第3話 気晴らしの一杯

 食堂車の丸いテーブルを挟んで二人は向かい合った。

「ここも暑いわね。私暑いところが好きじゃないの。南窓を開けても良いかしら?」

「ええ。もちろん。あたしが開けるわ」

 鏡華は木枠の留め具に手をかけて窓を開け放った。その時サァッと強い風が車内に吹き込んできた。

「あっ、ハンケチ!」

 テーブル上にあったハンケチは風に乗り宙に舞った。それはミス.タカノのハンケチであった。

「おっと。飛びましたよ」

 それを受け止めたのは勇ましい軍服を身にまとった男であった。

 その軍服を見た時、一刹那鏡華は時間が止まったように錯覚した。中年と呼ぶにはまだ若く見えるが、筋骨隆々とした長身のこの男は階級章を見る限りそれなりの地位にいるらしかった。

「…けさん…?」

 鏡華は誰も聞き取れないような小さな声で何かをボソッと呟いた。

「あら、ありがとう軍人さん」

「今日は風が強いようだ。御婦人、窓は閉めておいた方がいい。悪いものが入ってまいりますぞ」

 軍人はそう告げると客車の方へ戻っていった。

「あら、どうなさったの?」

「あっ、ああ…ごめんなさい。人違いをしてしまったみたい。忘れてちょうだい」

 まもなく女給仕が葡萄酒を運んできた。

「こちら西洋の食前酒でございます」

 グラスの中の真紅の葡萄酒が、列車の揺れるのに合わせて波打っている。

「あたしこんなの初めてなの。随分とハイカラなものをお召しになるのね」

「こう見えてもお酒好きなのよ。西洋のお酒って綺麗な色をしてるわよね。私の主人はそれはそれは大酒のみだったけれど、いつも潰れてるのは主人の方。量より飲み方なのよ。お陰で私は今まで病気ひとつしたことないの。それじゃあ、私たちの出会いに」

 二人は手に持ったグラスを掲げた。

「ミス.タカノは福山へ何をしに行かれるの?」

 鏡華がそう訊ねると、婦人は嬉しそうな顔をした。

「実はね。私の娘が福山へ嫁いでいるのだけれど、なんと孫を授かったのよ!電報を見て飛んできたわ」

「そう!それは素敵だわ。おめでとうございます」

 鏡華は深々と頭を下げた。まるで自分の事のように喜んでいた。名前も顔も知らない、ましてや先刻知り合ったばかりの人の娘である。しかし何故だか彼女はその知らせを聞いて心躍るような気分だった。

「ありがとう。嬉しいわ。こんな他人の幸せをそんなに喜んでくださるなんて。あなたはきっと素敵な母親になるわ」

「私、何故だかわからないンだけど、とても嬉しかったの。きっと貴女に似てるのよ。可愛らしいんでしょうね」

 鏡華はまるで雲の上に居るかのような軽やかな気分だった。これほどまでにこの旅が楽しくなろうとは鏡華は思いもしなかっただろう。あれほどまでの父への怒りはどこかへ飛んで行ってしまったかのように、婦人との話に夢中になっていた。

 先刻までの鏡華からは想像できないほど、あたかも何かに目覚めたようにその表情は生き生きとしていた。

「お食事までごちそうになってしまってごめんなさい」

「いいえ。私も久しぶりにこんな長話ができて楽しかったわ。むしろ退屈じゃなかったかしら?」

 ミス.タカノは苦笑した。

「そんなことないわ。あたしもまさかこんな楽しい旅ができるなんて思わなかったわ。このまま広島までだんまりじゃ気が滅入ってしまうわよ」

 腹を満たせたせいか、それとも葡萄酒のせいか、鏡華の視界は徐々にぼやけてきた。

「疲れていたのね。これから先はまだまだ長いのだから、ゆっくりおやすみなさい」

 婦人の優しい言葉を聞きながら、鏡華はゆっくりと目を閉じた。

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