられなかった。

 ようやく小学校の正門に入り、校庭を横切って玄関口に辿り着いた。

 校舎内は閑散としていた。校庭にも屋内にもまるで人影がなかった。リピートにしたままの『Le Cygne』のピアノ演奏が頭の中で鳴り続けていた。下駄箱の壁に設置された時計を見ると十四時四十五分を指していた。約束の時間にはなんとか間に合った。彼はもう屋上に来ているのだろうか。

 それから沙希は、いつもの癖で自分の下駄箱の蓋をあけて覗き込んだ。中は空だった。上履きはもう前の日に家に持ち帰ってしまったのを忘れていた。

 ふと、嫌な記憶が蘇ってきた。

 天翔と屋上で会った日の帰り、職員室で朶先生から『別れの曲』の楽譜をもらい、急いで家に帰って練習しようと意気込んでいた矢先のことだった。爪先に走ったあの痛みが蘇ってきた。靴の中から転がり落ちてきた小さな画鋲。こんなに小さくてたわいのない物が、それほどまでに深く鋭い痛みをもたらすことへの戸惑い——。思えば世界がモノクロの無声映画のように遠くに退き、無観客のスクリーン画面のようになってしまったのは、この下駄箱からだった。

 沙希は簀の子の上で靴を脱いだ。そのまま廊下にあがるのは気がひけた。だがこのままここに靴を脱ぎ捨てていくのも違う気がした。念のため、下駄箱に入れて置こう。そう思って床に手を伸ばした。どうしてだろう?妙に体のバランスが乱れている。靴を取ろうと体を前に倒しただけで、どうしてこんなにぐるぐると目が回るのだろうか。

 まるで遊園地の新しいアトラクションに乗っているようだった。頭の中ではゆったりとしたピアノの音が流れ続けていた。『Le Cygne』のやさしいメロディに合わせて、天翔との眩しい思い出が脳裏を駆け巡っていた。

 立っていられなくなって、簀の子の上にしゃがみ込んだ。目の前がぐるぐると回転していた。木製の下駄箱が、音もなく、次々と倒れていった。ファンタジー映画のクライマックスシーンのようだった。

 自分の頭上にも下駄箱が倒れかかってきた。だが何かに引っ掛かってちょうど頭の上で止まったらしかった。玄関口の窓ガラスがお煎餅のように、音もなく、ぱりぱりと割れて床の上に零れ落ちた。

 十六分音符の奏でるピアノの旋律が、水面を流れる光の珠のように流れ続けていた。一条の陽の光がどこかから差し込んでいて、粉々に砕け散ったガラスの破片をきらきらと照らしていた。美しかった。このまま死ぬのかなと思った。不思議なくらい安らかな気持ちだった。

 揺れは長かった。このまま永遠に揺れ続けるのだろうか。そう感じるくらい長かった。ようやく収まった後も、沙希は床の上にしゃがみ込んだまま、しばらく放心状態で『Le Cygne』のピアノの旋律に耳を傾けていた。

 それからようやくポケットに手を伸ばして、プレーヤーの停止ボタンを押した。そして恐る恐る、倒れかかった下駄箱の隙間から這い出した。

 ピアノの音が止んだ世界はシュールだった。玄関口のあらゆるものがあちこちに転倒していた。校舎の壁の至るところがひび割れ、階段口の壁に飾ってあった浜辺を犬と散歩する絵も、床に落ちてガラスの破片にまみれていた。

 円谷君——脳裏に咄嗟に浮かんだのは彼のことだった。

 大丈夫だろうか。もう屋上に来ているのだろうか。とにかく早く連絡をとらないと——。

 沙希は立ち上がって、転がっていた靴を履いた。それからケータイを取り出そうと鞄を探した。だがすぐそばに置いておいたはずの鞄がなかった。幾重にも倒れかかって重なり合っている下駄箱の隙間を覗き込むと、少し離れたところに鞄が転がっているのが見えた。手を伸ばしても届く距離ではなかった。隙間は狭すぎて入り込めそうもない。鞄を取るには、倒れかかった下駄箱をいくつもどかす必要があった。そしてどう見てもそんなことはできそうもなかった。

 ケータイなんか放っておいて、早く屋上へ行ったほうがよいのではないか。

 そう思い、沙希は玄関口を後にしかけた。しかしまた別の考えが頭を掠めた。

 でももし彼がまだ屋上に来ていなかったら、どうやって連絡を取るのか。

 沙希はもう一度下駄箱の隙間を覗き込んだ。何か長い棒きれのようなものがあれば鞄を手繰り寄せられるかも知れない。ふとそんな考えが頭を過ぎった。

 転倒した下駄箱の合間を抜けて、沙希は玄関から外へ出た。それから校庭を見まわした。何かないだろうか?校舎の建物に沿って校庭を周り始めた。花壇の前を通り過ぎ、鉄棒の前を通り過ぎた。次第に小走りになって、校庭を取り囲む壁に沿って、正門の辺りまでぐるりと半周した。

 何も見つからない——そう思ったときだった。正門の外を見ると、歩道を舗装する工事中の看板に白いペンキが塗られた棒状の角材が一本立てかけられていた。周囲には誰もいなかった。いったい何の棒だろう?細かいことを考えている余裕はなかった。沙希は路上に走り出ると角材を手に取った。そして再び正門を通り抜けて玄関口に向かって走った。木材は思いのほか重く、角ばった先端が指に食い込んで痛かった。でもそんなことを気にしている場合ではなかった。

 下駄箱に戻ると、隙間から棒を差し込んでみた。思ったとおり、ちょうど鞄に届く長さだった。ストラップに角材の先端を通してこちらへ引っぱってみた。鞄は動かなかった。どこかが簀の子か何かにひっかかっているらしかった。

 心が折れそうになった。だがここまでやって諦めるわけにはいかなかった。どうしたらいいのだろうか。

 ふと手を止めて、重なりあった下駄箱の反対側のほうへ回ってみた。やはり手の届かないところに鞄が見えた。試しにこちら側から角材を伸ばしてみた。ストラップに棒の先がうまくひっかかった。そのまま慎重にこちらに手繰り寄せてみた。すると、鞄はするするとすぐそばまで近寄ってきた。棒を置いて手を伸ばすと、ストラップの端をようやく掴むことができた。

 安堵の溜息が漏れた。沙希はすぐさま鞄を開けてケータイを取り出した。

 いったい何分くらいかかったのだろうか。ケータイを開くと、待ち受け画面には15:03と表示されていた。

 お願いだから無事でいて——。

 そう願いながら、沙希は手短にメッセージを打ち込むと急いで送信ボタンを押した。画面上に砂時計のアイコンが現れ、送信中、という画面になった。

 そのままじっと待った。だが砂時計は点滅を繰り返すだけで、なかなか送信完了になってくれなかった。思わず悲鳴をあげそうなほどの焦燥に駆られた。

 ——お願い。

 しかし砂時計はいつまで経っても点滅を繰り返すだけだった。画面上のアンテナを見ると、一番小さなマークが点いたり消えたりを繰り返していた。

 沙希は泣きたくなるような気持ちを堪え、ケータイをポケットに仕舞って立ち上がった。もう直接屋上まで行ってみるしかない。そう思い、いろんな物が滅茶苦茶に散乱した廊下の上に靴を履いたまま足を踏み出した。そして一階の階段口から上を目指して階段を昇り始めた。

 校舎内は異様なほど静かだった。その静けさが怖かった。さっきの揺れで世界はすでに終わってしまったのではないのだろうか。もうこの世界に残っているのは自分だけなのではないだろうか。

 感じたことのない奇妙な孤独を感じた。耐えきれず、再びイヤフォンをつけてプレーヤーのボタンを押した。こんなときなのに、いや、こんなときだからこそまた『Le Cygne』が聴きたくて、リピートボタンを押して、ゆっくりと階段を昇り始めた。

 ピアノの音が流れ始めた。

 きっと、いる。

 彼は、きっと、いる。

 心の中で何度もそう呟きながら階段を上がっていった。二階を過ぎて三階まで辿り着いた。屋上へ向かう踊り場には、用のない者の立ち入りを禁ず、というプラカードが倒れて床に転がっていた。沙希はその脇を擦り抜けて最後の階段を昇り始めた。

 もうすぐ、彼に会える。

 きっと、会える。

 きっと——。

 そう思うと体がバラバラになりそうだった。胸がいっぱいになって、熱いものが込み上げて来た。瞬きをしたら涙が溢れ出しそうだった。必死で堪えて階段を上がっていった。

 三階と屋上階を繋ぐ最後の踊り場に辿り着いたときだった。

 ポケットの中のケータイがブーンと振動したような気がした。沙希は立ち止まってケータイを取り出した。

 画面を開いた。不思議なことにアンテナがすべて立っていて、待ち受け画面にメール着信の通知が表示されていた。天翔からだった。

 沙希は言葉を失った。恐る恐るメッセージを開いた。

「沙希ちゃん、大丈夫?津波警報が出てるから屋上はやめて公園で待っています。気をつけて」

 狐に抓まれたような気持ちだった。沙希は屋上までの最後の二十段ほどの階段を見上げた。

 両側をコンクリートの壁に囲まれた空間は、いつものようにハッとするほど暗かった。そしてその暗闇を昇り詰めた先から眩ゆいほどの大量の光が注ぎ込み、開かれたドアの向こうの遠く彼方にクレヨンで書きなぐったような冬空の青が浮かんでいた。

 戸惑いは最高潮に達した。頭の中では、『Le Cynge』の美しいメロディが流れ続けていた。

 きっと、あなたはそこにいる。

 すぐそこに、きっと、いる。

 こんなに強く、そう感じている。

 なのに、そこにはいない、とあなたは言う。

 沙希はドアの向こうに広がる空の青さに目を細めた。

 どうしてだろう?

 よりによってこんなときに、初めてあなたのことが信じられない。

 そう心が叫んでいる。

 もうあと二十段の階段を一気に駆け上がって、屋上に飛び出したい衝動で全身が震えている。

 どうしてあなたのことが信じられないんだろう?

 本当に自分が嫌になる。ねじ曲がった自分の性格がどうしようもなく嫌になる。

 沙希はもう一度メッセージを眺めた。それから再び屋上のドアを見上げた。

 彼の言葉を、信じるの?信じないの?

 ねえ、早く。

 どっちなの?

 たまりかねてプレーヤーの停止ボタンを押した。そのときだった。遠くのほうからどこか機械的な聞き慣れない音声が聞こえてきた。

「津波警報が発令されています。海岸周辺にいる人は至急高台に避難してください。繰り返します——」

 そして下のほうから誰かの声がした。

「大須賀さん?」

 沙希はハッとして振り帰った。三階の階段口から朶先生が驚いた様子でこちらを見上げていた。

「そんなところで何をしているの?聞こえたでしょう?津波警報が出ているんですよ。さあ、早く避難しますよ」

「はい。でも…」

 でも、体が動かない。

 沙希はもう一度屋上のドアを見上げた。

 本当に、あなたは、そこに、いないのですか?

 本当に、そうなのですか?

 もう、あなたのことが、信じられません。

「大須賀さん、何をぐずぐずしているの?屋上に誰かいるの?」

 沙希はぼんやりと朶先生のほうに視線を戻した。すると三階の踊り場の窓から遙か向こうの校庭の様子が目に入った。いままでどこに居たのだろう?かなりの数の生徒や教師たちが小走りで避難しているのが見えた。

「いえ、誰もいないと思います」

 沙希はそう呟くと、涙が零れ落ちそうになるのを堪えて階段を下り始めた。

 

 川沿いの通学路から商店街の中へ入っていくと、避難警報を聞いて着の身着のまま飛び出してきた人々で通りはごったがえしていた。

 沙希は歩きながらひっきりなしにケータイ画面をチェックした。相変わらずアンテナの表示は消えたままだった。いつの間にか、少し先を歩いていたはずの朶先生とも逸れてしまった。

 商店街を抜けて、高台の公園に向かう上り坂の入り口に差し掛かったところだった。十字路の反対側からこちらに向かって一台の自転車が近づいてきた。

 沙希は顔をあげた。

「お母さん?」

 コートの下から白衣がのぞいていた。病院から抜け出してきたということだろうか?あれほど患者思いの明子が、なぜ自分だけ病院から抜け出して来たのだろうか?不可解な気持ちが押し寄せた。だがそんなことはいまはどうでもよかった。それよりも、今朝の口論のことを早く謝ってしまおう。内心ずっとそのことが気になっていたのだ。

 自転車が近づくにつれて、明子がこれまで目にしたことのないような険しい形相を浮かべているのがわかった。それはそうだ。あんな大きな地震に見舞われたのだから。弟の友哉がバックシートに座っているのが彼女の肩越しに見えた。保育園に寄って引き取って来たらしい。

 自転車は目の前まで来て停まった。

「お母さん」と沙希は声をあげた。「今朝は…」

「タッちゃんは?」

え?

「拓哉は一緒じゃないの?」

 一瞬、頭の中が真っ白になった。謝罪しようと思った言葉は呆気なく遮られてしまった。そして彼女の口から出てきた第一声は自分のことではなかった。

 やっぱり母の頭には兄のことしかないのだ——。

 こんなときにショックなんか受けている場合じゃない。それはよくわかっている。でも——。

「連絡はとったの?」

 明子は険しい表情で畳みかけるように言った。

「お母さん、うっかり病院にケータイを忘れて来ちゃったのよ。あなたのケータイ、ネットに繋がるの?タッちゃんと連絡は取れたの?」

 たった一言でよかった。たった一言、あなたは大丈夫と言ってくれれば、そのたった一言で救われた。

 しかし彼女だって人間なのだ。あんなに大きく世界が揺れた直後なのだ。誰だって気が動転していて当たり前なのだ。頭ではわかっている。でも——。

 胸が詰まって声が出なかった。声を出したら涙が溢れ出そうだった。

 沙希は首を横に振った。

「やっぱり繋がらないのね?お母さん、ちょっとタッちゃん探してくるから、あなたは先に公園に行ってて。いい?」

 べつに彼女に悪気はないのだ。母親ってそういうものなのだ。娘より息子のほうが可愛いだけなのだ。母親ってみんなそういうものなのだ。

 沙希は頷いた。それから手に持っていたケータイの画面を一瞥した。するとアンテナが全部立っていた。いつの間にか送信中だった画面が送信完了になっていた。

「あ」と思わず声が漏れた。

「なに?繋がってるの?」と明子は言った。

 沙希は無言で頷いた。

 天翔へのメール——届いたのだろうか?

 最初に頭をよぎったのはそのことだった。自分だって咄嗟に思い浮かぶのは兄のことではないのだ。だからお相子なんだ。

「じゃあ早く、タッちゃんにメールして」と明子は言った。「高台の公園でみんな待ってるって」

 沙希は頷いてメッセージを打った。それから送信ボタンを押した。送信中の画面に切り替わり、すぐに送信完了が表示された。

「送れたのね?」と明子は念を押した。

 沙希は頷いた。

「じゃあ、お母さん、すぐ後を追いかけるから、あなたは先に公園に行ってなさい。タッちゃんがその辺にいないか、ちょっとだけ見てくるから。もしからしたらケータイ持っていないかもしれないし」

 明子はそう言うと、そのままペダルに足を掛けて自転車を発進させた。

 大丈夫。母親ってそういうものだから。後で公園で落ち合ったときにゆっくり謝ればいいから——。

 自転車が遠ざかっていく。人混みに紛れて見えなくなるまで、沙希は二人の後ろ姿を見つめていた。

 

 公園には大勢の人たちが集まっていた。皆きょろきょろと動き回って、誰かを探しているようだった。大声で家族の名前を叫んでいる人たちもたくさんいた。

 盆地を見下ろすと、青空の下にいつもと変わらぬ町並みが見えた。だが、流れては止み止んではまた流れる津波警報のせいで、高台から臨む町全体が昔見た怪獣映画のセットのように現実味を欠いていた。

 沙希も人の流れに混ざって辺りを探し回った。

 心の中で何度も彼の名前を呼び続けた。だが彼は姿を現さなかった。

 焦燥が募った。沙希は何度もケータイ画面に目をやった。いつの間にか、アンテナがまた全部消えていた。メッセージボタンを押しても、もう送信中にもならず、砂時計がいつまでも表示されるだけだった。

 どれほどの時間が経っただろう。物凄い勢いで上り坂を駆け上がってくる人影が見えた。沙希は思わず目を瞠った。

 だがそれは彼ではなかった。兄だった。

「お兄ちゃん」

 駆け寄っていくと、拓哉は顔をあげて、沙希、と声をあげた。

 彼は地面に両膝をついて肩を上下させて息をしていたが、そばまで行くと立ち上がって苦しそうな表情を浮かべた。

 いったいどういうことだろうか。嫌な不安が胸にこみあげた。

「お兄ちゃん、お母さんは?友哉は?」と沙希は言った。

「いや、それよりケータイを貸してくれないか?」

 拓哉はそう言って手を伸ばした。

 頭の中がパニックに陥り始める。

「会わなかったの?友哉とお母さん、お兄ちゃんのこと探しに行ったんだよ」

 そう言うと意外な言葉が返ってきた。

「会ったよ」

「じゃあどこ?」

「家に行った」

 意味がわからなかった。探しに行った人に会えたのに、どうして一緒に戻って来ないのだろうか。

「どうして?」と沙希は声を上げた。もうパニックが収まらなかった。「津波警報出てるんだよ。どうして止めなかったの?」

「止めたよ」

 この人は何を言っているのだろうか。家族なのに、どうして力尽くで止めなかったのか。

「行っちゃったって。止めてないじゃない。お兄ちゃんのバカ」

 堪えきれずに声が出てしまった。自分のことを棚にあげて、ひどいのはわかっていた。だが明子と友哉に万一のことがあったら——。

「いいから、沙希、頼む、ケータイを貸してくれ」

 沙希は拓哉に向かって握っていたケータイを差し出した。それから言った。

「ネット、繋がってないよ」

「え」

 拓哉はケータイ画面を開いて、あちこちボタンをクリックしている。

「母ちゃんが繋がってるって言ってたのに、どうしてだよ?」

「さっきは一瞬だけ繋がったの。でもまた切れた」

「なんでだよ」

 拓哉はケータイのボタンを何度も押し続けた。だが無駄だった。

 そのうちに、人混みの群衆が湾を臨む公園のフェンスに向かって集まり始めた。そして、大勢の人たちが丘の下のほうに向かって叫び始めた。

「おーい。逃げろー。はやくー」

「来てるぞー」

 沙希はフェンスに駆け寄って盆地を見下ろした。心臓が止まりそうになった。

 海岸の先の防波堤の向こうから黒い壁のような巨大な波がこちらにむかって迫ってくるのが見えた。町並みを見下ろすと、いつの間にか路上は一メートルくらい水に浸かっていた。水嵩はどんどん増していて、もう外を歩くのは無理な状態だった。

 気がつくと、フェンスから身を乗り出して叫んでいた。

「お母さん!友哉!逃げて!はやく!お願いだから!」

 それからふと我に返った。

 彼はどこ?

 沙希はフェンスから離れると再び群衆の中を彷徨い始めた。

 膨大な数の人々が丘の上の公園を埋め尽くしていた。フェンスに駆け寄ろうとする人たちとぶつかりそうになって、思うように前に進むことができなかった。

お願いだから、出てきて——。

 幼い子供たちを取り囲むようにして、大人たちがいくつもの輪を作っていた。その合間をくぐり抜けながら、沙希は彼の名を呼び続け、公園中を探し回った。しかし彼はどこにもいなかった。

 フェンスに張り付いている人たちから、色んな叫び声が聞こえてきた。怖くて仕方がなかった。考えると体がバラバラになりそうだった。沙希は両手で耳を塞ぎながらその場にしゃがみ込んだ。そしてポケットから取り出したイヤフォンをつけて、またプレーヤーのボタンを押した。

 『Le Cygne』のピアノが流れ始めた。

 どれくらいの間、そうやって固まっていただろう。

 突然、空が明るくなった気がした。見上げると、さっきまで雲に隠れていた太陽が真っ白な透明な光を放っていた。空にはまたクレヨンで書き殴ったような青さが氾濫していた。

 沙希は立ち上がった。それから何かに導かれるように人混みの中を掻き分けていった。そしてフェンスに辿り着いた。

 盆地を見下ろすと、信じられない光景が広がっていた。

 深い森に囲まれた湖が広がっていた。すべては水の下に沈んでいた。水はずっしりと碧かった。

 遠くを見渡すと、湖の真ん中にぽっかりと浮かぶ小島が見えた。

 小島の端に、世界から取り残されたように一羽の白鳥が佇んでいた。水はもうすぐそこまで迫っていた。

 何を躊躇っているのだろう?

 どうして翼を開いて大空に向かって飛び立たないのだろう?

 もう傷はとっくに直っているんだよ。

 それなのに、どうして?

 白鳥の足下を水が浚い始めた。白鳥は体勢を崩しながらじっと耐え忍んでいる。翼は固く閉ざされたままだった。

 そのときだった。空から一条の光が差し込んで白鳥を照らし出した。光に導かれるがまま大空に向かって羽ばたけばいい。誰かがそう囁いているようだった。

 お願い、飛んで!

 声にならない声でそう叫んだ。

 次の瞬間、光が途絶えた。森は薄闇に包まれた。小島は跡形もなく消え、水の碧さだけが後に残った。

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