第2話 悩みの種
「そういえば自己紹介がまだだったわね。あぁ、いいのよ。名乗らなくて」
「どうして?」
「こんなときは、自分たちだけで通じる呼び方でやってみましょ。まぁ、私がやりたかっただけなんだけれど…いいかしら?」
老婦人の目からはうら若き好奇心が伝わってくるようだった。きっと今までそんなことをしてみたかったのだろう。
「いいわよ。あたしこういうの初めてだからとっても楽しみなの」
「私はそうね。ミス.タカノとでも呼んで頂戴。あなたは…マドモアゼルとでも呼んでいいかしら?異国の言葉でお嬢さんって意味なの」
「マドモアゼル…面白そうな名前ね。いいわよ。おば…ミス.タカノ!」
二人は出会ったのもほんの少し前だと言うのに、今では姉妹のように仲良くなっていた。気難しく、繊細ともいえる鏡華の性格を、いとも簡単にほぐしてゆく。それも彼女の人柄によるものなのだろう。
「あたしね…お父様と喧嘩してきたの。あんまり大きな声では云えないのだけれど」
鏡華は恥ずかしそうに云った。
「マァ…あなた…そんなことを?」
ミス.タカノは一刹那驚いた顔をした。鏡華が親と大喧嘩するような、そこまで気が強い娘だとは、その大人しそうな見た目からは想像できなかったからだ。しかしすぐに彼女は声を細めて鏡華に訊いた。
「どうして?お父さまと争うなんてただ事じゃないわね」
「あたし、子供の頃は躰が強くなくッて…田舎のおばあさまのところで育てられたの。なのにお父様ったらこれっぽっちも顔を見にすら来てくださらなかったわ。遊んでくれたことすらなかったンだから。それなのに、今更親元へ呼びつけたのかと思えば…」
鏡華は深く溜息をついた。
「『男爵家のご子息へ嫁ぎなさい』ですって。信じられないわ!世間では親の云う事は絶対だなんて云うけれど?『死んでも嫌です』って断ってきたところなの」
鏡華の苛立ちは強くなっていた。思い出すだけで腹が立ってくる様子である。
「男爵家のご子息はお嫌なの?良い縁談ではなくて?」
「良くないわ。先ず、ほったらかしにしていた娘を急に呼び出したかと思えば、そんなお話をされるのが腹が立つの。あたしのことなんてこれっぽっちも考えていないんだわ!」
「マァおちつきなさい。そんなに怒っていちゃァ可愛らしいお顔が台無しよ?でも、それがあなたの悩みの種なのね?私も若い頃は親に決められた嫁ぎ先に嫁いだわ」
「ミス.タカノはお嫌じゃなかったの?」
ミス.タカノは黙って首を横に振った。
「もちろん。とーッても嫌だったわ。誰が好き好んであんな頑固な男へ嫁ぐもんですか。あの人は気難しくっておまけに短気なの。軍人だったから仕方がないのかもしれないけれど、初めは毎日嫌で仕方がなかったわ。でもね、何十年も一緒に暮らしていると、案外楽しいものよ?」
「じゃァ、おばさまはお父様のいうことが正しいと思うの?」
鏡華は寂しげな顔でミス.タカノを見つめた。
「この日本での世間一般の考え方。『昔から』の一言で全て説明をつけてしまう。でもね?私はそうは思わないわ。私は何十年もかかって、たまたま上手くいっただけのこと。そこまで云うのなら、誰か良い方がいらっしゃるのね?」
「そっ、そんなこと…ないわよ」
先刻までの憤った鏡華はどこへやら。その言葉を聞いた鏡華は恥ずかしげに目線をそらした。
「急にしおらしくなっちゃって…可愛いわよ?そんな
「駄目だったの?」
「あんまり大きい声じゃ云えないけれど…私、主人の弱みを握ってたの。それを引き合いに出したら、いつもはやかましい主人がね?急に大人しくなっちゃって」
ミス.タカノは笑いながら陽気に手を叩いた。
「これから向かうのもその娘のところよ。後にも先にも主人に逆らったのはあの時だけだけれど、あの時の主人の顔ったら本当に滑稽だったわ。いつもの鬼みたいな顔が、どんどん青ざめて行ったの。私が知ってること、知らなかったみたい」
「どんな秘密なの?」
「ごめんなさい。主人と約束したの。この秘密は墓場まで持ってくって。…でも…気が向いたら教えてあげるわ」
婦人の陽気さに、鏡華の強張っていた心の内は徐々に和らいでいった。
「この
幸せそうに微笑むミス.タカノ。それを見た鏡華はそんな彼女が羨ましくなった。男爵家へ嫁ぎたくない気持ちは揺らぐことは無かったが、思い描く夫婦の姿がそこにあったのかもしれない。
「優しいご主人じゃない。幸せそうよ?」
「普段はおっかないのだけれどね。たくさん喧嘩もしたわ。一番激しかった時は、お互いに手あたり次第物を投げあったこともあったわ」
「まぁ!そんなに激しいこともなさったの?」
「後にも先にもその時だけよ。投げるものがなくなって、障子まで外して投げようとしたとき、馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまったわ。今でもおかしくて笑いが込み上げて…こんなに笑ったのは久しぶりかもしれないわ。少し暑くなってきちゃった」
ミス.タカノは首から下げた十字架を外し、羽織っていた上着を脱いだ。
「お腹空かない?食堂車、二人で予約してもいいかしら?」
「ええ。嬉しいわ。ぜひご一緒させてくださいな」
鏡華の苛立たしい気持ちはすっかり収まっていた。これまで憂鬱だったこの数日間の旅に良い思い出が芽生えつつあった。この退屈な旅路にようやく楽しさを見出すことができたのだ。
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