『スカルプチャー』

 もともと体が丈夫ではないうえに、ひどく生真面目きまじめな人だった。

 全国にチェーン展開する24時間営業のディスカウントストアのエリアマネージャーを数年にわたって勤めたあげく、昼夜を問わない激務で過労がたたったのだろう。出勤のために家を出ようとドアを開けたとたん、貧血を起こしたらしい。

 玄関の前で転倒すると、運悪く石畳いしだたみに頭を強打し、一瞬で還らぬ人となってしまったのだ。

 ひよりが小学3年生の夏休みを目前に控えていた、朝早くのできごとだった。


 ひょろりとせ細って、あまり背は高くなく、引き締まった唇をいつもキュッと真一文字まいちもんじに引き結んでいる。それが、ひよりが記憶する父の姿で。

 享年きょうねん32才。ひよりの今の学校の担任教師よりも若かった。なのに、髪には白い色がずいぶん目立っていた。


 ちょっとしたトラブルでも、みずから店舗に駆けつけなくては気がすまないような人だったから、家にいる時間は疲れ果てて寝ているのがほとんどだった。

 よくいえば勤勉だが、あまり要領ようりょうがよくなく、不器用な性格ともいえた。


 ひよりに自転車の乗り方を教えてくれたのは、そんな父親だった。

 ひよりの通っていた小学校では、3年生の1学期に自転車教室が実施された。一人娘が3年生になる直前の春休み、父親は、貴重な休息の時間をけずって、近所の公園に家族3人で朝からくりだした。内緒で買っていた真新しい自転車も一緒に。


「まずは、お手本」

 そういって父が披露してくれたのが、「ケンケン乗り」だった。

 不器用な彼が、小学生の身長に合わせたサイズの自転車をすこぶる軽快に乗りこなしていた。


 当時のひよりには、父の「ケンケン乗り」が、アクロバティックな妙技みょうぎに見えたものだ。


 母が、

「そんな乗り方、ぜんぜんカッコよくないよ」

 と、苦笑いするのも気にせず、夢中で父の妙技みょうぎ伝授でんじゅしてもらった。


 あの頃は、母も明るく優しかった。

 すっかり変わってしまったのは、父が亡くなってからだ。


 父の死には、労災が適用された。職場で加入していた生命保険も、ひよりが成人するまで母子2人が生活していく程度には十分な保障額だった。

 しかし、母は、当人いわく「気晴らし」のために、最寄もよりの駅の裏通りのスナックで働きはじめた。

 父の生まれ故郷で一周忌を片付けて、ひよりと共に都内の家に戻ると、間もなくのことだ。


 かつて家族3人が暮らしていた家は、わりと閑静かんせいな高台の住宅街にあった。

 うら若い未亡人となった母が、夜な夜な派手な化粧をして夜職よるしょくに出るようになれば、たちまち近所の好奇なウワサの対象となった。


 2軒向こうの家に住む熟年夫婦の夫が、ひよりの母を目当てに足しげくスナックに通いつめ、しまいには一緒に肩を寄せ合って朝帰りをしていたなどという目撃談が加わると、ウワサは悪意と侮蔑ぶべつのニュアンスだけ残して過激化した。


 ひよりの母は、スナック勤めをやめるのではなく、夫との思い出のつまった家をあっさり売却し、もっと駅に近い中古のマンションの一室に転居することで、近所の不快なウワサを回避かいひした。

 ひよりが小学5年生のときのことだ。


 それ以来、母は、自分の"恋人"をそのマンションに堂々と連れ込んだ。


 恋人となる男の顔ぶれは、目まぐるしく入れ替わった。早い時には数日間で。年齢も職業も見た目も、その都度タイプはバラバラだった。

 唯一、彼らに共通したのは、母によく似た顔をした娘のひよりに、みんな、とても優しかったことで。


 ある日、小学校から帰宅すると、その当時の母の恋人が、1人でリビングのソファにくつろいでいた。

 まだ30代半ばだった母より、ひとまわり年上の穏和おんわな紳士だった。


「お母さんは、ネイルサロンに出かけたよ。おじさんと一緒にお留守番しよう」

 そう紳士は言って、ひよりを2人掛けのソファに手招いた。


 ひよりがオズオズと隣に座ると、紳士は、仕立てのいいダークスーツのジャケットを脱いで、ソファの背もたれに引っ掛けた。

 男性用の趣味のいいフレグランスを、ほのかにフワッとただよわせて。


 そのとたん、ひよりの鼻の奥が、急に、じんと熱くみた。

 不意打ちのように鼻をついたその匂いが、思いがけず唐突とうとつに、あまり多くない父との思い出をよみがえらせたのだ。

 父が亡くなった悲しみや淋しさを、これまでそれほど実感したことがなかったのに。父が脱衣所で脱ぎ散らかしていた衣類や、父の部屋で、同じ匂いを何度も無意識にかいでいたからだろう。


 紳士は、片手でネクタイをゆるめてワイシャツの上のボタンを2つはずしながら、もう片方の手をひよりの肩にまわした。

「ひよりちゃんは、5年生になったんだっけ?」


 匂いがグッと近く、濃くなる。父と同じ匂いが。


 真一文字に唇を引き結んだ生真面目きまじめな父の顔を脳裏に浮かべながら、ひよりは、こくんとうなずいた。

「はい」


「そう。……最近の女の子は発育がいいねぇ。もう十分に立派なお姉さんだ」

 おおげさな感嘆かんたんまじりに、低く柔らかな声で紳士はささやき、相応の年輪を帯びた大きな手でひよりの長い髪をなでまわした。

「ほんとうに綺麗な髪だなぁ。ひよりちゃんは、お母さんより、もっと美人になるね、きっと」


「…………」

 ひよりは、胸がしめつけられるような甘ったるい感傷かんしょうを覚えた。

 亡くなって2年近くたってから、はじめて父親に対する恋しさを痛切に実感していた。

 父の生前には意識することができなかった恋しさだ。


 その切ない感情が、彼女自身に向けられた醜悪しゅうあくな欲望をきっかけに芽生えたという、残酷でグロテスクな事実に気付かずにいられたことは、ひよりにとっては幸運だったろうか。


 半年前に初潮しょちょうを迎えていた少女は、でも、心の奥のどこかでは、この紳士のいびつな情念を漠然ばくぜんと察していた。

 それを認めるのが恐ろしかっただけだ。


 ひよりは、ヒザの上でスカートのスソを握りしめて、まぶしいほどの生命力ともろさをないまぜにした成長期の白い太腿ふとももを必死におおい隠した。ひとりでにギュッと固く身をこわばらせながら。


「かわいいねぇ、ひよりちゃんは。おじさんは、ひよりちゃんに会いたくて、ここに来てるんだよ。お母さんじゃなく……」

 ヌケヌケと言ってのけながら、紳士は、ひよりの髪に顔を埋めて、大きく息を吸いこんだ。


 そこに、ネイルサロンから帰ってきたひよりの母が忍び足でやってきたのだ。切れ長の目を真っ赤に血走らせ、青ざめた綺麗な顔をわなわなとふるわせながら。

 絵に描いたような修羅場しゅらばである。


 母は、"恋人"に飛びかかると、彼の顔や手を爪で引っかきまくった。

 精緻せいちな花柄で彩ったばかりの鮮やかな爪の先が裂けて飛び、目ざわりな羽虫のように、ひよりの眼前を横切った。


 言葉にならない言い訳を口走りながら、紳士は、ジャケットをつかんで逃げ去った。

 それを玄関まで追いかけ金切り声でののしってから、リビングに戻ってきた母は、ソファで縮こまっていた一人娘の頬をおもむろに平手打ひらてうちした。


 ひよりは、ショックで呆然と目を見開いたまま、目の前に仁王立におうだちする母を見上げた。

 顔の半面が燃えるように熱く、耳の奥にはザーザーと激しい雨が降るような音が聞こえていた。


 母は、戸惑いや悔恨かいこんのかけらもみせず、憤怒ふんぬ形相ぎょうそうばかりをあらわに、娘をにらみ返していた。


 それが、ひよりが母から受けた最初の暴力だった。

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