第4話 あの日のこと 1

 大槻園長は、去る1985年3月を前にして、山上敬子保母に定年退職を機会に身を引いてもらうことを話したときのことを、話し始めた。


 去年の1月下旬でしたか。何日の何曜日の何時何分何秒までいちいち覚えておるわけではありませんが、まあ、これ、子どもの喧嘩口上みたいですね(苦笑)。

 つい先日、とある小学生の子があの園庭で誰かと喧嘩しているときに言っていまして、私、思わず笑いかけてしまいましたよ。


 それはともあれ、あの日の昼過ぎに、私は山上先生を園長室にお呼びしました。

 時間にしては、10分かそこらであったと思います。そんなに長くはかかっていなかったはずです。ただし、物理的には、ですね。

 実際問題としましては、1時間くらいは軽く経過していたような、そんな印象を、肌身では受けました。

 山上先生の方は、もっと苦しかったことでしょう。なんせ、追われる身ですから。

 御本人はもちろん、定年後も嘱託として本園に「再就職」の形をとって、週に何回かでも通勤して、幼児の保育を担当されたいと、そんなことをお望みでした。

 さすがに本園の様々な行事が云々、そういうところまではお任せできませんよ、今どきの子ら相手には。

 もう、彼女の存在自体が、子どもらもそうだが、若い職員らにとっても、もはやあの方の存在自体が、いや、繰り返しになりますけど、ええ、あの方がいらっしゃることだけで、もう、目に見えて微妙な、重苦しいものになっていましたからね。

 特に、こちらに全面移転してから、その傾向はどんどんと強まっていました。

 

 そうそう、「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」なんてことわざ、ありますよね。

 この地はまさに、よつ葉園にとって新しい革袋です。

 そこに、そんな古酒(こしゅ)と言えば酒好きの私や大宮さんなんかには必ずしも悪いものでもないでしょうけど、そんないいものじゃない、単に古いだけの酒をこの丘の上の新しい皮袋に盛るというのは、いかがなものでしょうか。

 冗談じゃないですよ。


 もちろん私は、山上先生の功績を認めないわけではありません。

 終戦直後のあの混乱期、女学校を出るまで基本的に何不自由なく育ってきた彼女にしてみれば、戦後のあの時期は、もう、耐えるに耐えきれないほどの痛みと苦しみを与えられたであろうことは、容易に想像つきます。

 なんせ、満州におられた頃は父親の仕事がらみで奉天から新京まで、何度か、あの特急「あじあ」に乗られたとか、お父様に至っては「あじあカクテル」を飲まれていたとお聞きしましてね、そりゃあ、米河君なんかが聞いたら、さぞやさぞかし、うらやましがることでしょうよ(苦笑)。

 そんな両親のもとで育った彼女が、戦後、両親の故郷の岡山で苦しい目をしながら生きながらえてきたわけですよね。

 そして、結婚して、子どもさんも生まれた。

 それでも、森川前園長の勧めでずっとこの地で仕事を続けて来られた。

 私には、彼女と同等以上のことができる自信はありません。

 あまりいい言葉ではありませんが、私なんかでしたら、途中で「ケツを割る」なんてところが、オチでしょうね。


 そう言って、大槻氏は残った玉露茶を飲み干した。

 大宮氏も、それに続いた。

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