第2話

わたしの勤務先は小さな商社で、文房具やオフィス用品の流通をしている。業界ではそこそこ名のしれた会社だが、そもそも「文具業界」というものが大して世の中に知られていない。みんな、自分が使っているボールペンがパイロット製かぺんてる製かなんて知らずに使ってる。マッキーがどこの製品かなんて考えずにマッキーと呼んでいる。


大体の物事はそうだと思うが、どんなものも突き詰めて考えたり、深く立ち入ったりすると結構面白いものだ……わたしはもともと文房具は嫌いじゃなかったが、この会社に入ってから文房具が面白いと思った。「書く」ということ自体は別にどのボールペンでも出来る。100円のボールペンを売るのに、差別化できる要素は少ない……だから、各社工夫を凝らしている。滑らかさであったり、筆記の鮮明さであったり。


前に聞いた話だが、日本の文房具は外国で人気らしい。質の高さが人気の秘訣のようだ。確かに、書き味だけで比べれば、日本の300円〜500円のボールペンが、海外の有名ブランドの5000円のボールペンを上回ることは多い。多分、差別化要因が国によって違うんだろう。海外では筆記具自体のデザインで差別化し、日本では機能性で差別化しているということなのだと思う。


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「向井さん」


後ろから声をかけられた。大柄な男だった。この間の飲み会で大いびきをかいて寝ていた男だ。名前を覚えていない。確か同期の、営業部の男だったはずだ。


「ちょっと仕事を頼まれて欲しいんだけど、この伝票を打ち込んでおいてくれないかな」


そう言って、300枚は下らない伝票の束を渡される。タイプされた商品名を見るに、どうやら季節商材の返品伝票のようだった。扇子、花火、七夕飾りといった、いかにも夏の風物詩といったものが並んでいる。


IT化、DX、商流と物流の電子化なんてことが叫ばれながら、この会社は未だに紙で仕事が回っている……いや、電子化は進んでいるのだ。。どこの業界もそうだと思うが、バイイングパワー、つまり物を買う側の力は強い。スーパーや、GMSと呼ばれるような大規模商業施設、これらが業界に与える影響力は強く、彼らの都合で業務効率化は推進されていく。言い換えれば、季節商材の返品のような「買ったものをそのまま返す」だけの利益につながらない仕事は効率化の波に乗れないことも多いのだ。そして、波に乗れなかった仕事たちは、そのままわれわれのような中間流通業にしわ寄せとしてやってくる。


わたしは伝票を受け取り、席についた。薄暗いディスプレイが私の顔を照らす。入力画面を開き、わたしは一心不乱に伝票のJANコードを打ち込んでいく……JANコードというのは、商品に付けられる13桁の数字のことで、一般には「バーコード」と呼ばれているものの数字部分だ。


この会社に入るまで、これまでこの「JANコード」というものを意識したことはなかった……バーコードの下に書いてある数字が、バーコードと対応したものであるということすら知らなかった。世の中に流通している製品にはこのJANコードがそれぞれ紐付けられていて、それを機械で読み取りやすいようにバーコードという形で表現したのが、世の中で言うところの「バーコード」なのだ。


薄い頭髪を甲斐甲斐しくも頭に広げたヘアスタイルを「バーコードヘア」と揶揄したりすることもあるが、実際にはあの髪型をバーコードスキャナで読み取ることは出来ない。当たり前のようにも聞こえるが、ちゃんと理由がある。なぜなら、バーコード表現には一定の規則があり、太さや細さ、桁数、余白などが予め決められているのだ。例えば、JANコードは国際的に決められたUPCコードというものと互換性があるものだ。JANコード以外にもバーコードはあり、例えば物流で良く使われるITFコードや、図書館の貸し出しコードに使われるNW-7というコードがある。それぞれのコードに対応したバーコードスキャナでないと読み取れないし、そもそもバーコードヘアはどの規格にも対応していないので読み取り不可能だ。


規格……そうだ、規格だ。私はふとあのQRコードのことを思い出した。バーコードと同じように、QRコードのような二次元コードにも規格がある。QRコードはデンソーが開発した規格で、他にも様々なバリエーションがある。

バーコードやQRコードには、そのコードがどの規格のものかを調べるスマホアプリがある。あのQRコードをアプリでスキャンしてみれば、あのQRコードの正体が分かるかもしれない。


わたしはPlayストアでアプリをダウンロードしようとしたが、上司の目に気づいてスマートフォンを隠した。サボっていると思われると面倒だ。伝票はあと200枚余り。1枚あたり10秒で入力すれば3時間もあれば終わるだろう。


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結局、会社を出たのは夜10時を回ったころだった。あの大柄な男性社員(名札を見たら「出川」という名前だった)が定時すぎに追加の伝票を回してきたのだ。それも今日中に入力しないと売上とのバランスが取れないからすぐにやってほしいという。上司の顔をちらと覗いたが、こういうときだけ見て見ぬ振りだ。部下を守るのも上司の務めじゃないのか、まったく。


だが、帰りが遅くなるのは望むところでもある。実は、件のQRコードは行きの電車では見つからなかったのだ。恐らくランダムに貼ったので、貼られている車両とそうでない車両があるのだろう。先日見つけたのと同じ時間の電車なら、もしかしたら同じ車両に乗れるかもしれない。鉄道車両がどのようにローテーションしているのかは分からないので、これは一種の賭けだ。


電車を待っている間、QRコードの画像をアプリでスキャンしてみる。二次元バーコードについてはあまり詳しくないが、海外で良く使われるDataMatrixと呼ばれるコードと、もはや日本ではデファクトスタンダードとなったQRコードあたりが一般的だ。QRコードの特徴は左上、右上、左下に付いている四角いマーカーだ。これがコードの方向を表している。だが、そもそも私が見つけた二次元コードにはこれらのマーカーがない。初め、QRコードだとばかり思っていたコードは、そもそも全く異なる仕様の二次元コードの仕様である可能性が高いわけだ。


そして、アプリによる判定の結果、少なくともそのアプリではこのコードの仕様を判別できなかった。コードに該当する仕様が存在しなかった……つまり、この二次元コードはバーコードヘアのようにでたらめのコードである可能性が高いわけだ。あるいは、独自仕様のコードであったり、そもそもコードですらない可能性もある。


面白いじゃないか。私は是が非でもこのコードの謎を解きたくなった。昨日このコードを目にした時に感じたあの感じ、という感覚が、酔いによる錯覚などではないことを確かめたくなったのだ。


そうこうしているうちに電車が来たので乗り込む。

早速件の二次元コードを探す。しかし、広告が貼り替えられてしまったのか、それとも車両の順番が変わったのか、コードはどこにも見当たらない。幸い、今日の電車はどういうわけか空いていて、歩き回っても文句は言われなさそうだ。車両をはしごしながら、お目当てのものを探す。


端から端まで歩いて、一往復半してようやく見つけた。それも、広告の隅ではなく、今度は「戸袋に手を挟まれないようにご注意ください」というシールの上に貼ってある。


写真よりも間違いなく確認できるように、今度はコードを剥がして手帳に貼った。この行為が器物損壊などの罪に問われなければいいのだが。


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日付をまたいだ頃にようやく家に着いた。明日も会社に行くことを考えると憂鬱だ。


件のコードは、昨日(いや、日付が変わったので、正確には一昨日か)見かけたものと変わらないように見えるが、文字列のようには見えない。ただの二次元コードのように見える。二次元コードの規格判定アプリで確認したが、該当する規格はない。これは前に見つけたものと同じだ。


なぜ、誰がこれを貼ったのだろう?コードを剥がしたときにも感じたが、このコードは弱粘着性の接着剤が使われていた。勝手に貼って、怒られた時に剥がせるようにしていたのだろうか?それとも、誰かが剥がして持ち帰ることを意図していた?もし後者だとしたら、いまこのコードがコードにしか見えないことと何か関係があるかもしれない。例えば、何か特定の条件を満たした時にだけそう見えるとか?


あの晩と今日とでは明確な違いがある。私は酒に酔っていない。酔うと多少視界がぼんやりしたり、血流量の増加で目が充血したりするから、そういったちょっとしたコンディションの違いで見え方が変わるのかもしれない。


冷蔵庫から缶チューハイを1缶出して、炙ったイカゲソをつまみに食べながら、件のQRコードを眺める。まだただのコードに見える。もう1缶開ける。まだただのコードに見える。n回繰り返す。冷蔵庫は空になった。まだただのコードに見える。クソ、酔い損だったか。


それにしても、酒に酔うとメガネが汚れるのはなぜなんだろうか?前にそんな検証記事を読んだことがあった気がする。多分デイリーポータルZか何かだろう。メガネを外し、Tシャツの裾で雑に拭きながら、ふとコードに目をやる。


これだ。。私は裸眼視力0.1程度で、1m先のものはほとんどぼやけて見えない。だが、このコードはおぼろげながら読める……そして、同時に。 私はメモ代わりのA4用紙にボールペンで文字を書き写した。崩したような手書きの英文に見える。


If you see this text, we can offer a special job for you. Please visit our office. Andrew


このテキストを読めた人に仕事を紹介するということか?その後には緯度・経度らしき数字が並んでいる。東京の本郷にあるビルのようだ。


興奮と眠気が同時にこみ上げてきた。つまり、酔いが回ってきたのだ。眠い。どうやら謎も解けたことだし、今日はこのまま布団に入ることにする。明日、会社を早退して例のビルに足を運んでみよう。

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