第4話
日曜日の昼のことだった。小学校四年生になったばかりの宗助が、リビングで漫画を読んでいるときだった。
妹の美樹がたずねてきた。
「お兄ちゃん、あたしのハンカチどこにあるか知らない?」
美樹は困ったような表情をしていた。
「お母さんが洗濯してるんだよ、きっと」
それでも美樹は納得してはいないようだった。
「ちがうもん。洗濯機の中も見たから」
宗助は縁の下に隠した白いハンカチを思い出しながら、再び漫画を顔の前に引き寄せた。
困っている美樹を見るのは胸がいたんだ。同時に、それが当然の仕打ちだという感覚もあった。
美樹がおれの居場所をうばったんだ。
だから、それを罰する権利がおれにはある。
そんなことを考える宗助は、涼しげな顔を決め込んだ。
自分が養子であると知ったのは、偶然のことだった。
それは、あまり優しいきっかけではなかった。
ある晩、宗助は便意をもよおして、目を覚ました。階下のトイレへと階段をおりていくと、リビングで言い争う父と母の声が聴こえた。
宗助はリビングの引き戸の手前で耳を澄ませた。
「だから、宗助だって大切な子供じゃないか。どうも、おまえのことを見ていると、美樹ばかりを、かわいがっているように思えるんだよ」
「あなたこそ、ちかごろ宗助の相手をほとんどしてないじゃない」
しばらく静かになった。風がつよく吹いて、家屋がぎしぎしと鳴った。
「――待っていれば、授かったのに、あなたが焦るから、こうなったんじゃないの?」
母の声は、罪を告白するひとのように、慎重そうだった。
「え?」父の意外そうな声がした。
「もらわなくても、よかったのよ。取り返しがつかない、っていうのは、このことよ。――今からでも、返品できたらいいのに」
「馬鹿なことをいうんじゃないっ」父は怒声を上げた。
「宗助なんて、もらい受けなくてよかったのよ。施設になんて行かなければ……」
宗助は、はげしく脈動する胸に手を当てて、立ちくらみを懸命にこらえた。
手を壁につくと、壁の模様が目にはいった。
リビングから漏れてくるわずかな灯りを吸い込んで、ベージュ色の壁紙が、あわく光たっていた。
樹木や蔦の模様があしらわれた壁紙は、どこかちがう世界の森のようにも思われた。
たくさんの蔦が絡まり合った先に、いびつな木々のはびこる森が隠されているようだった。
美樹をあしらってから、しばらく漫画を読んでいた宗助は、やがて立ちあがって、二階へ向かった。なんとなく美樹のことが憐れに思えたからだ。
「大丈夫か? ハンカチ、あったか?」
美樹はかぶりをふった。
「だめ。どこにもないの。もういやだ……」
ちいさな眉をゆがめる妹の顔を見ていると、宗助の心がうずいた。ハンカチの隠し場所を教えてやりたくもなった。
しかし、そんなことはできなかった。自分がハンカチを隠した犯人だ、と白状するようなものだ。
しばらく考えて、宗助は自室の財布を持ってきた。
「よし、おれが新しいのを、買ってやるよ」
青い財布には、戦隊もののイラストが書かれていた。マジックテープをびりびりとはがして小銭を調べると、八百円近くはあった。
時間は三時半をすこしまわったくらいだった。
五時過ぎは家から出てはいけない、と母からいわれていたが、五時までには帰ってこられそうだった。
商店街へは歩いて十分ほどで行けた。
宗助のうしろには、水色のワンピースを着た美樹が懸命についてきていた。どの店にはいるべきか迷ったのち、宗助は洋服屋を選んだ。
家族連れ向けの店で、雑多ではあるがなじみがあり、子供向けのハンカチみたいなものも売っていた気がしたからだ。
店内は薄暗く、防腐剤のにおいが鼻についた。
進んでいくと、レジの近くにハンカチのコーナーがあった。
「ほら、ここにたくさんあるから、好きなのを選ぶんだよ」
値札を見たところ、ほとんどが予算内におさまっているようだった。
恰幅のよい男の店主が、珍しそうにいった。
「ぼくちゃん、今日は妹とデートかい?」
「デートなんかじゃないよ。美樹がハンカチを失くしちゃったから、買ってあげようと思って」
妹はいくつかのハンカチを見あげて、ときおり手にとった。においをかいだり、光に当てて生地を透かしたりしていた。
しばらく時間がかかりそうだと思い、宗助は店内を歩きはじめた。
婦人服のコーナーにさしかかったとき、あるひとりの男児が母の手にしがみついて、洋服をねだっていた。
「さっきのTシャツ、買ってくれなきゃやだ!」
ふと宗助は足を止めて、同年代であろう男児を眺めた。宗助はすでに、両親に甘えてすがるようなことは、しなくなっていた。いや、両親と血がつながっていないという意識が、自らを孤独にしていたのだろう。
やがて母親は観念したように首をふって、男児に手を引かれて子供服のコーナーへと歩いていった。
そのとき宗助が異音に気づいて天井を見ると、暗ぼったい蛍光灯に、一匹の蛾が何回もぶつかっていた。蛾はどこかに逃げだそうとしているのだろうが、皮肉なことに、消えかけた蛍光灯へなんどもなんどもぶつかるだけだった。
ふと宗助は、おそろしく空虚な気分になった。胸にぽっかりと空いた穴に、蛾が飛び込んで来るような錯覚さえあった。
気がつくと宗助は、店の出口へと向かっていた。
このとき、美樹と一瞬目があった。
美樹はあわててハンカチを元あった場所に戻し、駆け寄ってきそうな気配を見せた。
宗助は足を止めず店の外へ出て、細い道路をわたった。
道をわたりおえるころ、一台のバンが走ってきていたが、それは目の端に影として見えた程度だった。
うしろから追いかけて来る足音のことさえ、宗助はうっとうしく思った。
すると、宗助の背後で、鋭いブレーキ音がひびいた。
ついで、女児のきわめて短い悲鳴も聴こえた。
「お兄ちゃん!」
と、泣きながら叫ぶ声が聴こえた。
激突音などはせず、代わりに、ごとん、ごきん、という妙に鈍い音がした。
そこで、宗助は振り返った。
見ると、押しつぶされた妹らしき人間の体があった。
頭はタイヤの下敷きだ。
――以来、宗助の心には重い罪悪感が残った。
美樹は自身の肉体を失ったにすぎない。なんらかの形で存在しているのだ。――などと思うと、すこしは気が楽になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます