第2話

 ひとり住まいの部屋に帰ると、宗助はソファにふかく身を預け、妹のものだったはずのハンカチをポケットから取り出した。

 沁みひとつない、きれいな状態が保たれていた。

 宗助が知る限り、妹の美樹がなくしたもので印象に残っているものは、二つあった。

 この白いハンカチと、それからもうひとつ。

 大したものではない。それは妹が父にねだって買ってもらった靴下だ。

 ふと、宗助は両親の顔を思い浮かべる。自分には似ていないのは、当然のことだ。美樹が生まれてからは、養子の自分の居場所がうばわれていった。

 ハンカチをたたんでテーブルの隅に置き、スマートフォンでメールのチェックをはじめる。客の問い合わせには早く返信したかった。

 どうやら、依頼のメールが届いていた。


 はじめまして。

 貴殿のウエッブページを拝見し、メールをさせて頂きました。

 先月に河原でひろったミドリガメが逃げてしまいまして、まったく難儀しており、飯も喉をとおらぬ有様です。探して頂きたいのは、この亀です。名前は雪乃と申します。

 なにとぞお頼み申し上げる次第です。


 宗助は二度ほど目を通し、打ち合わせの希望日をたずねるメールを送った。

 それから二日後。

 宗助はいつもとおり、駅前のカフェで待ち合わせた。窓の外では小雨がアスファルトに落ちていた。瀬田良蔵と名乗った男はグレーのネルシャツとクリーム色のチノパンを身につけていた。長めの白髪を斜めに分けた下に、皺のふかい、広い額が見える。

 宗助はティーバッグを小皿に移してから、たずねた。

「それで、探されているのは、亀、ということで。雪乃ちゃん、でしたっけ」

 瀬田は苛立ったような声でいった。

「少々なれなれしくはないか? ちゃん、だと? あれは、他界した家内の名前なんだよ。あなた、ひとの家内を初対面で、ちゃん、呼ばわりしているのと、変わらないんだぞ」

「なるほど、失礼しました」

 瀬田は溜息をついてから、財布を取り出し、一枚の写真を見せてくれた。

 そこには、水が薄く張られた水槽にたたずむ、中くらいの大きさの亀が写っていた。

「こいつはね、おとなしいやつなんだ。ひとりじゃ生きていけない。おれが見てやらなければ」

「ええ、お察ししますよ。ところで、僕の報酬のシステムはご存じでしょうか? ホームページに書いてありますが」

 瀬田は心得ている様子でうなずいた。

「ああ。雪乃の値段、ということか。知らんな、そんなものは」

「それにしても、かわいらしい亀ですね。雪乃さん、というきれいな名前にふさわしい。――きっと、ペットショップなんかでは、それなりの金額で扱われているんでしょうね」

 宗助はテーブルに置かれた写真を指しながら、昨晩調べておいたミドリガメの相場を思い出す。だいたい五千円前後だった。

 瀬田は眉をぴくりと動かした。

「まあな。ものを見る目はあるようだな」

「どうでしょうかね。しかし僕にも、この亀の素晴らしさくらいは分かります」

 瀬田は満足そうに微笑んでから、右手の人さし指と中指を立て、それから薬指を付けたした。

「二万円、いや、三万円はするだろうな。しかるべき店で買ったなら」


 翌日、宗助は『失せ物の森』へとやって来た。手には黄色いバケツを持っていた。

 なんど来ても気味が悪い場所だ。

 夏だというのに肌寒く、昼だというのに薄暗い。

 実のところ宗助にとって、いきものを探すのは、はじめてのことだった。いったいどうやって、命を持った存在がこの森にやってくるのか、見当もつかなかった。

 そんなことを思いながら、紙ナプキンをちいさな地図のように広げて、そこに書かれた依頼人の名前を呼ぶ。

「瀬田良蔵」

 それに答えるかのように、枝をゆすった木があった。沼を避けつつ、宗助は近づく。

 根は暗緑色の沼に半分埋もれている。そこから伸びた黒い幹は、火に炙られて焦げたようだ。

 二股に分かれた枝のあいだに、うごめくかたまりが、宗助の目にはいる。

 亀――雪乃はぴくぴくと震えながら、空を眺めていた。

 そこで宗助は、あらかじめ用意しておいた黄色いバケツを近づける。

 亀などを持ち上げるのははじめてのことだった。

 予想以上に甲羅がぬめって気持ちが悪かったが、とにかくバケツに入れることには成功した。

 右手に雪乃の重みを感じながら、木々をぬって歩くあいだも、宗助はあることを考えていた。

 前回見つけてしまった、妹の名前のプレートが添えられた、あの木のことを。

 『中村美樹』

 多くの木がそびえる中でも、妹の木にたどりつくことは容易だった。

 やや白味をおびた大きな平石が目印になった。

 見るともなしに、見てしまう。避けようとも、どうも足が向く。

 やがて宗助は、妹の木の前まで来てしまった。

 ほかの木よりも幾分か細い幹は頼りない。まばらな枝はあてどなく、宙へと張り出していた。

 その枝のひとつに、一組の白い靴下がかかっていた。

 柔らかな繊維で編まれた靴下は、洗剤のにおいがしそうなほど、清潔な印象があった。

 くるぶしのあたりに、ちいさな蝶の模様があしらわれている。

 宗助は、それを持って帰るべきかを悩んでいた。

 死んでしまった人間の失せ物を持って帰るというのは、無為なことだ。誰がよろこぶというのか。

 それに、この次はなんなのだ、と宗助は思う。

 次に来たときに、この木はなにをぶらさげているのだろうか。

 靴下のほかに妹が探していたものは、思いつかない。


 その足であらかじめ聞いていた瀬田の住所に向かった。

 瀬田は一万六千円を支払い、雪乃を抱えて玄関の奥へ消えていった。

 それから宗助は、雪乃の丸い頭や生臭いにおいをなかなか忘れられないまま、部屋に戻った。

 ソファに座ったとき、ふとポケットに靴下があることを思い出す。窓からきつく射し込んでくる夕陽に目を細めながら、赤く染まっていく靴下の生地を眺めていた。

「おれはあいつを、嫌っていた。いや、疎んでいた。うらやんでいた。だから隠したんだ」

 そんな風につぶやいてみる。

 小学校中学年のことだ。宗助は妹が大切にしていた二つの物を隠した。

 ハンカチは縁の下に、靴下は屋根の雨どいの影に。妹が失ったものは、やはり『失せ物の森』へやってきていた。妹自身がこの世に存在しないというのに失せ物たちは妹の木へと身を寄せていたのだ。

「もう、ほかにはないはずだ」

 宗助はつぶやいて、靴下を窓辺に投げやる。

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