第2話

 印刷会社社員・宇喜多は、酒を飲みすぎて病院に担ぎ込まれ、副院長・野崎豊から胃潰瘍と診断された。しかし実際はスキルスといわれる末期の胃癌で、最も重症の部類に当たる病状と判明する。「少しでも長生きできるよう延命処置を取るべきだ」と主張する野崎。しかし、ライバルであり同じく医師の正岡徹平は「患者に苦痛のないような死に方を理解し支えるのも医者の仕事」と考え、新設されたホスピス病棟の仕事に全力を傾け、意欲を燃やす。そんな中、うかつな正岡の言葉から自らの病気を知った宇喜多は、動揺を隠しきれず病院を抜け出そうとする。結局、宇喜多は正岡の勧めでホスピス病棟に入るが、自身の余命を逆手に取り、今まで自分を小馬鹿にした奴に復讐をすることを企む。 

  

 朝倉と貞夫の戦争は激化した。貞夫はピストルで朝倉を撃とうとしたが、貞夫は血を吐いて死んだ。朝倉は結核を作り出した。

 

 譲二は覆面パトカーをスナイパーライフルで撃った。


 吹田重通のその後……。

 1467年(応仁元年)の応仁の乱直後に、三宅氏(三宅城)、茨木氏(茨木城)、芥川氏(芥川城)の国人衆らと吹田氏は東軍に属し京都で戦いを繰り返した。しかし1482年(文明14年)細川政元の国人一揆制圧の中、『大条院寺社雑事記』によると、吹田重通は摂津国守護代薬師寺元長に追われ、以後吹田城は薬師寺元長に与えられた。


 1526年(大永6年)、香西元盛と細川尹賢との角逐に端を発した争い(八上・神尾山両城の戦い)は、細川高国と細川澄元の合戦へ拡大していった。


 細川高国軍に与していた池田城を、細川澄元軍が中之島まで挙兵し、それ応じた三宅氏、吹田氏は吹田城周辺に陣を構えたが、伊勢国神戸衆、伊丹衆に攻められた。


『足利季世記』によるとこの時吹田衆を率いていたのは吹田美童で打ち取られてしまった。


『日本城郭大系』では「吹田城の荒廃はこののちのことであろう」と記載している。


 しかし『市史点描』によると「1571年、信長方の武将、和田惟政が三好三人衆に味方したと思われる吹田氏を攻め、吹田城を攻略、57の首級をあげた。


 この戦は戦国時代の終末を示す吹田地域最期の激戦」としていたり、『吹田城散華』によると「吹田因幡は、はじめ三好三人衆に通じていたから、元亀2年(1571年)和田惟政の吹田攻略に倒れ、その娘を縁組して、荒木村氏(荒木村重の異母弟)が入婿となったのである。


 吹田城はこの時から、荒木の城となったといえる」としている。


 また『吹田城散華』では「荒木は、池田を焼き払う。


 恐らく吹田城も焼き払って、城主一族ともども伊丹に集結した」とあり、また『わが町すいた』によると「天正6年(1578年)荒木村重とともに織田信長に反旗をひるがえし、翌7年非業の最期を遂げた吹田氏の居城の跡」とし、有岡城の戦い迄は存在していたとしている。

 

 

 

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闇に叫べ! 14 吹田殺人事件 鷹山トシキ @1982

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