4. movement
ド、ド、ソ、ソ、ラ……
「駄目だ」
小指が崩れるように折れる。指はそのまま鍵の上を滑り、だらりと木のフレームの上に落ちた。昨日から指ならしの練習曲しか弾けていない。演奏会の曲はもう体に叩き込んでいるし、曲作りも完成といえるほどまでやってきたはずなのに。
――音楽は鳴っている時で終わっちゃう、か。
明子は称賛のつもりで言ったのだろう。生演奏でしかわからない魅力があるという意味で。それはわかっているのに、響子の胸の内には不安が生まれ、どんどん膨らんでいく。
音楽は絵画や彫刻などの造形芸術とは違う。演劇と同じく時の流れに従う時間芸術であり、再現芸術だ。演奏の瞬間に生まれ、そのわずかな時間を過ぎたら鳴り止む。額縁に入った絵を見るように、精緻なオブジェを触るように、空間に残った作品に接することはできない。
ともすると作中の台詞が忘れられてしまうのと似て、演奏が終わってすぐ、曲の冒頭がどんな音楽だったかもう思い出せないという経験は、響子自身にも聴衆として覚えがある。
その場限りの音で、何かを伝え、残せるのか。
――いまの私が弾いたら……
鍵盤を徒らに爪弾く。掠れたソの音は張りのない残響を続かせ、すぼまるように消えていく。優美でもなく勢いもない。まるで響子本人だ。
何を思うでもなく、ただ空気の振動がなくなるのを待つ。身を包む空間が沈静した。
そう思ったとき、インターホンのチャイムが沈黙に切り込んだ。
「たくちゃん、今帰り?」
玄関前に立った匠はコート姿で仕事鞄を持ったままだった。
「どうしたの?」
尋ねても返事がない。匠の様子が変だ。普段なら無表情でも纏う気に柔らかさがあるのを響子は知っている。
「響子」
長い
しかし、奥底の方に微かだが強く。
「響子のピアノが聴きたい」
何かが
「わかった」
♪
ピアノの前に座り直す。相変わらず部屋は無音だが、いまは空虚な空間ではない。匠の存在を背中に感じる。
匠の前で弾けなければ、舞台上で弾けるわけがない。そんなのは演奏者失格だ。響子は深呼吸すると、鍵盤に触れた。初めの音はド。曲全体に繋がる音の出し方も決めた。頭の中に音楽はある。それを身体に、指に、鍵盤を介して音に変えていくだけだ。親指を押せば音楽が始まる。
それだけなのに、指が鍵の上で凍りつく。
――怖い。
音楽は、演奏したその時にしかない。
匠は響子の演奏を何度も聴いている。新鮮さも何もない。いまから弾く音が匠に何を残すことができるのか。
ただでさえ不確かな音の羅列は弾き終わった瞬間から形を失うのではないか。そしてさらに過去の
冷たい鍵盤が触る指先から、腕へ、背中へ、じわじわと痺れが広がり麻痺する。そんな恐怖が全身を支配し、神経の働きを、呼吸を奪っていく。
――怖い。
ピアノの上に身を崩してしまいたくなる――その時。
「響子?」
柔らかな
部屋を静かに満たす優しい音。
「ごめん。無理言ったかも。嫌なら……」
気がついたら匠の顔がすぐそばにあった。
「たくちゃん」
作品に入りきれていない、現実と音楽の間にいる望洋とした感覚に包まれる。全ての輪郭がぼやけた中で、匠の姿だけはっきり見える。
「ね」
口が自ずから動いていた。
「き……」
「ん?」
目線を合わせて聞き直され、響子ははっと我に返った。
「――今日作った、ショコラをください」
「……まだ完全な仕上がりじゃ、ないかもだけど」
響子は匠の目をまっすぐに見て頷いた。
♪
手のひらにちょこんと載るショコラはいくつもの層でできていた。一番上にエディブル・フラワーを入れて固めたホワイトチョコレートのパレット、薄いクリームを挟んで、乳白色から次第に深い茶へ
そっと口に入れると、パレットが脆く割れた。
花びらが離れ、ホワイトチョコが濃厚なミルクのクリームと混ざり合う。円錐を覆うチョコが崩れてベルガモットの香りが広がった。
層の一つ一つの味が感じられるのはほんの一瞬。各パーツの正体が分かったと思うやいなや、すぐに別の味へ変わっていく。
――やっぱり音楽と料理は似てる。
しかし崩れた層は消え失せるのではなく、とろけて別のパーツと合わさり、また違う表情を見せる。残りながら次から次へと味を変えていく。
――そっか。
紅茶のガナッシュがとろけ出て、一番下のカレが砕けた。ビターチョコレートとガナッシュが融和し、先のミルククリームと一体になる。苦味は和らいでまろやかな甘さと調和を作り出す。
――たくちゃんも不安だったんだ。
演奏の怖さが消えたわけではない。それでも構わない。むしろぴったりだ。いまから弾く曲に。
――初めの音は、
ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……
《「ねえ、お母さん あなたに申しましょう」に基づく十二の変奏曲》
「きらきら星」の名前で知られるモーツァルトの変奏曲。素朴な主題は恋をして悩む女の子が心の内を話す歌。初めて感じる苦しみを吐露する恋の歌。
終わりの身振りで主題が閉じる。ここから、歌は少女からモーツァルトへ。
トリルいっぱいの第一変奏から主題が様々に飾られていく。時に真珠のような細やかな粒へ、時に堂々とした和音を伴って。転がり流れて、跳ねて遊んで。軽やかに、鮮やかに、厳かに、華やかに。それでも初めの主題はなくならない。旋律は音に取り巻かれて新しいモチーフと溶け合っても、存在を保ったままだ。
速度が一転、自分の気持ちをじっくり考えるような、そろそろ進む第十一変奏を過ぎ、溜めた音から勢いよく最終変奏へ。きらびやかで華麗なパッセージを繰り広げ、躊躇いなく高揚して――
鍵盤から手を話し、響子は後ろを振り返る。
安堵した匠の微笑に出逢い、顔が綻んだ。
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