転校の朝

 5月のおわりの突然の転校生は、当人が覚悟していたより、はるかに注目を浴びた。


 教壇の上に一緒に上がった担任の教師から、自己紹介をうながされたひよりは、化粧っ気もないのに朱色にツヤめいているフックラした唇をキュッとつぐむと、ぎこちなくペコリと頭を下げた。


香坂こうさか ひよりと言います。……よろしくお願いします」

 開け放した教室の窓からそっと吹き込んでくる柔らかな春のそよ風にも似た、軽やかで繊細な声。


 淡々とクールに。そう演じるつもりだったのに。語尾は蚊の鳴くようなかすかな声量になってしまった。

 生来のヒトミシリは、付け焼き刃じゃ隠せない。なめらかな白い頬が上気するのを、栗色のまっすぐな長い髪の陰に隠すためにうつむく。叔母が昨日、市役所の仕事を早退して、この学校内の購買で買っておいてくれた真新しい水色のサンダル。ヤケに目にまぶしくて。場違いに、鼻の奥がツンとしみた。


 今まで通っていた都内の私立高校では、シンプルな白いバレーシューズをうわばきにしていた。それが普通だと思っていた。

 トイレ用のそれにしか見えないサンダルを学校の指定の内履きだと言って叔母に渡された時は、離島からフェリーで通学をしている生徒が何人もいると聞いたとき以上のカルチャーショックを受けたものだった。


 ――あたしは、遠くに引っ越してきたんだ。お母さんからずっと離れた、遠くに。

 当たり前すぎる事実が、痛切に胸にこみあげる。


 母と暮らしていたマンションを1人で出て、東京駅から西に向かう新幹線で3時間あまり。そこからローカル線の電車とバスを乗り継ぎ、叔母が暮らす古い木造の家にたどりついたのは、ほんの1週間前だった。


 海水浴にはあまり適さない岩礁がんしょうだらけの浜辺を臨む浜野弓市はまのゆみしで、普通科の高校は、この『浜野弓市立高等学校はまのゆみしりつこうとうがっこう』の他にはない。

 都内のそこそこの進学校で中の上くらいの成績をおさめていたひよりには、編入試験は正直たやすかった。

 少子化の御多分ごたぶんにもれず在学生の人数は年々と減り続け、1学年ごとの学級編成は3クラス。それぞれのクラスの生徒数も定員割れが多いらしい。

 この2年2組も、男女合わせた生徒の数が、ひよりの他に32人しかいない。

 そのせいか、性急な転校の手続きにも学校側は理解があり、ひよりと叔母に好意的だった。歓迎ムードだったと言っていい。


 とはいえ、32人のクラスメイトがいっせいに過分な期待感に瞳を輝かせながら自分を見つめて一心に拍手をしている現状は、ひよりを戦々恐々せんせんきょうきょうとさせるばかりだった。


「よーし。いいぞ、お前ら。オッケー!」

 担任の男性教師は、意味をなさないオオザッパな大声を満足そうにはりあげて、生徒たちの拍手を制した。


 ひよりは、顔を伏せたままコッソリ遠慮がちに背後をかえりみた。

 いかにも快活かいかつで爽やかな風貌の若々しい男性教師らしい、筆圧の強い右肩上がりの字体で、黒板の真ん中にタテに2列書きなぐられた白いチョークの文字。

 クラスメイトたちに紹介するため記された転校生ひよりの名前の左側に、それよりもっと大きく"村崎 清仁・34才独身!"という文字が並んでいる。

 男性教師自身がそれを書きこんだとき、それぞれの席に腰かけながら黒板をジッと見つめていた32人の生徒は、もれなくドッと笑い声をあげながら、気さくな冷やかしの言葉を彼に投げかけたものだった。


 ひよりは、いたたまれないほどの疎外感そがいかんをおぼえた。

 卑屈でひとりよがりな被害妄想だと自覚はできても、孤独とセットになって不意打ちをしかけてきたミジメな気分は、ぬぐえなかった。


 それで、さっきは黒板を直視できなかったから、いま改めて担任の名前を確認したのだ。


 ――むらさき、きよひと、か。

 ひよりは、一語づつ噛みしめるように、今日から自分の担任となる男性教師の氏名を胸のうちで読み上げた。


「じゃあ、そろそろ席につこうか。ひより」

 村崎は、屈託なく、転校生の下の名前を呼び捨てにしたばかりか、無造作に背中を手で押した。


 白いブラウスと紺色のベストごしに、成人男性の大きな手のひらの圧をはっきり感じたとたん、ひよりは、ビクリと肩を大きくはずませた。

 カチカチと小刻みに鳴りだしそうになるのをこらえるために、必死で歯を食いしばる。


 それぞれの席から前方を眺めていたクラスメイトたちは、まばたきも忘れて凍りついている転校生の様子に戸惑い、かすかにザワついた。


「せんせー、それ、セクハラー! ひよりちゃん、ビックリしちゃったじゃん」

 窓ぎわの後ろの席の女子生徒が、したりげに口をとがらせる。


 かげりのない元気な声だ。2つに分けた長い黒髪の束が、ウサギの耳みたいに、頭の左右でそれぞれピョンピョン揺れている。

 清らかに日に焼けた淡い小麦色の丸顔は、小柄な体格もあいまって、小動物めいたあどけなさがあった。


 彼女の苦言をきっかけに、ピリつきかけた教室内の空気が一瞬で再びなごやかにくだけると、

「デリカシーなさすぎなんだよなぁ、村崎先生ムラセンは」

「かわいそー、ひよりちゃん」

「ムラセン、サイテー!」

 と、ブーイングの嵐が巻き起こった。


 陽気で鷹揚おうような若い男性教師をクラスみんなで茶化して盛り上がる、予定調和のノリにすぎないことは、あまりにも明らかだ。


 どれだけ"いじって"もかまわない気心きごころの知れた担任教師をスケープゴートに仕立てて、都会からきた物静かな転校生の緊張をほぐしてやろうという温かなホスピタリティーが由来であることも間違いない。


 ひよりは、しかし、おかげで、ますます孤独でミジメな気持ちになった。

 自分をダシにして、このクラスの全員が互いの親密度を確かめ合い、えつに入っている。その側面ばかりが鼻について。心がササクレてならない。


「おおう、そっかぁ。そうだな。こりゃあ先生が悪かった。……ゴメンな、ひより」

 村崎は、よく日焼けした端正な顔に急にぎこちない笑みをとりつくろうと、ひどくあわてたシグサで手を離した。


 そのとたん、ひよりは、ヒザから崩れ落ちそうなショックを味わい、それをこらえながら、ことさらゆっくりと教壇を降りた。


 この男性教師は、すべて把握はあくしているのだ。ひよりが亡き父親の妹である、叔母のユキミを頼って来た理由を。

 2週間あまり前の夜、母親と二人暮らしだったマンションを飛び出し、深夜の街路を裸足で走っていたところを近所の人に通報され、警察に補導されるに至った、その理由を。母親が一人娘のひよりを激しく憎悪するに至った理由を。

 全部、この教師は把握はあくしているのだ。


 去年の暮れに、母親が勤めていた場末のスナックに一見客いちげんきゃくとして訪れて以来、すぐに母親の年下の恋人となった男と、そのうえ、村崎は年齢も同じで。おまけに、ほどよく筋肉をつけた見栄えのいい背格好も、ひどく似ているように思えてきた。


 ひよりの頭の中は、なおさら、ひどく混乱したのだ。


 生徒たちに大人気の親しみやすい気さくな担任教師を、ひとりでに嫌悪けんおせずにはいられない自分の過剰な自意識が、うとましかった。

 この感情を、村崎に悟られたとしたら、もっと恥ずかしくミジメだろう。それだけはイヤだ。


 ――淡々と、クールに。淡々と、クールに。

 ひよりは、自分に言い聞かせた。何度も繰り返し。


 ――淡々と、クールに……。

 あたしは何も気にしてないし。あたしは少しも傷ついてやしないんだから……。


「こっちこっち! ひよりちゃんの席、あたしの隣だよー」

 さきほど真っ先に気勢きせいをあげていた窓ぎわのウサギみたいな女子生徒が、かげりひとつない人なつっこい笑顔で、両手を振り上げて呼ぶ。


 透明すぎて底までの深さがはかれない、恐ろしいほどに清らかな海にズブズブと足を引きずられるような思いで、ひよりは、等間隔に並ぶ机の合間に、水色のサンダルをすべらせた。

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