霊園墓地

 叔母から譲り受けたおふるの街乗り自転車。茶色いサドルにアイボリーのシンプルなフレームがレトロな雰囲気で小粋だ。

 サドルと同系色の前カゴにスクールバッグをタテに押し込むと、ひよりは、自転車の左側に立ち、ハンドルのグリップをしっかり握りしめた。


 左足だけペダルに乗せながら、右足で2、3歩コンクリート敷きの地面を蹴る。蹴ったイキオイで加速をつけてから、サドルの前の空間に右足を窮屈きゅうくつな格好で通して自転車にまたがり、ペダルをぎだす。

 俗に言う「ケンケン乗り」というやつで。叔母の前で披露したら「危なっかしい」と眉をひそめられたが、小学生のころ以来めったに自転車に乗る習慣のなかったひよりには、この乗り方しかできない。


 学校の駐輪場を抜けると、海のほうを目指す。

 丘陵きゅうりょうを臨む田園地帯にある叔母の家とは、まるっきり真逆の方角である。


 校門を出てすぐの大通りに面したバスロータリーには、ひよりのとは違う制服を着た学生の姿も多く見受けられる。

 ひよりの通う浜野弓高校はまのゆみこうこうとは目と鼻の先にある、浜野弓商業高校はまのゆみしょうぎょうこうこうの生徒たちだ。

 男子は白いワイシャツと赤いネクタイに、ライトグレーの学生ズボン。女子はライトグレーのトップスとスカートで、白いセーラーカラーに赤いスカーフリボンを結んでいる。

 学年ごとに男女の制服のネクタイと上履きの色が異なる浜野弓高校はまのゆみこうこうと違い、浜野弓商業高校はまのゆみしょうぎょうこうこうのネクタイとリボンは一律に同じ赤色のようだった。


 ひよりが東京にいたときに通っていた女子高も、制服はセーラー服だった。

 トップスの身頃みごろは白で、カラーとスカートは濃いエンジ色。リボンは鮮やかな深い青色だった。

 夏服に衣替えする直前のこの時期は、インナーも身につけず、素肌にトップスを羽織る日も少なくなかった。

 均整のとれたしなやかな肢体と繊細な美貌を持つひよりは、いわゆる"スクールカースト"のトップグループに、気付けばいつの間にか属していた。

 アカヌケしたグループの仲間たちは、トップスとスカートをよりタイトに短く改造して、成長途上の危うく儚い魅力を惜しげもなく誇示こじすることを楽しんだ。

 ひよりも、グループで浮いた存在になりたくないという受け身な同調圧力どうちょうあつりょくもなかば手伝って、自然と彼女らにならったものだった。


 連想的に次々に浮かび上がる回想を振り払おうと、無心にペダルをこぐ。だが、とりとめのない不安は、否応なく胸の奥にフツフツと泡だち、わだかまる。

 ひよりは、一刻も早く大通りから遠ざかりたくて、前傾姿勢で自転車をこいだ。

 顔をなぶる風が強くなると、潮の匂いはかえって薄くなる。なんだか不思議に思えた。


 栗色の長い髪が後ろにたなびくのを意識する。つややかでクセのない真っすぐな髪。幼い頃から、誰からも褒められ続けてきた。自分でも、ずっと自慢だった。

 少女らしい自己陶酔じことうすいにうっとり陥りかけたのは、でも、一瞬で。すぐにまた最悪な回想を連想して、大声で汚い言葉をわめき散らしたい衝動しょうどうがノド元までセリ上がった。


 やがて防風林の合間の小路を抜けると、広々と整備された緑地が広がる。

 季節の花が色とりどりに咲き乱れ、瀟洒しょうしゃ噴水ふんすいもある。一見すると公園のようだが、一定の間隔をあけて整然とつらなり建つ数多くの墓石により、ここが大規模な霊園墓地であることをすぐに知ることができる。


 200台分あまりのスペースを有する駐車場は、お彼岸やお盆の時期には終日満車になるらしいが、今は数えるほどしか車が見当たらない。

 ひよりは、ガラ空きの駐車スペースを突っ切った。いつものように、霊園の入り口近くの公衆トイレの裏に自転車を置いて、石畳いしだたみの遊歩道を歩きはじめる。


 見わたすかぎりズラリと墓石の並ぶ光景は、なかなかに異様な圧巻である。

 敷地の奥を厚く取り囲む生垣の周囲は、さらに3メートル近い高さの頑強な鋼鉄製のフェンスにさえぎられている。その外側は、もう、垂直に切り立った崖の上端になっているからだ。

 落差30メートルほどの岩礁がんしょうの中ほどの高さにまで打ちつける波しぶき。どうにかしてフェンスを乗り越え、その先にうっかり足を滑らせようものなら、十中八九、海面に全身を叩きつけられた時点で息が絶えることを免れない。


 日が長くなったと否応なく感じさせられる季節だ。上空にはまだ青空が広がっているが、もう夕方と呼ぶべき時刻である。墓参ぼさんのまばらな人影も、次々に霊園を立ち去っていく。

 ひよりは、誰もいなくなった墓所のエリアを迷いのない足取りでスタスタと歩き、崖に近いほうの区画に並ぶ墓石のひとつの前で立ち止まる。

 黒御影くろみかげの墓石はひよりの整った繊細な目鼻立ちをハッキリ映すほどに輝いている。

 背の高い長方形の石塔の正面に『香坂家こうさかけ 先祖代々之墓せんぞだいだいのはか』と墓碑銘の刻まれた、オーソドックスな和型の墓石だ。


 ひよりは、肩に下げていたスクールバッグの中から500ミリリットルのステンレスボトルを取り出すと、中の水を花立はなたて水鉢みずばちに注ぎ足した。

 霊園内にも水場はいくつもあり、転校初日の月曜日の放課後にここに寄ったときには、水場に常備されている霊園所有の手桶ておけ柄杓ひしゃくを借りて水をくんだ。

 だが、いかにも墓参はかまいりに来ましたという殊勝しゅしょうげなスタイルになるのが、なんとはなしに面映おもはゆく億劫おっくうだった。なので、火曜日以降は、学校の水道で自分の愛用のステンレスボトルに水をつめてくるようになったものだ。


 パステルカラーのラナンキュラスがひときわ華やかな供花きょうかは、日曜日に叔母と一緒に供えたものだが、花弁も葉もまだ生き生きとして見える。


「へぇ。意外と日持ちするんだ。ねぇ?」

 とりとめなく墓石に向かってつぶやきながら、軽くなったステンレスボトルをスクールバッグの中にしまい、代わりに、線香の入った箱とライターを引っぱり出す。


 じきに、ラベンダーの芳香がただよう白い煙が、散漫な微風に出会って行き先を惑わされたように、ふらふらと上空にのぼっていく。

「お父さん……」

 ひよりは、墓石の前に真っすぐ立って目を開けたまま、胸の前で固く両手をあわせた。

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