『スカルプチャー』
もともと体が丈夫ではないうえに、ひどく
全国にチェーン展開する24時間営業のディスカウントストアのエリアマネージャーを数年にわたって勤めたあげく、昼夜を問わない激務で過労がたたったのだろう。出勤のために家を出ようとドアを開けたとたん、貧血を起こしたらしい。
玄関の前で転倒すると、運悪く
ひよりが小学3年生の夏休みを目前に控えていた、朝早くのできごとだった。
ひょろりと
ちょっとしたトラブルでも、みずから店舗に駆けつけなくては気がすまないような人だったから、家にいる時間は疲れ果てて寝ているのがほとんどだった。
よくいえば勤勉だが、あまり
ひよりに自転車の乗り方を教えてくれたのは、そんな父親だった。
ひよりの通っていた小学校では、3年生の1学期に自転車教室が実施された。一人娘が3年生になる直前の春休み、父親は、貴重な休息の時間をけずって、近所の公園に家族3人で朝からくりだした。内緒で買っていた真新しい自転車も一緒に。
「まずは、お手本」
そういって父が披露してくれたのが、「ケンケン乗り」だった。
不器用な彼が、小学生の身長に合わせたサイズの自転車をすこぶる軽快に乗りこなしていた。
当時のひよりには、父の「ケンケン乗り」が、アクロバティックな
母が、
「そんな乗り方、ぜんぜんカッコよくないよ」
と、苦笑いするのも気にせず、夢中で父の
あの頃は、母も明るく優しかった。
すっかり変わってしまったのは、父が亡くなってからだ。
父の死には、労災が適用された。職場で加入していた生命保険も、ひよりが成人するまで母子2人が生活していく程度には十分な保障額だった。
しかし、母は、当人いわく「気晴らし」のために、
父の生まれ故郷で一周忌を片付けて、ひよりと共に都内の家に戻ると、間もなくのことだ。
かつて家族3人が暮らしていた家は、わりと
うら若い未亡人となった母が、夜な夜な派手な化粧をして
2軒向こうの家に住む熟年夫婦の夫が、ひよりの母を目当てに足しげくスナックに通いつめ、しまいには一緒に肩を寄せ合って朝帰りをしていたなどという目撃談が加わると、ウワサは悪意と
ひよりの母は、スナック勤めをやめるのではなく、夫との思い出のつまった家をあっさり売却し、もっと駅に近い中古のマンションの一室に転居することで、近所の不快なウワサを
ひよりが小学5年生のときのことだ。
それ以来、母は、自分の"恋人"をそのマンションに堂々と連れ込んだ。
恋人となる男の顔ぶれは、目まぐるしく入れ替わった。早い時には数日間で。年齢も職業も見た目も、その都度タイプはバラバラだった。
唯一、彼らに共通したのは、母によく似た顔をした娘のひよりに、みんな、とても優しかったことで。
ある日、小学校から帰宅すると、その当時の母の恋人が、1人でリビングのソファにくつろいでいた。
まだ30代半ばだった母より、ひとまわり年上の
「お母さんは、ネイルサロンに出かけたよ。おじさんと一緒にお留守番しよう」
そう紳士は言って、ひよりを2人掛けのソファに手招いた。
ひよりがオズオズと隣に座ると、紳士は、仕立てのいいダークスーツのジャケットを脱いで、ソファの背もたれに引っ掛けた。
男性用の趣味のいいフレグランスを、ほのかにフワッとただよわせて。
そのとたん、ひよりの鼻の奥が、急に、じんと熱く
不意打ちのように鼻をついたその匂いが、思いがけず
父が亡くなった悲しみや淋しさを、これまでそれほど実感したことがなかったのに。父が脱衣所で脱ぎ散らかしていた衣類や、父の部屋で、同じ匂いを何度も無意識にかいでいたからだろう。
紳士は、片手でネクタイをゆるめてワイシャツの上のボタンを2つはずしながら、もう片方の手をひよりの肩にまわした。
「ひよりちゃんは、5年生になったんだっけ?」
匂いがグッと近く、濃くなる。父と同じ匂いが。
真一文字に唇を引き結んだ
「はい」
「そう。……最近の女の子は発育がいいねぇ。もう十分に立派なお姉さんだ」
おおげさな
「ほんとうに綺麗な髪だなぁ。ひよりちゃんは、お母さんより、もっと美人になるね、きっと」
「…………」
ひよりは、胸がしめつけられるような甘ったるい
亡くなって2年近くたってから、はじめて父親に対する恋しさを痛切に実感していた。
父の生前には意識することができなかった恋しさだ。
その切ない感情が、彼女自身に向けられた
半年前に
それを認めるのが恐ろしかっただけだ。
ひよりは、ヒザの上でスカートのスソを握りしめて、まぶしいほどの生命力と
「かわいいねぇ、ひよりちゃんは。おじさんは、ひよりちゃんに会いたくて、ここに来てるんだよ。お母さんじゃなく……」
ヌケヌケと言ってのけながら、紳士は、ひよりの髪に顔を埋めて、大きく息を吸いこんだ。
そこに、ネイルサロンから帰ってきたひよりの母が忍び足でやってきたのだ。切れ長の目を真っ赤に血走らせ、青ざめた綺麗な顔をわなわなとふるわせながら。
絵に描いたような
母は、"恋人"に飛びかかると、彼の顔や手を爪で引っかきまくった。
言葉にならない言い訳を口走りながら、紳士は、ジャケットをつかんで逃げ去った。
それを玄関まで追いかけ金切り声で
ひよりは、ショックで呆然と目を見開いたまま、目の前に
顔の半面が燃えるように熱く、耳の奥にはザーザーと激しい雨が降るような音が聞こえていた。
母は、戸惑いや
それが、ひよりが母から受けた最初の暴力だった。
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