お試し去勢体験

森エルダット

今日のこと

 実家から逃げ帰ったあと、私は京急に揺られていた。京急の座席は、どの車両も今まで乗ったどんな路線よりもふかふかで、その時は中でもスペースを贅沢に使った、背中をぜんぶ預けられる大きな椅子に座っていた。けれど、乗り心地はさして良いものではなかった。胃の中には、あの家の食べ物がどろどろになって詰まっていた。

 私がなにも言わなくても、母親はいつも帰省すると食事を作る。それは、少なくとも私は、私への愛情というよりも、長く染みついたあの家での動作をなぞろうとしているようにしか見えなかった。母親は食事を出す時に、いつも同じ笑顔で、同じセリフを宣言する。はい、まいちゃんご飯できましたよ。私はそれが、ここに引っ越してきた時の、私が小学生だった時の行動の再現を、何かに怯えながら行っているようにしか見えない。まいちゃん、だなんて、幼児語を久しぶりに浴びせかけられた私は、すぐに帰るって言ったじゃん、と言った。瞬間、母親の顔は、さかさまにひっくり返ったようになる。いいからたべて。母親は早口で、ひそめくようにそう言った。母親は私が、この家ですることになってしまっている行動、例えば、ご飯を出す、私が男物を着る、台所の裏のおびただしい数のゴキブリを気づかないふりをして無視する、そういう行動から逸れようとすると、皺の増えた額をさらに歪ませて、小声で、早口で、誰かに見つからないように私を諭す。こうなると、反抗してもヒステリックになるだけなので、従わざるを得ない。私はあの家の、おそらくはゴキブリのフンが少なからず混ざったご飯を食べた。ゴキブリのフンは正直どうでも良かった。あの家で子供の時から生き抜いたのだ。幼少期から毒の耐性をつけられたキルアと同じ、家庭の事情というやつだ。だけど、その鯖の塩焼きには、変にべたつくきんぴらごぼうには、米の一粒一粒には、あの家自体が発する、呪詛のような息、平穏で静かな狂気の瘴気、そういうものが染み付いている気がして、これを食べて家から脱出したら、駅のトイレで全部吐こうと思った。結局、ゆで卵の白身にまとわりつくような、わずかな硫黄の臭いのするトイレで、どんなに喉に指を突っ込んでも、ほのかに白く濁った胃液しか出てこなかった。酸っぱくて、痛くて、横から小便が陶器に跳ねる音がしていて、嫌になって諦めた。

 私は持ってきた小説を読み終わって、暇になって、ずっと窓の外を見ていた。来る前にスマホの充電をし忘れてしまって、昨晩電車の中で見ようとダウンロードしていたアニメは結局一話も満足に見れなかった。窓の外は、変わり映えのしない暗闇だった。けれど、それらが次第に無機質なコンクリや、見るだけでうるさいと感じる広告に支配されていくのを見て、なんだか、少しずつ息がしやすくなってきた気がした。降りる予定の駅のアナウンスが流れて、私はドアの側に立った。ドアの横では、お試しヒゲ脱毛体験1000円のテロップとともに、サンドイッチマンの二人が大きく口を開けて驚いていた。私はそれを見て、サンドの趣味で人殺してそうな方ってかっこいいヒゲ生えてんじゃん笑、って小さく笑った。私はこれで笑えるくらいには、あそこの席に座ってる間に回復してたんだなと気づいた。

 ドアが開いて、ごった返した階段の列に並んだ。進む方向と真反対の方を向いた矢印と共に、「おりる」と書かれたパネルを無表情で踏んで階段を登っていく人たちとなんか一緒にされたくなくて、多分こういう時には関係ないんだろうけど、一応「のぼる」用の列に並んだ。私は降りる時に小説の解説を読み忘れてたのに気づいて、数行だけ読んだ解説のページに、指をしおりにして挟んで、片手に携えていた。私の斜め前には、多分高校生の人がいた。この時期にタイツも履かずにいたのを見て、自分とは足に通っている神経の本数が違うのかもしれないと思った。

 階段を登りはじめて、私はポケットに小説が入らないことに気づいた。一瞬、意味がわからなかった。私が何をしているのかよくわからなかった。コンマ数秒ラグがあって、端が折れた小説を、必死にポケットに突っ込んでいる右手に気づいた。

 そうか、と思った。普段右手にあるのはスマホだ。階段で前に短めのスカートを履いた人がいたら、ポケットに突っ込む。それは私が、あの母親と同じように長年培われた、そういうことになっている動作だった。右手に持っている小説が、とたんに死んだモノに見えた(生きてる小説なんてないけど、そうとしか言えなかった)。表紙で洋梨をついばんでいる小鳥の目よりも、今はiPhoneの内カメの方が、生気のある、くりくりとしたつややかな眼球に見える気がした。

 私が女だったら、こういう状況のスマホは、この小説のように死んでいるのかなと思った。階段を登る時のスマホは、前にミニスカを履いている人がいるという条件下で、ずっと私の身体の一部になって、血が通って拍動していたことに気づいた。スマホというよりチンポの方が近い気がした。私は股間だけではなくて、右手からもチンポが生えていたんだなと思った。私は小説を携えた右手を見て、欠落、というより、去勢をした感じがした。右手に小説を揺らして登った階段は、いつもよりすこし、軽やかに登れた気がした。

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