2. movement

 スマートフォンがアラーム音を発し、ヴァイブレーションがシーツを伝わってくる。三回ほど鳴ったところで匠は画面をタップした。

 ぬくい布団から枕元へ出した手に冷気が触れる。今日はかなり寒そうだ。ショコラを作るには室温調整に注意が必要か。

 そう思いながらも体が動き出さない。アラームが鳴る前からとっくに覚醒しているが、寝不足も手伝って思考が本来考えるべきことに繋がっていかない。

 ――チョコより『モノがいい』、か。

 うつろに天井を見つめていると、指の先で振動が起こる。アラームのスヌーズ機能だ。呆けていられる時間も終わりだ。匠の心情とは関係なく、店は開けなければならない。

 匠は羽毛布団を押しのけ、重い体をあえて冷気に晒す。布団に戻りたくなる甘えを殺し、腹に力を入れて起き上がった。


 ♪


 朝食を済ませると匠は早々に玄関へ向かった。玄関に置いたままにした買い物袋を持ち上げる。中でチョコレートのタブレットががさりと動いた。

 玄関扉を開けると、鈍色の雲が空を覆っている。玄関で冷やされた靴に突っ込んだつま先が痛い。冷え症の体が固まる前に動き出した方がいい。

「おはようたくちゃん」

 鍵穴に鍵を挿したとき、背中に聞き慣れた声がかかる。

「響子、早いな」

「寒いから体動かそうと思って。散歩してきた」

 匠に劣らず重度の冷え症の響子にしては珍しいこともあるものだ。いつもなら足を動かすのではなくピアノに向かって徹底的な指の運動から始めるというのに。

 そう言うと、響子は「たまにはね」と笑う。

「たくちゃんも早いね。バレンタインの準備?」

「そんなところ。パンフ用の商品撮影もあるし」

「ほどほどにね」

「お互いな。そっちも演奏会、すぐだろ」

 うん、と響子は頷く。しかし普段と違って言葉は続かない。鳥も鳴かない寒空の下、間が空いた。

「ねえ、たくちゃん」

 小さく切り出した響子の顔から笑みが消えている。

「音楽と料理は似てるでしょう? たくちゃんも、不安になったりするのかな」

「それは……」

 反射的に動いた口は、匠の心境を窺うような視線に出逢って止まった。

「……そんな暇があれば楽だけど」

 出かかった答えを抑えて殺し、わざと軽い笑いを顔に貼り付ける。

「でも多忙なのがありがたい職だから。響子も大事な時だろ。冷えるから早く入ったほうがいいぞ。それじゃ」

 行ってらっしゃい、と手を振る響子に短く応えて、匠はすぐに駅方面へ歩き出す。一つ目の角を曲がったところで足の運びを速めた。

 正直に言えば自覚している。響子を避けたと。

 昨日の帰りに会った時、気がついたら響子を呼び止めていた。いまも、咄嗟に肯定しそうになった。そこから話し始めたら、鬱々とした心境をこぼしてしまうかもしれない。さっさと離れたほうが安全だと直感的に判断した。

 ――甘えたことを。自分の問題を響子に話してどうする。

 普段のほほんとして見えても、響子は感情の機微に敏感だ。匠が何か考え込んでいることなどすぐに見破るだろう。そしてそれを打ち明けてしまえば、匠以上に頭を悩ませるに違いない。

 ――響子だって集中したい時だ。迂闊に声をかけてどうする。

 電車の発車直前に車内に滑り込み、閉じたドアに身を預けて吐息する。自分の弱さに気がついてしまうと苛つきが募り、満員電車の濁った空気がいっそう気持ち悪い。

 いつもの駅で人波に吐き出されるようにホームヘ降りると、いつもより早く家を出たにもかかわらず早足で店へ急行する。予想通り厨房は昨日の朝より寒い。匠は空調を調整し、作業台に買い物袋を置いた。袋は店で購入したそのままの状態で、口を開けてすらいない。

 普段なら材料を買ったその日のうちに試作を始め、構想中のレシピを詰めていく。バレンタイン用に出す新作はすでに数回の試作を終えた後で、あとは細かい点の精度を上げるだけだった。しかし、昨日はとてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。

 袋の口を留めるテープを剥がすと、中身の重さに負けてビニール袋の形が崩れる。無秩序に重なり合ったブロック・チョコレートやタブレットが自分の今の状態と似て見えた。

 ――作業を始めれば無心になれるだろうか。

 どのみち今日も客は来るのだ。匠は袋の縁からはみ出たビター・チョコレートの板をステンレス台へ置き直し、壁にかけてあった調理着を手に取った。


 ♪


 匠の店にはショップの隅にカフェが設けられている。プラリネのアソートに加え、季節メニューを楽しみに来る甘党も多い。今日も昼過ぎからカフェ目当ての客が訪れていた。

「トロワ・ショコラとモワルー、それからカフェがお二人分ですね。お支払い方法はいかがいたしましょう」

 カフェと言っても小さなスペースだ。もっと繁忙期になれば臨時アルバイトを頼むこともあるが、基本的には匠一人が応対している。大抵、常連客が多いが、閉店前に来た女性二人組は初めて見る顔だった。

「ありがとうございました。またどうぞお越しください」

 匠が業務用の笑顔で会釈をすると、二人も礼を述べて席を立つ。

「美味しかったね」

「うん! しかも綺麗で映える」

 女性客は興奮気味に言い合いながら店の出口に向かっていく。初来訪の印象は合格点を貰えたか――匠は内心で安堵し、沈んでいた気持ちに光明が射した気がした。

 しかし得られたと思った持ち直しのとっかかりは、次の瞬間に瓦解する。

モワルーフォンダン・ショコラもチョコも一瞬でとろけて消えたね! 瞬間の快楽」

「そうそれ。この一瞬だけのための散財だよ。服とか実用的なものに使えって、たまに自分で呆れたりもする」

 シャランとチャイムを鳴らして女性客は扉の外へ出て行った。お喋りに興じる高い声がガラスを隔てて外の雑音と同化する。

 客が去った店の中は無音のはずなのに、匠の耳はざわめきで圧迫されているような感覚を覚えた。

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