新橋発、特別急行

正保院 左京

第1話 窓辺の君

 東京を発車した特別急行は、終点の下関へ向かって順調に進んでいた。帝国の国威を示す大陸連絡列車だ。

 勢いよく黒煙を吹き上げながらガタガタとせわしく揺れる列車。しかし不思議とそれは心地よい律動であった。そんな一等車の一角に窓の外を眺める少女がいた。それは腕利きの職人が作り上げた人形のような、誰もが一度は振り返る美人である。だが、その美しさが台無しになるほどに彼女の表情は曇っていた。

 そんな窓辺の君に、先刻一人の男が声をかけようとした。いかにもな好色な男は徐に隣に腰掛け、彼女に口説き文句を投げかけていたが、不機嫌さの権化とも言える彼女に、ものの見事につっぱねられてしまった。

 まるで雪女の如き背筋の凍るような彼女の視線、一言も喋らぬのに帰れと言わんばかりの高圧的な雰囲気に恐れをなして元の席へ逃げ帰ってしまったのであった。

 彼女の名は大鳳鏡華おおとり きょうかと云う。 今は帝都で暮らす両親に会ってきた帰り道。両親とは子供の頃から離れ離れで暮らしてきた。そんな背景がありながら、信じられないほど虫の居所が悪い様子だ。常日頃離れて暮らしているから、久々の再会となると誰であれ嬉しいと思うだろう。しかし少女の表情からはそんなものは微塵も感じられなかった。

 外を眺める彼女。窓硝子に映るその表情はムスッとした膨れ顔である。

 それもそのはず、彼女にとって『両親と会う』と言うことはとんでもなく憂鬱で、気の進まぬ問題だからだ。

 彼女は兼ねてより、両親とは不和であった。

 警視庁の警視を父に持つ鏡華は、もともとは片田舎に根を下ろした名家・大鳳家の出身であり、父は帝都へ出仕して永らく警官を勤めてきた。鏡華ももとはといえば帝都生まれだ。

 そんな鏡華も今年で15になる。

 少女真っ盛り。どこぞへ嫁にでも行っても良い年齢である。

 この度は帝都に住む両親に会ってきた、というよりかは呼びつけられたと云ったほうが正しいのかもしれない。

 彼女のはらわたが煮えくり返るような様を見るに、それは良い話であったとは一目瞭然である。

「どうなさったの?とても難しいお顔よ?」

 鬼の化身かのようにとげとげしい鏡華に、綿を丸めたように柔らかい声をかけたのは、正面に座っていた老婆だった。薄紫の着物を纏い、みるからに品のある婦人である。その声から想像できる通りの優しげな人であった。

 鏡華は突然に声をかけられたものだから、すこし戸惑うように苦笑した。

「ええ。盆と正月がいっぺんに来たみたいに、それはもう疲れて疲れて、何も考えたくない。そんなお顔かしら?」

「あっ、あたしそんなひどい顔をしていたかしら?」

 慌てて手のひらで顔を触る鏡華。心情が顔に出やすいとは周りから聞いていたものの、今までの一件はすべて彼女にとって無意識のものであった。

「あら。とっても良いお声じゃない。硝子みたいに透き通った声。まるで風鈴の音を聞いているみたいだわ。それならなおさら、そんな写真みたく難しいお顔は似合わないわね?」

「随分と褒めてくださるのね」

「あらごめんなさい。つい喋りすぎてしまうのが私の悪い癖なの。主人にもよく言われたわ。お前は五月蝿いから黙っていなさいって」

 老婦人は恥ずかしそうに肩をすくめた。おとなしい見た目とは裏腹に陽気な性格である。

「いいの。もっとお話してくださいな。あたしは五月蝿いなんてちっとも思っちゃいないわ。…ごめんなさいね?ただ、人から褒められるなんてこと、滅多になかったからびっくりしちゃったの。悪く思わないで?」

「あら!そう?嬉しいわ。私もそんなこと言われるの久しぶりよ。あなたはどちらまで行かれるの?」

「広島よ」

「そう。それなら途中まで一緒ね。私は福山で降りるの。長旅の友ができるなんて素敵なことだわ。袖振り合うも他生の縁。この出会いに感謝します」

 老婦人は右手で十字を切り、指を組み合わせた。

「素敵な十字架ね。あたしもおばあさんと一緒に旅ができて嬉しいわ。一人じゃ退屈ですもの。これから広島までずっと黙っているのも寂しいと思っていたところなの」

 それを聞いた老婦人は嬉しそうだった。彼女も長旅をずっと黙って過ごしているのは嫌だったのかもしれない。

「私の両親は熱心な基督教徒キリシタンだったわ。主人は仏教徒だったのだけれど、私は子供の頃から基督キリスト様を信じているの」

 天のめぐりあわせか、偶然か必然か。これも何かの縁だと二人は喜んでいた。二人の旅は安泰だと思われていた。しかしその裏に何か邪なものが渦巻いていることを、二人はまだ知らない。

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