3. movement
――昨日と同じだ。
閉店後の静まり返った店の厨房で、匠は作業台を前に立ち尽くす。
店にはここ二、三日、一足早くバレンタイン商品の品定めを兼ねた客が数人来ていた。毎年、店の中が一番華やぎ、他のどの季節より客が楽しそうにショコラを選んでいく。匠にとってはどんなに疲弊消耗しても一年で一番好きな数週間のはずだった。昨日来たカップルの会話を耳にするまでは。
いまも耳元で聞こえると思うくらい鮮明に思い出される。
――チョコは食べたら終わりじゃん。大枚払うのももったいないし、それより残るものの方がいいな。
――確かに。じゃ、チョコに無駄遣いしないでお互いのプレゼント決めよう。
付き合い始めだろうか。二人の様子は初々しく、見ている方が微笑んでしまいそうな和やかな話ぶりだった。
だが、匠には強烈な痛みを与えた。
わかっていたことだ。料理は食べてしまえば無くなる。しかも一粒のショコラは、コース料理と違って口に入れたら瞬く間に溶け、消えてしまう。一瞬の快楽と言われれば否定できない。そしてショコラティエは、材料を厳選してプラリネを作っている。原価だけでもけして安くはなく、必然的に販売価格は上がる。職人の髄を凝らしたショコラはたった一粒でも高級品だ。そのための支出を無駄遣いと言われても仕方がないかもしれない。
昨日のカップルにも今日の女性客にも悪気はないだろう。匠も彼らの金銭感覚や嗜好を否定する気はない。
そう自分に言い聞かせても、ショコラを扱う手に迷いが生じるのを防げなかった。
――こんなことで止まっている余裕は無いだろう。
作業台の上に出来上がった新作の試作品を見下ろす。PR用パンフレットの撮影日は目前に迫っているし、撮影が済んだらすぐに店頭に並べなければいけない。
年内から考えていたショコラはすでに試作を数回重ね、もう最終ヴァージョンを決定する段階まで来ていた。その年だけのためにレシピを考案し、細部まで作り上げる。渡す人も食べた人も笑顔になれるように。ショコラ作りの中でも特に心躍る局面のはずだというのに。
――ショコラが与えられるものは、一瞬で終わるんだろうか。
作り手にはレシピの考案から仕上げまでスパンがある。それが消費されるのは数秒。
鈍い痛みが背中を這い上がってくるような恐怖が広がっていく。
テンパリングを通したチョコレートの表面は艶めいて蛍光灯が映り込む。視覚も魅せるよう目指した造形。いまは禍々しいとすら思えてしまう。
整然と並ぶプラリネとボンボン。材料を変え、レシピを変え、これ以上ないと思うまで考え抜いたはずなのに迷いが拭えない。どんな客に手に取られても、無駄遣いと思わせない品か。このショコラは一瞬の価値しかないのか、それとも――
――音楽と料理は似てるでしょう? たくちゃんも、不安になったりするのかな。
不意に、響子の言葉が甦る。
「不安だらけだよ。情けないけど」
響子だったら何と言うだろうか。食べた瞬間はきっと喜んでくれるだろう。でも、その後は?
「音楽と料理は似てる、か」
無音が支配する厨房の壁に当たって自分の声が反響する。家では必ずしも沈黙の中での作業ではない。向かいの家から窓を通って、とどまることなくピアノの音が流れ込んできていた。手を動かすときのリズムがピアノと同調し、それにつれてアイディアも膨らむのだから面白いものだ。
響子のピアノがここにあったら、迷いも消えてくれるのだろうか。
そう思ったとき、ふと違和感を覚えた。
――響子?
昨日から、ピアノの曲を一度も通しで聞いていない。
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