1. movement
鍵をかけると、響子は玄関ドアに背を預けた。貼り付けていた笑いがあっという間に仏頂面になったのを自覚する。ぼやけた頭のまま、明かりのない蛍光灯を眺めた。
――たくちゃん、どうしたんだろ。
匠の顔に感情が乏しいのはいつものことだが、今日の無表情はなぜか引っかかった。話を聞いてあげたほうがよかったのだろうか。
――っと、いけない。
ふるふる首を振り思考を追い払う。いまの自分には匠のことを気にかけてやる余裕はないはずだ。そんな人間が下手に言葉をかけたら、逆に余計な気を遣わせるだけになる。
コート越しだというのにドアに触れている背中が冷えてくる。このままでは指先まで固まってしまう。急いで靴を脱いで居間へ入ると、響子はすぐにエアコンのリモコンを手に取った。電源を入れた途端、乾いた熱風が麻痺しかけた頬の感覚を呼び戻す。思っていたより外の気温が低かったらしい。
明るくなった照明の下で、グランド・ピアノの表面が光る。
脱いだコートを椅子に放り投げ、蓋を開けた。
「だめだ……」
鍵盤の上に置いた指は動こうとせず、ただ指の重みで鍵が沈み、ぼけた音が鳴るだけだった。響子は譜面台へ頭を乗せ、椅子に置いた鞄を
――響子の音楽は、その時で終わっちゃうから。
数時間前に言われた言葉がまだ耳に残って離れない。
♪
白を基調としたスタイリッシュなカフェの店内には、あまりメジャーではない曲の室内楽アレンジが流れていた。響子も前に弾いたことがある。よく見つけてくるなぁと感心しながら、響子は自分の前に置かれた雑誌の表紙をぼんやり見ていた。響子が弾いたピアノは疾走感のある伴奏を成すが、今はリズミカルな分散和音にキーボードを叩く音が編み込まれていっていた。
「よしっできた」
途切れなく続いていたキーの音が止まる。威勢のいい声に響子の意識が引き戻される。
「演奏会告知、こんなレイアウトでどう?」
「もうできたの? 明子は早いなぁ」
「まっ、そこはプロですから」
テーブルの向かいに座った明子はわざとらしくふんぞり返ると、すぐに姿勢を戻してタッチパッドの画面をスクロールする。
「二ページ取れたから、一ページ目は写真メインでポスター風にして、二ページ目に響子のプロフィールとPR文で」
話しながら明子はタッチペンでイラストレーションアプリに印をつけていく。
明子は響子の音大時代の同期だ。ピアノ科の中でもかなりいい音楽を作る奏者だったが、自分は舞台に立つ人間ではないと音楽事業法人に就職した。現在は広報部で演奏会や舞台公演の情報誌を作っている。
「響子久しぶりの本格リサイタルだからね。気合い入るわよ」
数ヶ月後に控えたリサイタル会場は、多数の管弦楽団が定期公演を行う有名なコンサート・ホールの小ホールだ。響子はこじんまりしたサロンやカフェで弾く方が多く、響子の腕を買ってくれている明子はもっと舞台に立てばいいのにといつも言っていた。おかげで今度の演奏会を知らせたら、誌面に載せるとすぐに連絡があった。
「うちの雑誌、ただでさえ情報量多いから、説明文だと宣伝効果が薄くなるのよ。だからPR文はインタビュー形式をベースにしようかと」
「いいかも。私じゃこんなセンスないよ。助かる」
「ありがと。それでね、インタビューの内容は……」
ページを変えて明子がインタビューの説明に移ったので、響子も手帳を開いた。インタビューそのものは日を改めて録音しながらやる予定である。質問には曲目構成や演奏会への意気込みに加え、練習のルーティンや休憩の取り方など、ピアニストとしての響子に興味を持ってもらえそうな日々の様子も含まれていた。特に演奏会を前にすると音楽で頭がいっぱいになる響子には思いつかない切り口で舌を巻いてしまう。
大体の構成が固まり、二人ともペンを置いたところで、注文していた紅茶のポットが運ばれてくる。
「話してたら私の方もまとまってきたかも。どんな演奏会にしたいか」
「そこよ。響子ってそういう気概も十分なのに」
業務モードがオフになったのか、ポットを傾けて話す明子の語調はさっきよりくだけている。
「その姿勢を演奏に活かせてるところが響子の武器なのに、演奏外で自分の長所をアピールのは昔っから苦手よね。響子のピアノの音はいいのになあ」
赤いハーブティーでカップが満たされていき、オレンジとカラントが混ざった甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。まっすぐな褒め言葉を受け取ると嬉しいやら恥ずかしいやらで、響子は黙って笑うしかない。そんな様子を「仕方ないなぁ」と眺めるのは、お姉さん気質の明子の常である。
「任せなさい。私がきっちり、後世に残るように響子をうち出すから」
「それは大袈裟だけど、心強い」
「当たり前よ。響子の演奏はさ、他にない感動があるのに、演奏に居合わせないと聞けない。だから私が代わりに文字にして伝えるし、残すのよ」
滔々と、音楽のように言葉が紡がれる。
「響子の音楽は、演奏されたその瞬間にしかなくて、その時で終わっちゃうから」
響子の手が、宙で止まった。
スプーンに載せていた角砂糖が滑り落ち、ティーカップの中に落ちる。真っ白な塊がしゅわりと鳴り、平らかだった水面が砕け、狭いカップの中に波紋が広がった。
店内に流れる音楽は、もう後奏に入っている。しかしそれはひどく遠くにあって、ただ空虚な音の羅列に聞こえた。
最後の和音が鳴り、残響が消える。
いまのいままで響いていた音楽は、もうどこにも残っていない。
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