第23話 場当たりな、その場限りの積み重ねの先に 1
「そうかなぁ・・・。吉村先生、それはしかし、今日に今日、私自身は結論じみたことは、言えんわなぁ・・・」
大槻園長が、うなりながら答える。
「大宮さん、おいかがですか?」
少し間をおいて、しばし考え込んでいた大宮氏に、大槻園長が話を振った。
大宮氏は、さらに少し間をおいて、重い口を開いた。
このよつ葉園という養護施設は、利益共同体というべき「会社」と最大に異なる要素を持っていますね。
子どもたちにとっては、「家」であるといってもいい場所だ。
もちろんこの表現には、人によっては大きな異論を出す人もいようが、それでもその点は無視できないところじゃないですか。
子どもたちにしてみれば、自分たち一人一人が、将来の目標をもってそれに向けて進んでいけるようなビジョンが立てられないと、何していいのかわかりません、とりあえず学校行って、まあまずはご飯を食べて風呂入って、みたいなことを繰り返しているだけでは、そりゃあ、いつか行き詰まるだろう。
それではどうしたらいいのか。
子供たちの将来を真剣に見据えて、そのために必要なものは何かを自ら導き出せるだけの「指導」を、職員がしないといけないのではないか。
それが、きちんとできていたのだろうか?
もしできていないとすれば、その原因は何なのか?
我々大人の立場からみて、目の前の子ども、自分の子であれそうでない場合であれですね、何か起こった時に、だれだれのせいでこうなったと言っているのに対して、その目の前の大人が、「人のせいにするな」などと言うじゃないですか。
確かにその指摘は、正しいかもしれない。
だが、大人の側が、人のせいにしていないと言えるか?
実を見て、その大人の側が、子どもたちを導くだけの力も、下手すれば能力さえも欠けている状態であることが嫌が上にもわかっている折に、実はしょせん他人であるその子の要素に責任を転嫁して、自分を免罪して保身に走っていないか?
いつか、米河清治君がこのよつ葉園にいた頃のことを思い出して、ある時、こんなことを言っていた。
あの少年は鉄道研究会という大学のサークルに小学生の時から通っているのは、吉村さんも大槻君もご存知だと思うが、そのことで、こちらの尾沢さんという児童指導員が述べたことで、今でも怒っていることがある。
尾沢さんはもちろん悪気などなく、素直に自分の意見を開示しただけだろう。
「そんなのまだ早いのではないか、子どもは子どもらしく・・・」
などと述べたそうだが、それを米河君は、こう言ってのけたよ。
「テメエの能力のなさを相手の素養や動きのせいにして、じゃあオドレは、相手をそれ以上の状況に導けるだけの何か能力やノウハウでも持っているのか。持っていねえなら、すっこんどれ! と申し上げたい。ま、ないでしょうけどね」
ってね。彼にしては珍しく、ひどく怒っていた。
その叔父さんという方にもお聞きしたけれど、その方に言わせれば、ドイツのとある軍人の基準でいえば、こうだとね。
「勤勉な無能を地で行く行為である。「一生懸命」を免罪符にその職員をかばう上司も同罪だ」
とね。
その上司に大槻君が該当しないことは、あえて指摘しておくよ。
とはいえその弁には、さすがの私も、参ったね。
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