俺は何も分からない

野元志唯

俺は何も分からない

 もし、この世界が全て嘘で包まれていたとしたら、あなたは、どう思うだろうか?いや、もしもではない。実際、そうなのだ。


 俺は、いつものように会社へ行く。ニューヨークの一等地にある高層ビル。ここは、俺の勤める国連が管理しているビルだ。

 その中でも頭が切れてエリートの俺は、最上階へと足を運ぶ。

「DCA」

 そう書かれたオフィスの中に入ると、広いオフィスにデスクが並んでいる。

「大村、おはよう!」

「おはようございます」

 いつものようにメンバーと挨拶をする。

 ここは、国連の裏の最高機関、DCA。俺はここで、世界の情報を操作する仕事を行っている。

 この世界にあるものの多くは、この機関で作られている。例えば、宇宙、戦争、歴史……。今まで君たちが教えられてきたもの、テレビやインターネットを通して見てきたもの、それは全て、この機関で作られた嘘だ。

「あ、みんな、仕事始める前にちょっと聞いてくれ。今日は新しく新人が入った。大村の新しいバディだ。入っていいぞ」

 所長にそう言われて入ってきたのは、少し背が小さく、黒いサラサラのロングヘアをきれいになびかせた、若い女性だった。

「はじめまして、今日からお世話になります、クロエです。皆さんの足を引っ張らないよう、精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します」

 彼女はとても礼儀正しく、この仕事にやる気が満ち溢れていた。

 まあそうだろう。この機関に入れるのはこの世界のエリート中のエリートのみ。学力やこれまでの努力、国連への情熱なども問われる。

「こいつはまだこの機関の本当の仕事は知らないから、大村、お前が教えてやれ」

「いや、大まかな仕事内容は国連の研修のときに説明を受けたので、把握しております!」

 この笑顔、ここでの仕事に希望しか抱いていないキラキラした瞳。全く同じ表情を、どこかで見たことがある気がした。

 こんなに心が純粋そうな子に、この世界の真実を伝えるのは少し胸が痛む。

「まあ、とりあえずこっち来て」

 俺はそう言って、彼女を小さな個室に案内した。


「君、今から言う事実を受け止める覚悟はあるか? ここは世界の最高機関だ。だからその分、責任も重大。秘密を守れなかったら必ず殺されるし、この世界を大きく動かす仕事をしている。それでもお前は、この仕事に命を捧げる覚悟はあるか? どんな事実を知っても、ここで働き続ける覚悟はあるのか?」

 俺が言うと、彼女は少しの間、下を向いた。しかし、しばらく経つと俺の目をまっすぐ見つめて言った。

「私は、国連に入るために生まれてきたんです。この世界を守りたいんです。そのために、ここまで頑張ってきたんです。だから、ここで仕事をして死ねるなんて、本望です。この仕事に命を捧げる覚悟くらい、とっくにできています」

 俺が圧をかけても、その目はやっぱり希望に満ち溢れていて、完全に覚悟が決まっているようだった。やっぱり、あいつに似ている。もう二度と思い出したくもない記憶が、薄っすらと蘇ってくる。

 俺は全部説明した。この世界の嘘、本当の世界。

「大村……先輩? 何言ってるんですか? 冗談はやめてください。そんなの、ありえないじゃないですか。だって、歴史とか、先祖代々言い継がれてきたものもあるし、宇宙に行った人だっていますよ? 馬鹿なこと言わないでください」

 彼女は、信じなかった。当たり前だろう。俺もこの仕事を初めて知ったときは、夢でも見ているのかと思っていた。夢なら今すぐ冷めてくれ、と。でもその夢は、今でも冷めていない。

「信じられない気持ちはわかるけど、それが現実なんだ。じゃあ君は、宇宙を見たことがあるか? 戦争を見たことがあるか? テレビやメディアを通してだったらあるだろう。そりゃあ、この機関が全て操っているからな。でも、それも全て加工編集された事実」

 彼女は、絶望したような、まだ現実を受け止められていないような表情で俺を見つめる。俺はそれに追い打ちをかけるように、この世界の現実を教える。

「宇宙だってあれは俺たちが作り出した映像だ。宇宙に行った人も、歴史を後世に伝える人も、俺たちがそいつらの記憶を作り替えてるだけ。な? これが、現実なんだよ。わかった?」


 この事実は、受け入れられる人と、受け入れられない人がいる。その違いは、この世界を信じているかどうか。俺みたいに、この世界に対して愛着がなく、自分なりの信念や正義がないような人は、比較的容易にこの事実を受け入れる。「人生そんなもんだ」と思えるから。

 ただ、今までこの世界を信じ、この世界に希望を抱き、自分の道を意地でも曲げずに突き進んでいくような人は、この事実を受け入れることができない。

 例えば……あいつのように……。


 あいつとは、俺の前のバディのことだ。名前はユスティア。

「こんにちは! ハーバード大学卒で、出身はアメリカ、好きな食べ物はお肉全般、嫌いな食べ物は野菜全般、趣味は美術館巡りの26歳ユスティアです!」

 妙に自分語りをするあいつは、綺麗なブロンドヘアーで、女子にしては背が高い、凛とした奴だった。クロエとは違って、顔はキレイ系。身長も雰囲気も全てクロエとは違ったが、彼女の瞳とその笑顔だけは、クロエに、とても似ていた。

 あいつは、仕事がとことんできないやつだった。能力と熱量を兼ね備えたエリートなはずなのに、仕事ができなかった。

 その理由はただ一つ。この仕事に、ずっと疑問を抱いていたからだ。

 あいつは自分が間違っていると信じたら疑わず、どれだけ言い聞かせても自分の意見を曲げない、そんなやつだった。だから、スピード重視のこの仕事で、あいつはただこなせばいい仕事を「なんでこれをする必要があるのだろう」「別にこうじゃなくてもいいじゃないか」といちいち考え、自分の仕事が全然終わらなかった。

 おかげで俺があいつの仕事を手伝うことになって、本当に迷惑していた。


 ある日のことだった。いつもどおり仕事をしていると、突然所長に呼び出された。

「大村、これ、知っているか?」

 そう言われて渡された写真には、ユスティアが、知らない男と会っている様子が写されていた。

「なんです? デート写真?」

「違うわ。こいつ、記者なの。ユスティア、俺達の目を盗んでずっとこいつと会ってたんだ」

 最初は、所長が何を言いたいのか、わからなかった。

「リークしようとしてんだよ。この機関の本当の仕事。まだ確実な証拠は渡せていないようだが、早く始末しないと取り返しのつかないことになる。だから、お前に新たな任務だ」

 俺は、妙な汗をかいた。所長の言うことに、なんとなく、察しがついていた。

「ユスティアを、殺せ」

 よくあることだという。昔、先輩から聞いたことがある。

 バディを組む新メンバーによっては、この裏社会の事実を受け止められず、公表したほうが世界のためだと思って、記者などにリークをしようとするやつが結構いる。でも、そういうやつは必ずバレて、始末される。そしてその始末は、バディの任務らしい。

 怖かった。人殺しが。その時の所長の目が、怖くて怖くて、その時は何も言えなかった。動けなかった。


「これ、どういうこと?」

 次の日、俺は単刀直入に、ユスティアに聞いた。

 ユスティアは少し黙って、俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「私は、ここでの情報を全て、この人に伝えます」

 一筋の光が、その瞬間に、断ち切られた。

 もしかしたら、これはなにかの間違えかもしれない。もしそうだったら、俺はユスティアを殺さなくても済む。そんな希望を持つことさえできなくなった。

「私には、ここでやっていることが正しいとは思えません。この世界の人全員に嘘をついて、騙して、それで何になるんですか? なんで、国のトップが、嘘なんてついてるんですか? こんなの絶対におかしいです! みんなに、真実を伝えるべきなんです」

「そんな綺麗事、この世界で通用するとでも思ってんのか? 実際今の社会、全部嘘で成り立っている。嘘がなかったら、全部バラしたら、この世界は今までにない混乱に陥って、世界が崩壊する。嘘と真実の丁度いいバランスをとって今までやってきたんだよ。それで今まで成り立ってきたんだよ。……これは、お前一人でどうにかなるような問題じゃない」

 俺は、必死に止めた。ユスティアがこんな事考えなければ、俺がこいつを殺す必要はなくなる。

「世界のトップ機関が、綺麗事を言って何が悪いんですか? 綺麗事を現実にするのが、私達の役目じゃないんですか? この世界は、きっと大丈夫です。一時は混乱しても、きっといつかつか、『こんな時もあったね』って、笑いあえる時が来ます。絶対に今よりは、そっちの世界のほうが良いです。私の考えは、誰がなんと言おうと変わりません。たとえ大村先輩がどれだけ説得しても、私は自分の信じた道を貫きます」

 無理だった……。こいつの意志は、思っていた以上に、硬かった。

「明後日。明後日の午後1時。私はこの人と会います。もう証拠集めは十分になったので、国連本部の第三会議室で、明後日、その証拠を渡します。……これを聞いて、大村先輩がどうするかは自由です。私を殺そうが、生かそうが、言いつけようが、何もしなかろうが。でも……私は、大村先輩を、信じています。信じているから、全部話しました」

 ユスティアの瞳は、希望に満ち溢れていた。いつも仕事をしているときはこんな目をしないのに、その時だけは、決心したような強い瞳だった。


 俺が部屋を出ると、その先には、所長がいた。

「聞いていたぞ。明後日だってな。明後日、お前に銃を託す。経験がなくても大丈夫だ。最新の、初心者でも使える銃を手配してもらった。当日はこのイヤホンで、俺の指示通りに動いてもらう。

 ……まさか、あいつの味方はしないよな? 大丈夫だ。お前は間違ったことなんて何一つしていない。期待しているぞ」


 当日。

 俺はまだ、決心がついていなかった。所長の言う通りに殺す決心も、ユスティアの味方をする決心も。何も決められないまま、俺は国連の第三会議室にいた。

「先輩……何してるんですか?」

 ユスティアが、入ってきた。ユスティアの右手には、USBデータが握られている。

「右手にあるものを、今すぐよこせ」

 ユスティアの顔が曇る。

「嫌です」

「いいからよこせ!」

 俺は怒鳴った。

「言いましたよね? 私の意志は変わりません」

 イヤホンからは、指示が聞こえる。「殺せ」と。

「今ならまだ間に合うかもしれない! いいからそれを渡すんだ。早く、早くそれを渡せ!」

 俺は必死になって叫んだ。

 彼女は、何も話さず、ただただ目で、訴えてきた。

 イヤホンから聞こえる所長の声が、だんだん荒くなる。

 俺は、彼女に銃を向けた。

 彼女の顔が、一気に青くなる。

 俺の足はガクガクと震え、体からは、大量の汗が出てくる。

「先輩は、それで良いんですね?」

 もう覚悟が決まったような、悲しそうな目で見つめる彼女の目からは、涙が溢れる。怖さか、悲しさか、怒りか、はたまた自分の意志を貫いた達成感か、彼女の涙は、何を表していたのだろうか。

 俺は、震える体を抑えながら、引き金を引く。

「ごめん」

 俺は彼女からの問いには答えず、ただそう言って、目をつぶり、彼女を撃った。

 恐る恐る目を開けると、所長の言っていたとおり、初心者の俺でも、簡単に人を殺せていた。彼女の体からは血が流れ、もう彼女の意識はないようだ。

 俺は、膝から崩れ落ちた。自分のやったことが信じられなくて、一気に後悔が襲ってきて、でも、他に何か手があったかと言われてもわからなくて。目からはずっと堪えてきた涙が大量に溢れ出し、抑えていた震えも止まらなくなっていた。


 気づいたら俺は、会社で寝ていた。

「おお、やっと起きたか」

 所長が、いつもどおりに言う。

 他のメンバーも、いつも通りに仕事をしている。

 もしかしたら、今まであったことが全部夢だったんじゃないか。そう思えてきた。

「あれ? ユスティアは?」

 時が止まったようだった。皆の作業が急に止まり、空白の時間が流れた。

「死んだよ。……お前が、殺したよ」

 所長が答えた。

 やっぱり、夢ではなかった。そんな都合がいいこと、起こるはずもなかった。

 俺は、信じられないくらいに、泣いた。



 クロエは、まるでユスティアの生まれ変わりかのようだった。顔も身長も全然違うのに、とてつもなく、似ていた。

「まあ、すぐにこの事実を受け入れるのは難しい。時間をかけて、ゆっくり消化すればいいから。じゃあ、仕事するぞ」

 クロエのこの世界に絶望したようなその瞳から逃げるように、俺は部屋を出た。もう二度とあんなことをしたくない。でも、もし同じ状況になったらどうする? 俺は、所長に逆らうことができる?

 考えたくもないことばかりを考えて、俺はひとり、恐怖を感じていた。


 しかし次の日、クロエは、昨日のことなんてなかったかのように、ケロッとした顔をして出勤してきた。

 クロエは、仕事もできるやつだった。自分の任務を淡々とこなし、「他の仕事はないですか?」と、仕事への意欲もある。

 俺はいらぬ心配をしたなと思い、そのときは、とても安心していた。クロエは、ユスティアとは違うのだと思っていた。


「『宇宙人上陸作戦』次の任務だ。我々は、世界平和を達成するため、私達で空想の敵を作る計画を実行する。もちろん、宇宙人なんてこの世に存在しない。しかし、それを作り上げることで人類が一致団結し、この地球を一つにまとめることができるのだ。

 このプロジェクトは、大村とクロエの二人のバディでやれ。資料はさっき送っておいた。これはかつての宇宙制作プロジェクトよりも大きな、非常に大事な任務となる。心して挑むように。

 では、仕事に戻ってくれ」

 朝礼で、所長が俺たちバディに次の任務を発表した。

 この任務は、この世界の基本的な考えを覆す、俺が経験したこともないほど大きな任務。おそらく、この任務を果たせたら、俺が次の所長になることは確実だろう。だから周りのメンバーからは、冷たい視線を浴びせられる。それもそうだ。一番の若手バディながらこんな大任を任せられたのだ。

「はい! 承知いたしました。必ず成功させます」

 俺は、周りの視線をはねのけるように、大きな声で返事をした。

 所長になって、この世界を自分の意志で動かす。それが俺の夢だ。


「あの、大村先輩。少しいいですか?」

 突然、クロエが険しい面持ちで言い、俺を会議室へ誘導した。

「私ちょっと、大村さんに相談があって……私、社会に公表しようと思うんです。この機関について。だって、やっぱりおかしくないですか? こんなの、絶対に世界のためになんてなりません。絶対に間違ってます!」

 信じられなかった。なぜ? 今までそんな雰囲気なんて、微塵も感じられなかったのに。今まで仕事も淡々とこなして、この機関にも理解があるやつだと思っていたのに。

「は? ふざけんな、やめとけ。お前がどんな方法で公表しようとしても絶対にバレる。そしてバレたら殺される。お前この機関に入ったら死ぬ覚悟って言ったよな? 秘密は守り抜くって。国連に入るために生きてきたんだって」

「だから、死ぬ覚悟でも公表したいんです。私が入りたかったのは、こんな国連じゃありません。世界のために、私は公表します」

 彼女の意志は、強かった。どう説得しても、変えられそうになかった。また俺は、同じことを繰り返すのだろうか?

「死んで公表できなかったら、なんも意味ねぇんだよ!」

「……先輩だったら、わかってくれると思ったのに……もういいです。一人でやります。このことは、聞かなかったことにしてください」

 彼女は、呆れたように、悲しんでいるように、俺の前から去っていった。

 俺は震えが止まらなかった。

 あの時の記憶が蘇る。今すぐ忘れたいのに、彼女の笑顔も、覚悟の決まった顔も、全部あいつを思い出させる。

 もう、どうしたらいいか分からなかった。

 みんな、「世界を守りたい」その考えは同じなはずなのに、どうしてこんなことになるのだろう。俺は、人を殺したくもないし、この嘘が全部正しいとも思わない。誰も殺さずに、世界を守ることは、不可能なのだろうか。

 俺は、彼女の計画を、誰にも言わなかった。でも、彼女の味方もしなかった。ずるいだろうか? でも俺は、彼女の味方になる勇気も、彼女を裏切る勇気もなかった。自分で何が正しいなんて、決められなかった。


 それから、数週間が経った。

 彼女は何事もなかったように仕事を進めている。彼女のポーカーフェイス具合には、頭が下がる。俺もできるだけバレないように、いつもどおりに過ごしていた。

「大村、ちょっと来い」

 所長が、低い声で俺を呼んだ。

「クロエが、情報流出をしようとしているという情報が入った。全く……お前のバディはいつもこうだ。せっかく優秀なのに、困った奴らだよ」

 バレた……やっぱりバレた。この機関を敵に回して、バレないはずがないのはわかっていた。でも、もしかしたら、クロエなら、本当に成し遂げてしまうかもしれない。心の奥底では、そう思っていたのも事実だった。

「度々申し訳ないが、またお前に始末をお願いしたい」

 俺は、すぐに返事をすることはできなかった。あの日、ユスティアを殺めたあの瞬間、俺は決めたのに。もうこんなことはしたくない、次のバディを、俺の永遠のバディにすると決めたのに。なんでこうなる?

「お前が、前のことがあってから、少し元気がなくなったのはわかってる。ただ、これは任務だ。この世界を守るためなんだ。仕方がないことなんだ。君のその行動が、多くの人々を助けるんだ」

 所長は、返事をためらっている俺を見かねて言った。

「明日、あいつと二人で国連本部に企画書を出しに行くだろ? その帰りに、人気のない山奥を通る。そこで、あいつを殺せ」

 所長は俺に、銃を渡した。それは、俺がユスティアを殺したときのものと同じ種類のものだった。

「善処します」

 俺は、それだけ言って、ゆっくりと、その銃を受け取った。


「いやぁ、企画書、褒めていただけてよかったですね!」

 クロエは、いつものように笑っている。

 俺はまだ決心が決まっていない中、車を出す。

 昨日の夜、どれだけ考えても、人を殺したくない気持ちと、所長に背きたくない気持ちには、優劣をつけられなかった。かと言って、他の選択肢があったかといえば、それも見つからない。

 俺は何気なく、帰り道の途中で車を止める。

「……せっかくさ、雪が降ってることだし、ちょっと外の空気吸わない?」

 俺は台本通りのセリフを言って、クロエを車の外に連れ出す。

「きれいですね。こんな雪、久しぶりに見ました」

 そう呟いて空を見上げる彼女の横顔は、どこか切なくて、きれいだった。茶色のコートを身にまとい、もこもこの暖かそうな手袋をつけた彼女は、少し寒そうに背中を丸める。

 今日が人生の最後になるかもしれないことなんて知る由もない彼女は、いつもの微笑みを俺に向ける。

 俺は、彼女の顔を見つめながら、ただただそこで棒立ちをしている。肝心の銃は、中々取り出せない。

 俺がこの銃を取り出すだけで、今の彼女の笑顔は消える。俺が銃の引き金を引いたら、彼女の顔は真っ青になる。俺が弾を撃ち放ったら、彼女は無になる……。

 俺はもう、震えが止まらなかった。本当にどうしたらいいのかわからなくて、彼女を撃つのも撃たないのも、どの選択をするのも怖かった。

「そろそろ、帰りますか? 先輩、すごく震えてますよ。早く帰らないと、風邪ひいちゃいます」

 クロエは今、自分を殺そうか迷っている人の心配をしている。

「待って……ちなみに、なんだけどさ? この機関のこと公表するってやつ、どうなった?」

 俺は、彼女が車に戻ろうとするのを引き留めるように彼女に聞いた。

「ああ……聞かなかったことにしてって言ったじゃないですか。って、そんなの無理か。はい、順調です。もうすぐ完了しそうな感じ。凄くいい感じに進んでて、自分でもびっくりしちゃいます」

 彼女は少し笑いながら、冗談交じりに言った。

「もし、もし俺が今、君の計画を誰かに言いつけたら、君はどうする?」

「どうするって、そんなの一択です。私は、何があっても諦めませんから。誰が何と言おうと、自分が正しいと思う道を、信じて突き進みます。死んでも、やり通してやります!」

 自信満々にそう言う彼女に、余計胸が苦しくなる。

 やっぱり、無理だ。俺に、人はもう殺せない。俺の目からは自然と、涙が溢れてくる。

「どうしました?」

 彼女は、俺の明らかにいつもと違う様子に驚いて、俺を心配した。

「ごめん……本当に、ごめん。やっぱり無理だ。俺にはできない。もう、何が正しいかなんて、分からないよ」


 俺がそう言った瞬間、どこからか、とてつもなく大きな銃声が聞こえる。しかし、俺は銃を使っていない。もしかして、誰かが、俺の代わりに彼女を撃ったのだろうか? 俺が信用できないから、他に誰かがついてきたのか?

 そう思って彼女を見るが、彼女は、撃たれていなかった。

 でも、彼女の目は、変わっていた。今までの、純粋な、決心したような目は消え、厳しく冷たい、今までのクロエとは全く違う人のようだった。

 彼女は、俺の目ではなく、俺の胸元を、じっと見つめている。俺は彼女と同じく、自分の胸元を見る。

 すると、俺の胸元からは、大量の赤い液体が流れていた。その瞬間、俺の体から力が抜けて、一瞬でひざまずいた。

 彼女は、俺の上から睨む。

「なん……で?」

 俺は、胸の痛みを必死にこらえて、何とか彼女に聞いた。


 すると、僕の背後から、誰かが近づいてくる。

「この機関に、忠誠を誓えないやつはいらないんだよ」

 所長だった。所長は、銃を片手に俺の視界に入った。

「この大計画、今後の世界を大きく動かすものだということは、お前もわかるよな?  だから、ここでリークなんてされちゃあ困るんだ。特に君は、ユスティアの件を見て、まだこの機関に全てを捧げられていないと感じた。ここでは、『何をしてでも働き通す』という意志がないと、やっていけないんだよ。しかも君は、この機関のこともよく知っているから、バレずにリークできる可能性がある。だから君が本当にその覚悟があるか確かめた上で、そうでなかったら早く始末しておこうと思ってな」

 所長は俺の目の前でしゃがみ、俺の髪を鷲掴みにする。

「大丈夫だ。君がいなくてもこの機関はどうにかなる。クロエだって、俺の計画に快く賛同してくれたしな。お前の死は、代々語り継がれると思うよ。この機関に忠誠を誓えなかったら、誰であれ殺されるって見せしめとしてな。……これが、世界のためなんだよ。この機関が、世界の善なんだよ。全て、正しいんだよ」

 所長は、俺の髪を掴んだその手を、思いっきり離した。俺は、地面に頭を打ち付ける。今まで何とか保ってきた意識も、どんどん遠のいていく。


 何が正しかったんだろうか。もう、何もわからない。これが世界を守ること? そうじゃなかったとしても俺にできることはあったか? そんなことを考え始めたら、もう、きりがない。どんどん疑問が湧いてくる。

 こうなるから、どんどん分からなくなっていくだけだから、今まで俺は、そんなことから目を逸らし、考えないようにしてきたのに。何か一つ答えを見出さなければ、この世界で生きていくことはできないのだろうか?

 俺の周りにある雪は、俺の体から出る赤い液体で、どんどん真っ赤に染まっていく。でも、所長が歩いた道では、俺の体から出てきた、俺の命で染まった雪よりもたくさんの雪が、踏み潰されている。


 俺は、ついに目をつぶった。体の痛みがどんどん消えていき、何も感じなくなっていく。

 そして俺は、今頃ひとりぼっちでいるユスティアを、迎えに行った。自分を殺したやつがこんな惨めな死に方をして、あいつ、どんな反応するのかな。

 何が正しかったのか、どうすればよかったのか、多分俺は、このまま生き続けていても、分からなかったと思う。

 ユスティアのような信念もなく、クロエのような躊躇なく人を裏切る勇気もなく、俺は、一体何をしたかったのだろう。何のために、今まで頑張ってきたのだろう。

 俺は、目の前にある受け入れ難い事実と向き合うことから逃げて、人に言われるがままのことをして生きてきた。物事に善悪をつけて自分で考えることが怖くて、ずっと逃げてきた。こんな俺は、惨めだろうか? おかしいだろうか? 最低な男なのだろうか?

 俺は、生まれてから死ぬまで、死んでからも、ずっと、何も分からない…。

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