ショコラひと粒とピアノの一音
蜜柑桜
Introduction
雲ひとつ無かった冬の真っ青な空はいつしか黄昏色に染まりはじめ、斜めに射す陽の光が家々の壁を明るく染め上げる。街路に聞こえていた子供の交わす別れの挨拶が突然遮られ、「夕焼けこやけ」の旋律が空気を震わせた。急に耳に飛び込んだ電子音に、響子は俯いていた顔を反射的に上げる。
「響子」
視線の先でよく知る顔がこちらを見ていた。黒コートのポケットに片手を突っ込み、響子の家の前に立っている。
「たくちゃん。早いね。お店は?」
「正月の振替休み。今日は店の整理と買い出し」
「そういえば言ってたね。昨今じゃショコラティエもお年賀のお菓子作りかぁ」
幼馴染の匠は留学と帰国後の菓子店修行を経たのち、独立してショコラトリーを営んでいる。言葉通り、匠の腕には製菓材料専門店の袋が下がっていた。
「響子はレッスンだっけ。それにしては遅いな」
「レッスンの後に演奏会の宣材プレスだったから」
立ち止まって話していたら日が陰ってきた。響子は手袋を嵌めた手を擦り合わせる。
「ごめん、入らないと冷えるな。ピアニストは体が資本なのに」
「それはショコラティエも同じでしょ?」
響子はニヤッと笑って見せ、「でもそろそろ入ろうかな」と鞄をまさぐった。奥に押し込まれた鍵を見つけ出して鍵穴に突っ込む。
「じゃね。お疲れ」
「あ、待て響子」
うん? と振り返った響子は一見、能天気な笑みを浮かべている。くるんとした目に疑問が浮かんだ。
「どしたの?」
「いや、なんでも、ない——ここからしばらく激務だから」
匠は材料の入った買い物袋を持ち上げてみせた。
「もうバレンタインだもんね。倒れないでね」
「そっちも無理しすぎずに」
それじゃ、と言い合うと、響子はくるりと背を向ける。ドアが閉まるのを見届けてから、匠も自宅の門を押し開けた。
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