第3話

昨晩の興奮覚めやらぬまま私は会社に向かい、開口一番「今日午後有休取っていいですか」と聞いたら「ダメに決まってんだろ、親が死んだならともかく」と言われた。そう、すっかり忘れていたのだが、この会社に「有休」という概念は無いのだ。過労で倒れた時のストックにして、倒れなかったら買い取ってもらえるからラッキーぐらいの気持ちでいる。この会社、クソブラックよりは遥かにマシだが、胸を張って堂々とホワイト企業と言えるほどではない。ちなみに3年連続赤字なのでレッド企業だが、内部留保が多いのと親会社が黒字なので、中小企業にしてはかなり体力がある。


まあ、しょうがないので頑張って定時で終わらせて帰るようにして、例のコードに書いてあった住所に行こう。Google Mapで調べたところ、どうやら普通のオフィスビルのようだった。


ふと、例のコードは近眼なら誰でも文字に見えるのかが気になった。課長のメガネが老眼鏡なのか近眼用のメガネなのか分からんが、ちょっと試してみよう。


「課長、すいませんけどちょっとメガネ外してこっちみてもらっていいですか」

「何だよ、それQRコード?」

「これ、文字っぽく見えません?」

「どう見てもQRコードでしょ。なに、何のゲームなのこれ?」

「いや、見えないならいいっす」

「いいっすじゃねえだろお前。上司の時間無駄遣いさせたことにまず謝るのが先じゃないの?そもそも業務中に何してるんだよ。お前、自分の時給ちゃんと把握してんの?お前の時給とおれの時給合わせたら今のわけわからんやり取りでいくらかかると思ってんの?そういうのをコスト意識が低いっていうんだよ。だから万年赤字なんだよ。事務職だからゆるくやって許されると思ってんじゃないよ。営業が必死に稼いできた金をお前ら事務職がダラダラ仕事して使い込むからこういうことになるんじゃないの?だいたいさ、お前ら事務職もそうだけどさ、営業も含めて全員コスト意識がねえんだよ。いつも言ってんだろ?役職関係なく、コスト意識は社長以上に持てって。意識がねえんだよ意識がよ、お前らは。効率良く仕事終わらせないから定時に仕事終わんねえんだし、仕事終わらせらんない身分で有休がどうのこうの言うのは「あっはいすいません伝票打ってきます」


効率がどうとか今関係ないし、そもそもサービス残業させてる身でコスト云々言う資格は無いんじゃないのか、という文句を言うほど私は若くない。そういう文句を言うのは十代で終わらせた。社会に出て3年目ともなると、口うるさい上司と激論を交わすというよりは、喋りたがりの老人をいかに介護するかという目線で仕事をするようになる。介護人材の不足が取り沙汰されるが、本質的には介護される人数が多すぎるのが問題なのだ。なにしろ、世間で「現役世代」とされる50代までこのザマなのだから。


まあ、課長にコードを読ませたのがそもそも間違いだったが、この部署には課長とわたし以外にメガネキャラが居ないのでしょうがなかった。


あのビル、何時まで開いてるんだろうな。本郷にある例のビルまでは電車と徒歩で30分ぐらいだ(どうでもいいが、あれだけ口うるさくコストコスト言う割に、Webサイトのブロッキングや業務監視ツールをPCに入れてないところだけはこの会社の唯一評価できるところだ、おかげで仕事中にこっそりGoogle Mapが開ける)。定時は5時半なので、最短で6時にはたどり着けるだろう。急ぎの仕事が降ってこないことを願う。


しまった、結局課長が老眼なのか近眼なのか聞くのを忘れた。だが今日はこれ以上地雷を踏むわけにはいかない。絶対「老眼で悪かったな、年寄りはさっさと引退せいとでも……」とか言い出しそうだ。摩訶不思議なコードの謎を解くのは後回しだ。どちらにせよ、例のビルに行けば何かしら教えてもらえるだろう。


---


願いはいつか叶うもの?とんでもない。願いはかなわないものだ。定時で終わらせるという強い意思とは裏腹に、今日も会社を出たのは夜8時を回ってからだ。さすがに例のビルはもう閉まっているだろうな……と思いながら、念の為帰りに立ち寄ってみる。


夜の文京区本郷は暗い。東京とは思えないぐらい暗い。少し道に迷い、たどり着いたのは夜9時前だったが、予想に反してビルには明かりがついており、エントランスの自動ドアは快く私を受け入れてくれた。いつ行っても反応が悪い、近所のコンビニの自動ドアよりは優しい。


小さいが、綺麗なビルだ。こういうのを小綺麗というのか?1Fの受付は既に閉まっており、代わりに呼び出し用のタブレットが置いてある。選択肢を選んでいく。


・お名前: ムカイ ナオコ

・ご用件: 求人について

・担当者: アンドリュー様


そういえば、あのコードには英文が書いてあったし、Andrewという名前が添えられていた。わたし、英語からっきしなんだけど、大丈夫なんだろうか?


そわそわしながら待っているとエレベーターのドアが開き、数人の日本人と共に大柄な欧米人が出てきた……茶髪で髭面の男だ。日本人たちはたまたま帰宅するところだったらしく、欧米人と挨拶を交わしながら出口に向かっていく。当の欧米人はわたしのところに向かってくる。一緒に降りてきた日本人たちはTシャツ姿だったが、彼だけはグレーのストライプのスーツに、赤色のネクタイをしている。がっしりした体型だ。


「はじめまして、向井さんですか?」

「あ、はい、向井直子と言います」

「こんばんは。遅くにありがとうございます。アンドリューと言います。こちらにどうぞ」


思いがけず日本語だった。良かった。多少イントネーションは不自然だが、流暢な日本語だ。


「もうオフィスは閉まっているので、すみませんがラウンジでお話ししましょう」


そう言って彼は席まで案内してくれた。夜なので薄暗いが、間接照明が至るところに置いてあり、さながらカフェかレストランのようだ。


「改めまして、今日はありがとうございます。人事責任者のアンドリュー・ノーマンです」


彼は日本のビジネスマンさながらの丁寧な作法で名刺を渡してくれた。社名には「ヒューマンコグニティブ株式会社」と書かれている。裏面には英語表記で Andrew Newman / Human Cognitive K.K. とある。ほう、株式会社のことをK.K.と言うのか。初めて知った。


「求人の件とのことですが、今日はどのようなきっかけでこの会社を知りましたか?」

「あ……あの、なんと言ったら良いのか、電車にQRコードのようなものが貼ってあって、そ、それを見てきました」

「なるほど、ありがとうございます。そのQRコードのようなものにはなんと書いてありましたか?」

「はい……あの、英語だったので自信がないのですが……えっと、この場所に来ればスペシャルな?仕事のおすすめがあると……」

「素晴らしい」


男は満面の笑みを浮かべ、話を続けた。


「あなたはあのコードが読めたのですね。素晴らしい。あなたのような人を探していました」

「あの……あのコードは一体何なのですか?」

「少し込み入った説明になりますが、その前にすこしあなたのことを聞かせてください。私たちはある cognitive characteristic ... ええと、認識特性を持つ人達を探しています」

「認識特性?それはなんですか?」

「つまり何と言いますか、そうですね、『錯視』は分かりますか?」


錯視?同じ長さの棒が、長くなったり短くなったりするやつのことか?


「そう、そういうやつです。いろいろなバリエーションがあって、例えば『回っていないものが回って見える』とか、そういうものもあります。あと、有名なのは壺の絵とか、老婆と貴婦人の絵とかですね」


彼はそう言うと、一冊の絵本を見せてくれた。目の錯覚で動いていないものが動いて見えたり、距離によって大きく見えたり小さく見えたりする、そういう図形が色々紹介されている。


「不思議なものですよね。この図は動いていないはずなのに、人の目でじっと見ると回って見える。私たちがこういう図を『見ての通り』に見ていない証拠です」


彼はそう言いながら、鞄から別の資料を取り出す。先ほどの錯視の例とは打って変わって、なんだか3歳児が見様見真似でプレイしたマインクラフトのような、茶色と緑の地味な絵だ。


「この絵はどんな風に見えますか?」

「さあ……あ、でも、ここに人の顔みたいなのが見えますね」

「なるほど。良いパターン認識能力だ。他には?」


どんな答えを期待されてるんだ?だが、半分冗談で返した「人の顔が見える」がどうやら受け入れられたようだから、方向性としては間違ってないらしい。


あのコードを読んだ時と同じく、試しにメガネを外して見てみる。図形がぼやける。同時に、文字とも図形とも違う、ある「印象」が私の心に去来した。新幹線の中から田園風景を見た時のような感じ。何だ、これは?


「どうですか?」

「説明しにくいのですが、メガネを外すと、何か違う絵のように見えます。ぼやけた田園風景みたいな」

「興味深い。では、このメガネを掛けるとどうですか?」


彼は私に、メガネ屋で使うようなレンズ差し替えが出来るメガネを手渡した。掛けると少しクラクラする。乱視の矯正のようなものが入っているのだろうか?それに、レンズにマーブル模様のようなものが付いている気がする。


渡されたメガネを掛けて、絵を見てみる。先ほどまでとは全く違う絵に見える。そして、見ている絵とは全く別の、どこかの田舎町の風景が見えた。


私は生まれてこのかた日本を出たことがない。だが、私はその風景がオランダ・ナールデンの風景だと確信出来た。理由はさっぱり分からない。だが、私はその風景を「読む」ことが出来た。見れば見るほど、その風景の情報を得ることが出来た。緯度、経度、気候、面積、人口密度。1940年5月10日未明、ナチス・ドイツがオランダに侵攻を開始した日、ナールデンに多数の空挺兵が降下して交戦状態となった歴史。そして、街に住む人々の顔が一つ一つ入り込んできた。


まずい。見れば見るほど頭がパンクしそうだ。私は絵から目を背け、眼鏡を外しました。


「この絵は……すみません、混乱しています。まず、この絵はオランダの絵ですか?」

「そのとおり。他には?」

「説明しきれません。この絵を見れば見るほど、この絵についての情報を読むことが出来ました。どういうことか分かりません。私はナールデンという場所について何も知らなかったはずなのに、この絵を見るとナールデンという場所について分かってしまいます。どうしてなんですか?あの眼鏡を掛けると、この絵はように見えました」

「すばらしい。合格です」


突然合格発表を受けた。


「先ほども申し上げました通り、私たちはある視覚特性を持つ人たちを探しています。具体的には、錯視や錯覚に反応しやすかったり、不規則な模様の中から特定のパターンを見出すことに長けた方々です。あなたのような方々を私たちはこれまでで約1000人ほど見つけました。米国、北米、ヨーロッパ、中東、そして日本でこのような方々を探しています」

「はあ」

「こうした方々に、我々はある仕事をお願いしています。先ほどのレンズを、あなた専用にお作りします。それから、あなたに先ほどのような絵をお渡しします。その絵を、結果を我々にご報告頂きたい」


混乱してきた。まず、彼らは何故こんなことをしてるのだろうか?それにさっきの絵は何なんだろうか?さっきの絵や、彼らがこれから渡すという絵は、彼らが作ったものなんだろうか?いや、まずその前に、雇用形態は?


「どうでしょう、受けてくださいますか?」

「あの、まず雇用条件や待遇を教えて欲しいんですが……」

「おや?あのコードに書いてあったと思いますが」


なるほど?あのコードをみた限りでは書いてなかったはずだが、読み飛ばしたものがあったのだろうか。もう一度読んでみる。何か違いがあるかもしれないと思ったが、書かれていたのは前と同じ例文だった。


「我々のレンズを使いますか?」


促されて、例の不思議なメガネを掛ける。途端に、コードから情報が格段に増えた。さっきの絵と同じだ。深く、どこまでも深く読んでいける。まるでVR空間の中のようだ。正方形の図形が、消失点を伴う無限に深い四角形の穴のように感じた。その中に情報がぎっしりと詰まっている。簡潔な英語だけだと思っていたオファーレターは、実際は全ての言語で書かれていた。全ての言語というのはおかしな表現かもしれないが、私はそう感じた。いや、どの言語とも違うが、誰にでも読める、と言ったほうが正しいかもしれない。


とにかく、私は必要な情報を受け取った。時給4,000円。在宅可。副業としての勤務可。およそ1時間に3枚程度の画像を読み、結果をメールで報告する。必要なのはPCまたはスマートフォン、それに貸与されるレンズ。破格の条件だ。


その日は雇用契約に必要な書類を持ち合わせていなかったので、レンズの作成に必要な簡単な視力検査を受け、名前と連絡先を伝えて帰宅した。契約書類は後日メールで届き、オンラインでサイン出来るらしい。すごい時代だ。今の会社にも爪の垢を食わせたいぐらいだ。煎じずに。

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人間の空間及び文字認識能力を用いた情報の保存及び展開手法についての研究 @yowamura

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