姦~如臨神淵~

乙丑

アゼハシリ


「あれ――?」

 廊下と居間の敷居である襖から顔をのぞかせるように首をかしげたのは、黒川三姉妹の末っ子である葉月であった。「番組……変わってる?」

 視線をテレビの方に向けると、CMが流れており、顔は時計とテレビとを右往左往させている。

「あぁ、さっきまで野球やってたみたいだからね」

 お風呂上がりで長い濡烏色の髪をタオルで拭き取っていた葉月に、姉であり、黒川三姉妹の次女――皐月が言った。

 彼女もまたお風呂――と言うよりは妹が上がってくるまで、通っている中学の宿題を終えたところ。

 まだ本人が上がっていなかったため、そのあいだ、おやつとして自分で作った水チョコを、それこそ羊羹を食べる時に使われるちいさな竹の爪楊枝で一口に切って口に運んでいたくつろいでいた。

「葉月も食べる?」

「食べる」

 葉月がそう言うや、皐月は「ちゃんと歯みがきなさいよ」

 と一言ひとこと言ってから居間と隣接している台所へと消えていった。

 葉月は「一言多い」とすこしばかり頬を膨らませ、

「うわぁ、さっきまでお風呂入ってたのに」

 ブルッ――と、身体を震わせるや、イソイソと電気が入っていない炬燵の中へと身体を埋めた。

「はい」

 ちょうど皐月が戻ってきて、葉月にと切り分けた水チョコを、自分が使っているものと同じ竹の爪楊枝を添えた小皿を目の前に置いた。

 大きさは、羊羹の一切れをふたつ分かれている。

「いただきます」

 葉月は両手を合わせ、爪楊枝で水チョコをちいさく切り分ける。

 口の中に入れると、口内の温度でトロリととろける。甘さも申し分ない。

「さてと、私もお風呂入ってこようかしらね」

 自分が食べていた水チョコのお皿を手に取ると、皐月は台所へと消える。

「あ、お姉ちゃん?」

「なにぃ?」

「お風呂沸かしたほうがいいよ」

「了解」

 皐月が台所から声を上げる。

「さてと……」

 葉月は卓袱台の上に置かれている新聞を手に取り、テレビ欄を見渡していく。ちょうど見たかった番組にファンのアイドルが出るので宿題やお風呂を切り上げたかったのである。

 時刻は夜二一時をすこし回ったところ。

 見たかったテレビ番組がちょうどその時間から始まるのだが、如何せん今は日に日に寒さを増していく寒露かんろ(二十四節気のひとつで、十月上旬に当たる)に入り、野球中継もクライマックスシリーズを迎えたところ。

 そのため放送時間の延長で、葉月が見たかった番組が幾分か繰り下がっていた。

「そういえば――」

 さきほど、皐月が野球をやっていたと言っていたのだから、今はCMなのだろう。

 そう思いながら葉月は水チョコを堪能することにした。


「それでは本日のゲスト、鮎川燈愛でした」

 司会進行をしていた天然パーマの芸人の言葉で、カメラがアイドル歌手の鮎川燈愛を映し出す。

 肩まで伸びた朱色のふんわりとしたウェーブがかかった髪に、容姿は大人とも子供とも云えない曖昧な容姿。

 鮎川燈愛はカメラの視聴者に向けて笑顔で手を振り、番組はエンディングを迎えた。

 それを見て、葉月も手を振りそうになったが、そこはグッと我慢する。

「見たかったのって燈愛さんが出てるからだったんだ」

 番組がやっている頃にちょうどお風呂から上がってきた皐月も、一緒になって視聴していた。

「それにしてもトークとか受け答えを見てるとほんとアイドルね」

「アイドルだよ?」

 姉の言葉に葉月はツッコミを入れる。

 如何せん、皐月は好きなレース番組(特にF1)と時代劇以外はてんでテレビを見ない。

 お風呂に入ろうとした時、先に葉月が入っていたため、それを待っているあいだに点いていたテレビを見ていただけだ。

「それじゃぁ見るものも見たし、あとは寝るだけ?」

「そうだけど? お姉ちゃんは……聞くまでもないね」

 言って、葉月は皐月を見やる。

 葉月は小学生の、可愛らしい薄緑のパジャマなのだが、皐月は時代劇から出てきたかのような長襦袢を羽織っている。

 これが皐月の普段からの寝巻きなのだが、パジャマ用に改良されているため通気性がいい。

 そして何より――体型が気にならないこともないが、如何せん出るところは出るし、引っ込むところは引っ込む。

 そういう理由ではなかったが、あまりサイズに左右されない長襦袢が性に合っていたのであった。

「あぁ、お風呂って水抜いてよかったんだっけ?」

「抜いたの?」

 そう聞き返され、皐月は自分の顔の前で手を降った。

「いや、あと誰が入っていないかなって思って」

「爺様は一番風呂だし、瑠璃さんはまだだったよね?」

 祖父である黒川拓蔵が一番風呂である以外、ほとんどその時その時に入りたい人が入るので、誰が入っているいないかは定かになっていない。

「下着は?」

「男女分かれた洗濯かごの中を見ると、爺様と私達二人のしかなかった」

 姉妹の父親である初瀬神健介がまだ仕事から帰ってきていない。

「もう十時回ってるけど」

 葉月がチラリと掛け時計に目をやった。番組が十五分ほど繰り下がっていたため正しくは二二時二〇分。

「忙しいのかな?」

 首をかしげ、皐月は――ちょうど居間で寛いでいた母親を一瞥する。

「なにか聞いてない?」

「遅れる――としか連絡がなかったわね」

 その母親である初瀬神遼子は、娘が作った水チョコを口にしていた。

 なんとものんびりとした母親だと皐月は思った。これで夫婦仲が冷え切ってはいないのだから不思議なものである。

「まぁ、事件なんてそう簡単に遭遇したりしないから、普通にお仕事とか付き合いで遅くなってるだけだと思うよ」

 葉月がカンラカンラと笑う。

「――だといいけど」

 皐月も、自分はまだしも、家族がそう易々やすやす――と思ったが、

「皐月、あなたの部屋から携帯の着信が鳴っていますよ」

 襖のほうから声が聞こえ、皐月はそちらを見ると、小学四年生ほどの華奢なからだつきの少女が立っていた。「うわぁ……」

「なんですか藪から棒に」

 皐月は愕然とした声色で、その少女を見すえる。

 もちろん、そんな顔を向けられれば気分がよろしくない。

 そう思いながら少女は怪訝な顔で皐月を見すえた。

「いや――瑠璃さんのせいじゃないですよ」

「さっきお父さんが帰ってくるの遅いって話になって」

「もしかしたら事件に巻き込まれているんじゃないかって」

 葉月と遼子がそう説明する。

「まぁ、皐月がそういう顔を浮かべてしまうのもムリはないですね」

 理由が分かれば、さほど気にはしないが、

「それより、早く取りに行ってきなさい」

 皐月は瑠璃にそう促され、二階の、自分の部屋へと上がっていった。


 部屋に入ると、机の上においていた携帯が震えながら着信を鳴らしていた。

 皐月はそれを手に取り、着信相手を見る。

『大宮巡査 着信』

 そう表記されているのを見て、皐月はふぅとひとつため息をついた。

「もしもし……」

「あぁ、皐月ちゃんか」

 皐月の耳元で慌てたような声を上げた男性がそうたずねる。

「そうですけど、どうかしたんですか?」

「いや、落ち着いて聞いてほしいんだ」

「落ち着いてますけど」

「うん、わかってる。僕からの電話だからね――その……」

「事件ですよね? それでなにかわかったことはあるんですか?」

「いや、そうなんだけど……」

 煮え切らない知り合いの声に、「なんなんですか?」

 と皐月は皐月で苛立ちを覚え始めていた。

「その――健介さんが捕まった」


 ◇


 葉月がお風呂から上がって、入れ替わる形で皐月がお風呂に入っていた頃。

 時間にしてちょうど夜の二一時三〇分を少し過ぎたあたりだ。

「ようし、もう一件行くぞ」

 意気揚々と居酒屋から出てきたのはグテグテに酔いつぶれた、四十くらいのスーツ姿の男性と、一人のスーツを来た四十路に差し掛かろうとしているが見た目が若くキリッとした顔立ちのいいサラリーマンが出てきた。

「あの、深浦さん……、明日もあるんですし、今日はこのへんで」

 言うや、顔立ちのいいサラリーマン――初瀬神健介が携帯をポケットから取り出す。

「なんだぁ、お前さんオレの酒が飲めねぇってのか?」

 そんな健介に、深浦は凄むように顔をのぞかせた。

「いや、そういうわけじゃないですが」

 健介は深浦の絡み酒にいやいやしていた。

 もちろんそれを口にできないのがサラリーマンの辛いところ。

 なにせ相手は営業先の上司である。ここで下手なことすればどうなるかは察してほしい。

「これだったら、お義父さんの相手をしている方が楽だよ」

 健介はちいさく、つぶやくように愚痴をこぼした。

 義父である拓蔵も酒を飲むどころか蟒蛇であった。

 しかし節度や、相手が嫌がるようなことはしないため、一緒に飲むことに抵抗はなく嫌にはならない。

「おぅ、オレに付き合ってくれねぇとお前さんところ取引やめっちまおうかな」

 ――それはあんまりだ。

「わかりました。それじゃぁもう一件行きましょう」

「おう、わかりゃぁいいんだよ。わかりゃぁなぁ」

 ガハハと笑いながら、深浦は健介から離れた。

「あ、そっちは階段ですよ?」

「あぁでぇじょうぶでぇじょうぶ」

 健介の注意を無視するかのように深浦は先へと歩いていく。「お、こっちにいい飲み屋があるぞ」

「あれ? 本当だ」

 深浦に追いついた健介が、階段の上からそのお店を見下ろした。

 ぽつんと赤い提灯で灯されているが、中も赤々と点っている。

「やっているみたいですね」

「ったりめぇだろぉ、まぁだガキも寝てねぇ時間だぞ――ととと?」

 深浦は階段を千鳥足で降りていく。

「危ない――ッ!」

 深浦が足を滑らせ、階段の脇から土手に転がり落ちていく。

「ててて――」

「大丈夫ですか?」

 健介が駆け寄ると、

「あぁ大丈夫――」

 深浦は頭を抱え意識を保つ。「酒には強いほうなんだがなぁ」

「ほら、肩を貸しますから、あのお店で水をもらいましょう」

「――……」

「深浦さん?」

 ちょうど深浦の腰に手をやると、ジト……と、健介の手がなにかで滲んだ。

「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」

 健介が呼びかけるが、深浦は微動だにしない。

 まさか、さっきのでどこかやられてしまったのか。

 そう思った健介は、深浦を地面に横たわらせ、携帯を取り出した。「あの――すみません救急車をお願いします」


「――で、合っているんですよね?」

 目の前の、チリチリとしたアフロパーマの太っちょな警官がけげんな顔で健介に問いかけた。

「えぇ、ですから僕はやってないですよ。阿弥陀警部」

 その健介は現在パトカーの後部座席で阿弥陀と呼ばれた警官の横に座っており、運転席には、皐月に連絡を入れた大宮忠治巡査が座っている。

「救急車を呼んだはずなのになんであなた達が来てるんですか?」

「いや、こちらは通報を受けまして、男性が階段から人を突き落としたと」

「それで、失礼ですけどお二人の関係は?」

「その前に家族に連絡できませんか?」

 聞いて、健介は大宮巡査を一瞥した。「いちおう皐月ちゃんには連絡しておきましたけど」

「――けど」

 首をかしげる阿弥陀警部に、大宮は肩をすくめた。

「『もうみんな寝る時間なんで、事情は神社に帰ってきてから聞きます』だそうです」

「いや、そこは心配とかしないんですかね?」

「むしろ心配しているからこそ冷静じゃないんですかね」

 阿弥陀警部が苦笑を浮かべる。

「そもそも私や大宮くんはあなたがやったとは思っていませんし」

「どういう理屈ですか?」

 さすがにそれはないだろと健介は思ったが、

「だって、あなたがもし殺人なんてしてごらんなさい。自分から救急車を呼んだりしますか?」

 阿弥陀警部の言葉に、たしかに――と健介はうなずいてみせた。

「で、話をもとに戻しますけど、亡くなった深浦謙三さんとはどういった関係で?」

「仕事先の知り合いですね」

「今日はどういったことで?」

「うちの会社の商品を、深浦さんが経営しているお店に並べてもらえないかっていう商談なんですけど」

「商談は建前で、実際は付き合いで飲まされていた――と?」

 大宮がそうたずねる。

「忠治さん――いや、今は大宮巡査と言ったほうがいいんですかね?」

 健介は大宮に訊いた。

 なにせこの大宮巡査は、健介の娘である皐月の恋人だ。

「それは別に、我々しかいませんからお好きなように」

 阿弥陀警部はやんわりと答えた。もちろん取引はしない。したところで何のメリットもないからだ。

「深浦さんとの飲み会は今日で三回目くらいですね。と言っても僕一人だったのは今日が初めてでしたけど」

 健介がうーんと唸っていたときだった。「おい、大宮」

 コンコンと運転席の窓を叩く音が聞こえ、大宮はそちらへと目をやった。

「佐々木刑事、なにかわかったんですか?」

 大宮は窓を開け、佐々木という初老の刑事にたずねた。

「健介さんと亡くなった深浦って男性が飲んでいた居酒屋で話を聞いてきたんだが、どうやら相手さんは相当酔っていたみたいでな」

「あ、はい。送ろうかとたずねたらもう一件行くぞと言われまして」

 佐々木刑事の声が聞こえた健介が、そう答える。

「ということは階段から突き落としたというよりは自分から転げ落ちた時になにかで心臓を打ってしまった……と?」

 阿弥陀警部がそうたずねる。「ええ、それで深浦さんを担いだ時に違和感があって」

「とりあえず倒れた場所の土手なんだがなぁ、健介さん」

 ジッと健介を見据えていた佐々木刑事の目が小さく微笑んだ。

「な、なんでしょうか?」

「ないんだわ、そういう類のものが」

 ――えっ?

「ちょっと気分が悪くなるかもしれんがのぅ、あんたが思っているようなものがないんだわまったく」

「土手なんですから大きな石があってもおかしくないんじゃ?」

「それも探したけどな機捜の話じゃまったく見つからないそうだ――それにさっき乾式の湖西から連絡があった」

「死因がわかったんですか?」

「あぁ、死因は――刺殺だ」

 しばらく静寂が車の中で広まった。

「し、刺殺? ちょっと待ってください? 深浦さんは階段を踏み外して土手に倒れ込んだんですよ? それなら原因はその時に落ちている石かなにかで心臓を一打されたか――」

 佐々木の言葉にいの一番に異議を申し立てたのは他でもない健介だった。

「でも、健介さん――、こう供述していましたよね? 深浦さんの身体を支えた時に手が濡れたって」

「えぇ、そうですけど?」

「それっておかしくないですか?」

「おかしい……? おかしいってなにがですか?」

 健介は深浦の血で染まった自分の手を見つめた。

 今はもう拭い取っていたが、いまだにあのジュクジュクとしたマグマのように熱い血が自分の手を爛れ落としている。

 もちろんそれは幻でしかないのだが、もしかして本当に自分が殺したのか――。

「あぁ言っておくがな健介さんや」

 佐々木に声をかけられ、健介はそちらを見やった。「今日は事情聴取だけ済ませて、詳しいことはこっちが調べる。なぁにあんたを信頼しているのは家族だけじゃない」

「家族にも見放されていた気持ちなんですが」

 そう口にした健介だったが、「あなたの無実を証明するのも警察の仕事ですからな」

 言って阿弥陀警部は苦笑を浮かべた。

「それにあの人たちはあなたがやったなんて、1ミリも考えていないでしょうからな」



 ――その翌朝である。

「で、朝帰りになってしまった……というわけじゃな?」

 目の前の、神職の狩衣をまとい、奴袴を履いた強面の男性が、朝方戻ってきた義息に尋問をしていた。

「はい」

 夜は警察にお世話になっていた健介は、帰ってきてからも同じことを聞かれたためさすがに嫌気が差していた。

「だけど僕はやってませんよ?」

「そうやって慌てると余計にあやしく見えますよ」

 瑠璃がお茶を湯飲みに注ぎ、拓蔵と健介に差し出す。

「お前さんはやっておらんのだから堂々とすればよい。――その深浦に恨みがあるのなら話は別じゃがな」

 カラカラと笑う老人に、「冗談でも言わないほうがいいですよ」

 瑠璃が睨むように笑みを浮かべ、言葉をたしなめた。

「うむ……しかし、亡くなった深浦は誰かに恨みを持たれてはいなかったのか?」

 拓蔵は一度咳くと、健介を見すえた。

「そこは僕もわからないんですよ」

 健介は似たようなことを警察でも聞かれたため、もはや答えるのも億劫であった。

 あくまで健介と深浦は仕事上の関係だ。それ以上のことは知らないし、そもそも知る必要もない。

「ということは誰かが健介くんに罪をなすりつけたというわけですか」

「結論から言うとそうなるな」

「僕に罪をって――いったい何の得があって?」

 心当たりがない健介はいぶかしげな声で拓蔵と瑠璃にたずねた。

「それをいま考えておるんじゃろ?」

「わかっているのは深浦という男性が酒癖が悪いということだけですけどね」

 瑠璃がそういうや、玄関のチャイムが鳴った。

「こんな朝早くにか?」

 朝早くとは言っても、現在午前九時である。学生の皐月と葉月はすでに学校へと出ている。

「遼子、ちょっと出てきてください」

 言われ、健介の隣りに座っていた遼子が玄関へと向かった。

 ――しばらくして、「あぁ皆さんおはようございます」

 顔を見せたのは阿弥陀警部だった。

「ほぅ……、虎穴こけつらずんばヘラヘラと笑ってはいってきたか?」

「いや、なんでそうなるんですか?」

 睨むように言ってきた拓蔵に、阿弥陀警部はおどけてみせた。

「冗談じゃ。してなにかわかったのか?」

「えぇ、まぁとりあえず健介くんは無実です」

 聞いて、一番おどろいたのは当の健介であった。「犯人がわかったんですか?」

「いや、全然……というか事件現場の鑑識をした結果、妙なものが見つかりましてね」

「妙なもの?」

 阿弥陀は縄のようなものを鞄から取り出した。

「見たところ首輪のようですが?」

「ええ、瑠璃さんの言う通り、犬のリールなんですけど、同じやつが現場近くの土手に捨てられていたんですよ。――で、これが誰のかわかります?」

「わかるわけないじゃろ」

 拓蔵がそう答える。

「実はこれ、亡くなった深浦の家で見つかったんですけどね」

「あれ? でも深浦さんは犬を飼っているなんて聞いてませんけど」

 健介がけげんな顔で阿弥陀警部を見すえた。

「犬を飼っていたのはもう五年くらい前だったみたいですよ」

「その言い回しだと普通にいなくなったというわけではなさそうですね」

 瑠璃が睨むように阿弥陀警部に問いかけた。

「えぇ、殺された……と言っていいでしょうな」

「どういうことですか?」

「――健介さん、亡くなった深浦さんは酒癖が悪く、絡み酒だったようですね」

「ええ、そうですけど?」

 同じことを何度も聞かされているため健介は語尾を強めた。

「じゃぁそんな人が飼い犬を誤って殺してしまった――なんて言ったらどうします?」

 それを聞いて、健介は持っていた湯呑を落とした。「えっと?」

「健介さん、警察もねバカじゃないんで、見つからない証拠をいくら探しても見つからないんですよ。誰かが持っていかない以上は」

「でも、あの時深浦さんの近くにいたのは僕以外に――」

 アッと健介は声を上げた。

「そういえば、よく犬の話をしていたな」

「それはどんな?」

「あまり集中して聞いていなかったので内容までは覚えていませんけど――今度は鳴かない犬がほしい――と」

 それを聞いて、瑠璃は呆れたように肩をすくめた。

「阿弥陀警部、もしやとは思いますが今回の件は」

「まぁ事故死で処理されますな」

 やんわりと答える阿弥陀警部だったが、

「もしかして――妖怪の仕業だったんでしょうか?」

 健介は腑に落ちないといった声で言った。

「仮にそうであったとしても、我々では罰せないですからな」

 阿弥陀警部はそう伝えると席を立った。

「これから事後処理がありますんで」

 頭を下げ、外へと消えていった。


 ◇


 さしも納得がいかないのが健介である。

「深浦さんが勤めている会社に問い合わせたところ妙なことがわかりました」

 その日の夕食、健介は皆を見渡して言った。

「そういうのは警察に任せればいいのに」

 皐月がそう言うが、「自分が殺人犯だって疑われて、答えが妖怪の仕業だって言われて、はいそうですかって言えるか?」

「うん、お父さんの場合はいえないね」

 葉月も皐月と同様、解決したのだから正直どうでも良かった。

「で、なにがわかったんですか?」

「深浦さんの付き合いでお酒の席に行っていた人が言うにはですね、酒癖が悪く絡み酒だったことは間違いないんですが――」

「もしかしてお父さんが会っていたその日は普段と違う反応だった?」

 葉月の言葉に、健介はうなずいてみせた。

「会社の人が言うには酔いつぶれた時に偶然聞いたそうなんだ。――赦してくれって」

 それを聞いて、拓蔵は瑠璃を見すえた。

「健介くん、朝のことなんだがね」

「――いえ、もういいんですよ」

 拓蔵の言葉を、健介はせき止める。

「深浦さんは事故で亡くなった……それでいいじゃないですか」

「健介くんがそう結論付けたのならこちらは言うまでもないですね」

 瑠璃はため息をつくように言った。「報われんなぁ」

「えぇ本当に――」

 拓蔵と瑠璃は二人して湯呑を口にする。

「爺様、解決しているから蒸し返す気はないけど結局妖怪の仕業だったんでしょ?」

 皐月がそうたずねる。「それって一体どんなやつだったの?」

「詳しくはわからんがな――おそらく『アゼハシリ』じゃろうな」

 聞き覚えのない皐月と葉月は首をかしげた。

「降霊術をした人間に取り付く弱い狐狸の一種なんですけどね、取り憑いた人の気が触れてしまい『』道を『』らせる」

「あぁ、だから『畦走アゼハシリ』」

 遼子が納得したようにポンッと手を叩いた。

「と言っても、今回の件に関しては深浦に恨みを持っていた狐狸がしたことじゃからな。お前さんが気にすることではない」

 拓蔵は、油揚げが入った豚汁を口にする。今日は一段と寒いので瑠璃にお願いしてのことだ。

「うむ、やはりこういう寒い日には温かい豚汁じゃな」

 ほぅ……と吐息を漏らし、口元についた分葱を舌なめずりしてすくい取る。

「そういえば油揚げってきつねの――」

 ――健介は、これ以上今回の奇っ怪な出来事を気にしないことにして、自分にと用意されている豚汁を口にする。

 ふんわりとした温かい熱気が、胃の中から全身を温めてくれるようだった。

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