朝顔の忌み子

さら坊

望まれて産まれた、望まれぬ子

「タオル!新しいタオルの替え持ってきてー!」

「ゆーっくりですよ、ゆっくり息を吸ってーはい、吐いてー」

「数値、全部正常です。頭見えてきてます」

「お母さん、あと少しですよー頑張りましょうねー」


 数多の声が、彼女の誕生の手助けをしていた。その声の中心には、新たな命をこの世に産み出さんとする一人の女性がいた。彼女の名は内海うつみ さくら。時を同じくして、院内の廊下に並ぶ硬い椅子には、赤ん坊の泣き声を今か今かと待っている夫の零士れいじの姿もあった。

 



 二人の交際は、まるで恋愛の模範ともいえるほどに幸せそのものだった。

 桜の為ならば苦労をも苦労と思わない零士と、そんな零士を強く支える桜の関係は、周囲から羨望の眼差しで見られていた。


 大学の先輩後輩だった二人は、零士の就職や桜の卒業を終えたタイミングで籍を入れ、桜の身体に異変が起きたのはそれから約半年後―――交際してからで言えば、三年半が経った頃の出来事だった。


 二人が住んでいたアパートの、すぐ向かいに位置する小さな公園。

 公園内のベンチでは、無邪気な子ども達を前に幸せな会話が繰り広げられていた。


「零くん、この子の名前どうしよっか」


 桜は自分のお腹をさすりながら未来のお父さんに尋ねた。


「うーんそうだなぁ、男の子と女の子、どっちの名前も考えないとだよな」


 零士は顎に手を当てながら、空を見上げ考える。そんな零士の頬は、隣に座っている桜から見てもあからさまに緩んでいた。


「あ、でも私、女の子になったら"朝乃あさの"って名前にしたかったんだ」

「おぉ、良いじゃないか、かわいらしさもあってなんだか縁起も良さそうで―――にしてもなんで朝乃なんだ?」

 零士がそう聞くと、桜は少し恥ずかしそうに下を向きながら答える。


「―――零くんは初対面の時私になんて声かけたか、覚えてる?」


 初めて会ったとき―――? 零士は明後日の方向を睨みながら必死に思い出そうとしていた。


 桜は「あー覚えてるぞ。あれだろ、あれだあれ」と焦る零士をみて、少し微笑みながら続けた。


「桜って名前、綺麗だね、って言われたのよ。その時は長年使ってきて慣れてた名前だったし、そんな可愛いかなぁって思ったけどね、零くんと一緒に過ごせば過ごすほど、私は自分の名前が好きになっていったの。

 だから、自分に娘ができたら、その子にもお花の名前を付けてあげたくって」


 その瞬間、零士は改めて、この人と結婚して良かったと心からそう思った。


「朝って―――朝顔か?」零士は全力で表情を保ちながら尋ねる。

「正解! 私、植物の中だと朝顔が一番好きでさ。なんだか、皆が嫌いがちな朝を、頑張って盛り上げてくれてる感じがしない? だからこの子には、そんな朝顔みたいに皆を笑顔にしてあげられるような、そんな子になってほしくって―――変かな?」

「ううん、素敵だ。めっちゃ、良いと思う」


 桜のまっすぐな想いに胸を打たれてまともな返事ができないでいる零士をみて、桜はまた笑っていた。




 周りの助産師さんが各々の声を上げている中、桜はそんなことを思い出していた。とうとう痛みで走馬灯のようなものを見始めたのだろうか。もう、ダメだ―――意識が遠のくのを感じたその時、桜はいつの間にか花畑のような所に立っていた。


「へ―――?」


 彼女は驚きと混乱から、自分でも耳を疑うような気の抜けた声を出していた。

 先ほどまで自分を襲っていた、地獄のような痛みはどこにもない。それどころか、立っている地面には赤青黄色の鮮やかな花が咲き乱れており、その中には朝顔も混ざっていた。


「綺麗―――朝乃、これからは朝ちゃんって呼ぼうかな。はやく会いたいよ―――」


 桜は赤子を迎えるように朝顔に手を伸ばす。それに答えるように、朝顔のつるが桜の手の平に向かって優しく伸びた。そのつるの先には、小さな朝顔の種が丁寧に握られている。

 朝顔からのプレゼントを手のひらに受けた瞬間、桜の視界は晴れ、耳元に大きな衝撃が走った。


「おぎゃああ、お、おぎゃああああああ」


 ある病院の分娩室から、元気な産声が響き渡る。その声で桜は意識を取り戻した。こんなときに私は夢を見ていたのだろうか。


「お疲れ様でした内海さん! 見てください、元気な女の子ですよ!」


 助産師さんが先ほどまでの音量のままでそう告げる。彼女も疲れているのか、少しふらつきながら朝ちゃんを私の隣に置いてくれた。


 あぁ、この子が、私の可愛い娘。

 今まで感じたことのない感動が、桜の心を駆け巡った。


 それから少しして零士も病室に入り、安堵を含んだ満面の笑みで朝乃と対面した。

 落としてしまいそうで怖いから、と抱っこすることはなかったが、零士も感無量な自分をごまかすために、朝乃に何度も何度もいないいないばあをしていた。

 その目にはうっすらと、涙が浮かんでいたようにもみえた。




 魂を削るような出産を終え、しばらく経った頃。助産師の一人が朝乃を別室に移そうと、朝乃を抱っこして病室を出た。


 異変が起きたのは彼女が病室の扉を閉め、二、三歩歩き始めたときだった。


 突然助産師の周りが断崖絶壁に囲まれ、病室から離れられなくなってしまったのだ。下を見るのも怖くなるほどの暗闇が、彼女の一歩前に広がっている。


「は―――? どういうこと?」


 助産師は訳も分からぬまま肩で目をこすった。しかし一向に目の前の景色は変わらない。


 彼女は眉を曲げながら一度病室に戻り、キャスター付の小さなベッドに朝乃を乗せ、もう一度病室の外を見た。


 戻った―――? そこにはさっきの光景が嘘だったかのように、いつも通りの無機質な廊下が広がっていた。


「きっと疲れてるんだわ―――この子になにかあるといけない、抱っこは止めにしよう。そうすれば万が一も落としたりすることはないはず―――」


 助産師はそのままキャスター付きのベッドを転がして、丁寧に別室に移動した。

 そこからは先ほどの幻覚が嘘のように足取りも軽く、あっという間に指定の場所までたどり着いた。


「なんだ、やっぱり疲れてただけじゃない。あぁ、びっくりした―――」


 大きくため息をつきながら、また少し大きめのベッドに朝乃を移そうとしたとき、そのベッドの隙間から突然、ヌルッと蛇が現れた。


「ヒッ―――!」

 

 しかもそれは一匹だけではなく次々に姿を現し、一匹、また一匹と自分の腕に絡みついてくる。


 蛇特有のガタガタとした鱗と、身体中の筋肉の動きが触感として皮膚から伝わってくる。これは、偽物じゃない。そう確信できるほどに、そこには確かな実感があった。 


「やめろ、この―――赤ちゃんに―――近づくなっ!!」 


 助産師は意を決して蛇に噛みつき、一匹ずつ朝乃から引き剥がした。振りほどいた蛇は地面に転がり、それでも尚自分の足に絡みついてくる。

 

 早く、早くこの子を―――! 助産師は顔を引きつらせながらも、朝乃を一つ隣のベッドに手早く移し替えた。

 

 あれ―――?

 

 信じられないことに、朝乃をその場に置いた途端に蛇たちはその場から忽然と姿を消した。


 その瞬間、助産師はあることを察した。

 この朝乃という赤ん坊、この子に触れると謎の幻覚に襲われる。


 それから早歩きで休憩所に急いだ助産師は、放送を用いて病院内からできる限り多くのスタッフを集め、このことを報告した。


 そんなことはありえない、証明できない、と語る医師や看護師たちは、例外なく彼女に触れ、地獄を見た。


 見る幻覚は人それぞれで、怪物を倒そうと手を振りかぶった先に同僚がいたりした者もおり、皆この力を恐れ始めていた。

 関係者全員が怖じ気づいていた集会の中で、一人の男が心を決めて発言した。彼はこの大病院の院長だった。


「これは極めて、理解とは程遠い状況だ。しかし危険な事例がいくつかあったことからも、この件は両親にも伝える必要があると判断した。私の方から、伝えよう」




「なんの冗談ですか、朝乃が危険だなんて―――まだ赤ちゃんですよ!?」


 零士は未だに院長の言葉を信用できずにおり、その隣で桜は密かにあの花畑を思い出していた。もしや、あの朝顔は朝ちゃんの幻覚だったのだろうか、と。


「冗談ではありません。我々も信じがたい話ですが―――如何せん証人が多い。彼ら全員が結託して法螺ほらを吹いていると考えるのは流石に無理があるだろう、というのが我々の見解です。

 それでですね、本来入院期間は今日で最後ではありますが、個人の家で面倒を見ることが難しいようであれば、施設の提案も―――」


 院長がそう話す間も、二人のすぐ隣にはベッドに寝かされている朝乃がいた。朝乃は目を閉じながらも、居心地が悪そうに口をつぐんでいる。


 零士は朝乃に触れながら院長を睨んだ。


「朝乃は、僕らの娘だ。ほら、今こうして触れていても何も起こらないじゃないか。それをまるで忌み子のように―――そっちに言われなくてもこちらから出て行ってやるさ」

「―――そうですか」


 そう吐き捨てると零士はテキパキと退院の手続きを済ませ、朝乃を抱えながら桜の肩を支え、車で颯爽と病院をあとにしたのだった。


「―――良かったんですか、院長」

 ある看護師が気まずそうに院長に尋ねた。院長は深く息を吐いて唸った。

「あぁ―――本人たちの意向が最優先だからね―――仕方ないさ。だが―――」


 院長は去って行く車を眺めながら、眉をひそめた。


「彼が最後私に恫喝していたとき、彼の目線は私を捕らえていなかったんだよ―――ただ興奮して焦点が合ってなかっただけだと、信じるしかないね」




 家に帰ってきた二人は、変わらず重たい雰囲気に包まれていた。


「ねえ零くん、零くんは幻覚を見ていないのよね―――?」桜は零の機嫌を伺うように慎重に聞いた。

「当たり前さ、自分たちの娘なんだから。もし、万が一、朝乃にそんな力があったとしてもだ。病院での出来事は―――そうだ、朝乃が桜と離されて寂しいよーって伝えたかっただけさ。悪意なんてあるはずない。

 だって朝乃はまだ歩くこともできない、赤ちゃんなんだから」


 それを聞いて安心した桜は、吹っ切れたかのように零士に口を開いた。


「そうね―――そうよね。今だから言うけど、実はね。産む直前、私も幻覚を見た気がしたの。でもね、それは綺麗な花畑で、そのおかげで痛みもなく朝ちゃんを産むことができたのよ。

 そうね、零くんの言うとおり、この子は私たちが大好きなだけなのよ―――」


 零士はそのことを聞いて少し動揺した様子を見せたが、桜には悟られないように表情を隠し、桜を抱きしめた。大丈夫、大丈夫だと。お互いを安心させるように。

 

 その隣で朝乃は、ただにっこりと、笑っていた。




 それから少しして、零士側のお義母さんが朝乃に会いに家に訪れた。


 桜は実家があまり裕福ではないこともあり、そういうことを気にする零士の両親にはあまり好かれていなかったのだった。


「あら、お久しぶりね、桜さん。今日はね、お礼を言いに来たのよ。私、孫を見るのが夢だったから。あなたの血が通っていても、零ちゃんの娘であることには変わりはないもの。ねぇ、零ちゃん」


 桜はこの姑のいやらしさに毎度参っていた。この時代遅れな気さえしてくるほどの嫌な姑の典型。これには当然零士も嫌気が差していた。

 それでも今回呼んだのは、世間一般的にそうすべきで、致し方ないと判断したからだった。


「零ちゃん、この子が―――なんだっけ、朝乃ちゃんだっけ? もうちょっと良い名前はなかったのかしら。ねー貴方もそう思うでしょー」


 そう言って姑は甘ったるい声を出しながら朝乃に近づいていく。朝乃はずっと姑のことを真顔で見続けていた。

 そしてとうとう姑が頬を撫でるように朝乃に触れた。桜たちは目を細めてその様子を観察していた。


「あらあら、ほんと。零ちゃんに似て可愛いじゃない―――」


 姑に変化は―――なさそうだ。やはり見える人と見えない人がいるのだろうか。そう思いながら二人が胸をなで下ろしたときだった。


「なんか、この部屋ブンブン五月蠅いわね―――虫でもいるんじゃないの? 

 ―――あ、やっぱり。って蜂じゃないの! 危ない! しっしっ!!」


 突然電気のひもに向かって姑が手を煽ぎ始めた。当然桜たちには羽音など一切聞こえていない。しかも今までの幻覚と異なるのは、もう姑は朝乃に触れていないことだった。

 まさか―――朝乃の力が強くなってる―――? 二人の不安はどんどん強くなってゆく。


「蜂が―――こんなにいっぱい、これ、近くに巣があるんじゃないの!? 

 ―――って痛い、なにこれ―――ちょっと、ムカデまでいるじゃない!」


 そんな二人をお構いなしに姑の幻覚はどんどんエスカレートしてゆく。傍から見たらその姿はまるで、狂乱のマリオネットだった。


 結局、幻覚が見え始めてからほんの数分で姑の身体を虫が覆い尽くしたようで、彼女は家から飛び出していってしまった。憎たらしい存在が慌てふためいて逃げ出す様は滑稽にも見えたが、同時に不安も大きく残った。


 朝乃はまだ、生後半年も経っていない。


「大丈夫だよ。今回だって朝乃は、お母さんがいじめられていることをどこか悟って、それで追い返してくれたんだ。お母さんのこと大好きだもんなー朝乃は」


 そういって零士は朝乃の頬を撫でる。そんな彼の表情は非常に恍惚に見えた。

 肝心の朝乃は、これまた満面の笑顔を浮かべていた。




 育児は基本的に桜が担当していたが、案外苦労することがなかった―――ように零士には見せていた。


 桜から見ると零士には本当に幻覚が見えていないそうで、自分だけが"見えている、怖い"というと零士があからさまに嫌な顔をした。

 零士は朝乃を無害だと信じ切っている。まるで朝乃に心酔しているかのように。


 しかし実際は苦しいことばかりだった。ごはんをあげるにも、オムツを替えるにも、朝乃に触れないというのは非常に難易度が高い。


 これは段々分かってきたことだが、嫌な気持ちを抱えている朝乃は周囲に非常に恐ろしい幻覚を見せることがあった。

 例えばお腹がすいたときや、オムツを替えて欲しいときとか。これは桜にとっても恐怖でしかなく、近頃桜は段々朝乃に触れるのが怖くなっている自分を無視できずにいた。


 それでも、朝乃がたまに見せる笑顔や、自分にだけ見せてくれているだろう天国のような幻覚が、桜の精神状態を保たせていた。


 そんな朝乃も幻覚を除けば普通の赤ちゃんなわけで、夜泣きもしょっちゅうだった。

 彼女の泣き声は部屋中に響き渡っており、当然零士にも聞こえているはずなのだが―――なぜか零士はそういうときに限って起きる素振りをみせない。なんなら泣き声さえ聞こえていないのではと思わせるほどだった。


「よーしよし、怖くないよー。ご飯もさっき食べたし、おトイレもしたでしょー。大丈夫だから、ねんねしようねー」


 そう呼びかける桜は、突如耳に激痛を感じ、瞬時に耳を塞いだ。

 そして布団の上でじたばたと、それこそ子どものように暴れ始め、呼吸もどんどんと荒くなっていった。

 この時、桜の耳には朝乃の泣き声がこの世のものとは思えないほどの音量となって聞こえていた。


 叫び声とも、金属音とも取れないような―――本当にその音量を聞いていたら間違いなく鼓膜が破れていたであろうほどの不協和音。

 数秒聞いただけで桜はそのまま倒れるように失神してしまった。


 こんなことが、幻覚の違いはあれど、しょっちゅう起こっていた。

 



「ピンポーン、ピンポーン」


 いつも通り死んだように倒れていた桜を、無慈悲なチャイムがたたき起こした。


 隣には―――満足そうに微笑む朝乃が転がっていた。きっと零士が出勤前にごはんとトイレを済ましてくれたのだろう。

 毎度幻覚を見ない零士にはこの上なく助かっている。できることなら育児と仕事を入れ替えたいが、私には今現在定職と呼べる定職がない。これも致し方ないことだった。


 ふらふらと扉の方に向かい、ドアから外を覗くと、そこには近所の西条さいじょうが立っていた。彼女はここ付近では有名な―――言葉を選ばずに言うなら、少し厄介なおばさんだった。


 色々なことに文句を付けるほか、自分に子どもがいないからか近所の子どもたちを片っ端から叱り散らかすことも日常茶飯事だった。


 そしてそれは、赤子でさえも例外ではなかったのだった。


「内海さん、いるんでしょう?ちょっと出てきてちょうだい」


 桜は慎重にその扉を開く。


「おはようございます―――」

「おはよう、じゃないわよ全く。あなたのとこの赤ん坊のせいで、私たちは全然寝れてないのよ! いい加減にしてちょうだい」

「すいません―――次からはできるだけ―――」


 桜はとにかく平謝りすることしかできなかった。夜泣きとはいえ、迷惑をかけているのはこちら側だったから。


「うわあん、わあああああああああん」


 その後も絶え間なく降り注ぐ罵詈雑言にひたすらお辞儀で対抗していた矢先、桜の後ろではそのやり取りを聞いて朝乃が泣き始めていた。


 いけない、最悪のタイミングだ。目の前の西条の表情が曇っていく。


「このざまで、これから先どう改善するって言うの? 説得力ってものがないわ―――チッ、ほんと五月蠅いわね、私が黙らせてやるわ」


 そう言ったかと思うと、西条は土足のまま家にドスドスと踏み入り、まっすぐ朝乃の方へ向かっていった。


「何するんですか! やめてください! 警察呼びますよ!!」

「別に手をあげるわけじゃないわよ、子どもってのはね、こうするの―――よ!」


 西条が朝乃の手を力強くつかんだ途端、朝乃の泣き声はすんと止まり、同時に西条の動きも止まった。

 後ろから追いかけていた桜から見たら、そこはまるで時が止まったようだった。


「何が―――どうなってるの―――」

 桜が困惑していると、数秒して西条が先に止まった時間の中から脱出した。

「―――あぁ、だから―――こうっ、するのよ―――!」


 そう言いながら西条は朝乃から手を離し、自分の手で自分の首を絞めていく。


「何してるんですか、やめて―――くださいっ! 死んじゃいますよ!?」


 桜は必死に自分の首を絞めている西条の手を緩めようと力を込める。しかし西条の握力は女性のものとは思えず―――というより人間のものとも思えないほどに強く、固かった。


 桜が焦っているうちにも、刻一刻と西条の表情が青白くなってゆく。


「こ、れくらいでいいのよ―――! こんくらいしないと赤ん坊は―――静かに―――ならない、か、ら」


 その言葉を最後に、西条はパタリと顔から床に突っ伏した。そこから数十秒、桜は恐怖で救急車を呼ぶことすらできなかった。


「キャキャ、あーう」


 その隣で、朝乃はいつものように笑い出した。




 その後病院に運ばれた西条は、まもなく息を引き取った。朝乃が、初めて力を使って人を殺めてしまった。変死、という扱いにはなったが、医者からしても首をかしげる死因だったという。


 西条の首元に残った指紋や手の跡は間違いなく西条のものであったため、不幸中の幸いにも桜が疑われることはなかった。


 しかし医者からすれば、人間は自分で自分の首を絞めるなんてことはできないという。苦しくなれば、普通は自然とストッパーが働き、手を緩めてしまうはずだ、と。

 その話を聞いた桜の身体の奥底で、何かが落ちる音がした。


 桜は、この時点でひとつ、決心していた。この子は、私の大事な娘だ。自分の命よりも愛しい、我が娘だ。だから、私は、この子と一緒にあの世で暮らそう、と。


 桜は朝乃に聞かれないように、玄関を出て少し歩いたところで、全てのことを零士に話した。それを零士は、なんともいえぬ表情で聞いていた。


「桜、もう少し、もう少しだけ待ってみないか。力がどんどん強くなってるのは―――俺には分からないけど、今回のことでなんとなく察したよ。でも、もしかしたらだぞ? 今後朝乃が成長したら、この力をきちんと操れるようになるかもしれない。

 現に彼女はまだ、自分の願いに応じてしか力を使っていないじゃないか。今回だって、いきなり掴まれて、怖かっただけだよ、きっと」


 そう話す零士の目に、桜の姿は映っていなかった。桜は、全てを悟った。

 もうこの世で朝乃を殺せるのは、私しかいないのかもしれない。




 その日も、何も変わらない休日だった。零士はいつも通り朝乃を抱えて不気味に笑っている。桜はその二人に料理を作っていた。今日の献立はカレーだった。


 赤子には刺激の強いものは与えてはいけない。そんなことはもう桜の頭にない。スパイスの効いた香りが部屋を覆ったとき、二人分の器に本来カレーの材料ではない異物が加えられた。


「零くん―――貴方だけは、生きて―――」


 そうつぶやきながら配膳をする桜の目には、涙がにじんでいた。


「「いただきます」」


 いつも通りの挨拶から、我が家の食卓が始まった。零士は何口か食べた後、とうとう朝乃の目の前にある皿に手を伸ばした。そのまま幼児用のスプーンを握り、朝乃の口へとカレーを運んだ。

 一口、二口。朝乃は口を尖らせながらひたすらカレーを咀嚼し、飲み込んでいた。


 ―――遅い。零士から「どうした桜、食べないのか?」と疑われてしまうほどに、数十秒経っても朝乃の様子は一切変わらなかった。


 どういうことだ。


 桜は試しに自分のカレーを一口舐めてみる。―――甘い。

 まさか、とキッチンを見ると、そこにあったはずの"異物"が、砂糖に変わっていた。


 やられた、この位置でも幻覚を見せられるのか。


 既に桜に余裕はなくなっていた。ここまで正確で、それでいて範囲も広くなっているとなると、彼女の力はもう底が見えない所まできている。

 桜はゆっくりキッチンに向かうと、冷や汗を拭いながら包丁を片手に携え、できるだけ"普段通り"を意識して朝乃に近づいた。


「朝ちゃん、そのにんじん、ちょっと大きすぎるね。いま、切ってあげるからね」


 はやる動悸を全力で押さえながら、ゆっくり、ゆっくりと朝乃の近くまで包丁を移動させてゆく。

 とうとう包丁は、朝乃のお腹の辺りまできていた。その瞬間、桜の頭には色々な走馬灯が駆けめぐる。

 

 だめだ、ためらってはいけない。これも、彼女の仕業かもしれないのだから。


「―――ごめんね」


 桜は一気に手に力を込める。生々しい感触が彼女を襲った。それは人生で一番、気持ちの悪い感覚だった。


「キャキャ、んあーあはは」


 固まっている桜の右耳に、上機嫌な朝乃の声が響く。朝乃の顔が、少しずつ愛しい人の顔に変わってゆく。

 

 やめて、お願いだから、こっちが幻覚であってくれ。そんな願いは儚く散った。


「この―――悪魔め―――!」


 もとより自分の生にしか興味がなかっただろう化け物に、今度はためらいなく刃物を向ける。これで、全て終わる。終わってくれ、と祈りながら。  




「通報があったんですけどー、誰もいないんですかー? ―――入りますよー」


 慣れた手つきで、二人の警官がある家に踏み入った。そしてそのどちらもが、その惨劇を見て例外なく絶句した。


 リビング以外は、まだ暖かい家庭の雰囲気が残されている。しかしあちこちに散らばるおもちゃや洋服が、この先の地獄への不穏さを引き立てていた。


 家族の団らんの象徴と言ってもいい食卓は、赤黒い液体と、そこから香る死臭で包まれていた。そこには胸元に深い刺し傷がある男性と、多くの傷を負いながらも力強く包丁を握りしめている女性が横たわっていた。


 女性の方はこの状況に相応しい表情をしていたが、男性の方は、不思議にも口元に笑みを浮かべていた。まるで全てに満足したような、恍惚とした表情。

 その不気味さに、先輩警官は顔をしかめていた。


「なんだこれ―――心中、ですかね」瘴気に塗れた空間で、若い警官が意を決して声を発した。

「それはまだわからん―――というか、もしかしてそこにいるのは赤ん坊か?」


 一人の警官が、二人分の死体にまみれ、地面に転がっていた血まみれの物体を指さした。遠目から見ると汚れた家電か何かかと思えたは、確かに微かに揺れているようにも見えた。


「げ、この中生き残ってる赤子がいるんですか。こりゃまた悲惨というか、奇跡というか」


 無防備にその赤子に近づいた若き警官は、その赤子が傷一つないことに大きな違和感を覚えた。普通一家心中するとなったら、一番力の弱いものから殺すはずなのに。もしやこの事件は両親の喧嘩が過激化した、とかなのだろうか。


「んー、まあとりあえず何があったかはさておき、君はちょっとお兄さんと一緒に来ようかー」


 警官は先輩警官にアイコンタクトをして、小さな身体に手を伸ばした。


「うーん、キャキャ」


 優しく彼女を抱える警官の腕の中で、彼女は不敵に笑っていた。

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朝顔の忌み子 さら坊 @ikatyan

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