03●“バブル”という時代に翻弄された“青春グラフィティ”。
03●“バブル”という時代に翻弄された“青春グラフィティ”。
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さて、SFやファンタジーに限らず、一般の映画作品の多くに、観客が欠かすことのできない“満足の要素”があります。
“達成感”です。
観客はヒーロー・ヒロインにどっぷりと感情移入します。
常識的に、それが映画のキモであり醍醐味というものでしょう。
観客は主人公とともに、二時間程度の上映に凝縮された、“もうひとつの人生”を共有します。
そして結末が、主人公の栄光であれ挫折であれ、喜劇であれ悲劇であれ、観客が心打たれて賛辞を贈ることができれば、それは素晴らしい作品となります。
(当然ですね、見終わって、達成感とは真逆の“虚しさ”しか残らなかったら、二度とその作品を観ないどころか、ああ、観なきゃよかった、となるでしょう?)
だから大切なのは……
観終わったとき、主人公たちに対して「よくやった、よくやったよ!」と心の中で喝采を送れるかどうか、ですね。
エンドロールでしみじみと「well-done!」とつぶやけるかどうか、です。
映画のヒット作の多くは、この“達成感”を巧みに演出しています。
『タイタニック』の最後の拍手シーン。お話は悲劇だけど、その時私たちは二人に賛辞を送っているはずです、「よく生きたね」と。
ヤマト艦上での沖田艦長の最期。少なくとも初代ヤマトの真の主人公は古代君ではなく、沖田十三でした。その地球帰還の達成感は、ファンを感涙させました。
ファーストガンダムでは、最終話に至ってアムロがシャアとの対決を果たします。 ニュータイプという超能力者の彼にとって、ララァへの自責の念に決着をつけるには、それしかなかったでしょう。
全編を通じての、主人公の使命なり、トラウマといった課題の、明快な解決。
それが観客の“達成感”となり、心洗われた思いで観客席を立つことができるのだと思います。
それが、『ヴイナス戦記』では、残念ながら十分でなかった。
……ということになるのでしょう。ただし“当時の観客にとっては”です。
作品のクライマックスは宇宙港の激戦、タコのドナー准将と、バイクのヒロ、二人のガチンコ対決です。
ヒロにとってドナーは、スゥが討ち果たせなかった仇敵です。
観客は期待します、「ヒロ、敗けるな、ドナーをやっつけろ!」
しかし、ヒロはドナーに正義の一撃を与えるどころか、逃げまくっている間に運よくドナーが自滅の道をたどってくれたような……そんな、なんとも
両者ががっぷり四つに組んだのではなく、敵の方が先にすべって転んでくれたようなものです。
観客はそこにストレスが残るのを感じ、それゆえ「ヒロ、よくやった!」にならなかったのではないでしょうか。
(しかし、この地味な演出には確かな理由が隠されていました。ただ、劇場で一度観ただけでは、まず、わからないのです……)
つまり、そういうことで……
『ヴイナス戦記』は、公開当時の1989年の若きSFファンやアニメファンが求める“達成感”を満たすことができなかったのです。
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また公開当時の社会風潮や国際情勢も、『ヴイナス戦記』にとっては逆風でした。
『ヴイナス戦記』公開時の1989年は、ニッポンのバブル景気の絶頂にあたります。
社会が、人々が、浮かれて舞い踊った時代でありました。
札束を片手に超高級シャンパンを食らいまくり、ノーパンしゃぶしゃぶな風俗にハマリまくる刹那的な空気の中で、『ヴイナス戦記』は、あまりにも地味で真面目で正統派で、ガチガチの“等身大”に見えたことでしょう。
主人公の少年が難民キャンプに彼女を探す場面は、バブルでアゲアゲ、ジャパン・アズ・ナンバーワンで増長しきった当時のニッポンの大衆からすると、まったく
さて国際社会では……
『ヴイナス戦記』の公開後数か月して、同じ1989年の11月9日にベルリンの壁が崩壊しました。冷戦は雪解けムード一色で、世界はいよいよ平和になるんだ……といった楽天的な未来観が津々浦々に広がっていました。
しかし『ヴイナス戦記』に描かれたのは容赦のない戦火、それも負け戦の被占領地が舞台であり、登場人物の若者たちはカッコ良さとは無縁な等身大です。『スター・ウォーズ』エピソード4~6のような華々しいバトルは見られず、主人公にはフォースのようなチートパワーも備わらない。
『ヴイナス戦記』の物語のシリアスさは、当時永らく続いていたテレビアニメの“世界名作劇場”に近いようにも思えます。
つまり、“世界名作劇場”の2クール24話分を二時間に縮めたような内容だったのです、『ヴイナス戦記』は。
しかし“世界名作劇場”は『家なき子』(1996-97)で終焉を迎えます。『ヴイナス戦記』が登場したのは、まさに“名作アニメの落日”が始まった時期でした。その意味でも、大衆にヒットしなかったのは無理からぬことと思われます。
ひるがえって同時期、OVAの『トップをねらえ!』がヒットしました。
こちらも超のつく傑作ですが、宇宙怪獣の襲来、銀河系を手玉にとるド派手な演出、しかも巨大ロボット兵器に美少女! ……と、バブリーな時代のファンを十二分に惹きつける内容でした。
また1992年の『紅の豚』も、等身大の質素さとはかけはなれた、景気のいいリッチなお話でしたね。なにしろブルジョワの象徴たるブタが木に昇るどころか大空を
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あくまで私の私見ですが、たしかに『ヴイナス戦記』を最初にビデオで観たときの印象はこうでした。
「作画は最高、マギーの笑顔も天下一品、でもストーリーはどこか物足りない」
大衆の第一印象がこうなるのは、やむを得ぬことでしょう。
しかし……
以来三十年ばかり、なんとはなしにまた観たくなって、年に一度ほど観返しているうちに、評価の一部が逆転しました。
「いや、このストーリー、これしかない、これこそがベストだったんだ!」と。
年齢を重ねることで、最初は見えていなかったものが徐々に見えてきて、まったく別の作品に生まれ変わっていったのです。
「こんなに奥深いストーリーだったのか……」と。
なるほど、1989年当時の観客は、多くが十代二十代の若者でした。
四十代以上が観賞するなんてことは、ごく、まれだったはずです。
まあ、アニメ作品は、だいたい中高生のために作るのであって、中高年なんて制作者の眼中に無くて当然ですからね。
当時の若者の価値観で観賞すると、物足りない。
しかし、じつは、それが『ヴイナス戦記』の最も素晴らしいところだと、私は思います。
1989年の当時、SFアニメ映画に対する若者たち大衆の期待をあえて徹底的に裏切り、“当時の観客には”結果的にヒットしなかった、悲劇の名作。
しかし、それでよかった。いや、それこそがよかった。
だからこそ封印の年月を経て、21世紀の今、『ヴイナス戦記』は30年物のヴィンテージ・ワインの豊潤な味わいをもって、かつての観客の前に再び甦ってくれた……
……そう思うのです。
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まとめますと……
『ヴイナス戦記』は世間的にはSF作品です、そのように標榜されています。
しかし、作品の本質、その
たとえば『ヴイナス戦記』はSFではない……と仮定してみましょう。
SF的な要素をわざと無視して観賞するのです。
そこに現れるのは、世界名作劇場のような、若者たちの青春群像劇。
作品の物語を編み上げる縦糸は、「戦争と平和」。
横糸は、主人公たちティーンエイジャーの「青春譜」。
となると、この作品は……
「戦時下の青春グラフィティ」となります。
それも、「戦時下における、等身大の青春グラフィティ」
それこそが、この作品の本質なのです。
中高生の頃にはそうでなくとも、中高年になった観客には、たぶん、そう見えてくるのではありませんか?
だから、『ヴイナス戦記』は、世代を越えた「戦時下における、等身大の青春グラフィティ」。
だから、SFアニメだと思って観たら、“達成感”は得られません。
しかし“青春グラフィティ”だと受け止めれば、“達成指数”は数百%!
そう理解して、じっくりと味わう美酒なのだと思います。
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詳しくは最後の章で触れますが、30年という封印の年月は、『ヴイナス戦記』に、安彦良和監督がまったく予期されなかった、“史実がもたらすノスタルジー”とでもいうべき、かぐわしい余情を添えてくれました。
これも、数あるアニメ映画の中で『ヴイナス戦記』のみに歴史の運命が授けてくれた、“神価値”であると思います。
それは作品ラストのエンドロール。
美しいマンハッタンの夜景の彼方にくっきりと立つ、あのツインタワーです。
【次章へ続きます】
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