海の見える場所

夏場

第1話

高校3年生の時だった。

自分の中で始めて芽生えた衝動。恋とはつまりこういうことなのか、と理解した。

漫画やアニメの恋愛ものをいくら見ても、ずっとそれに共感することができなかった。

周りより少しばかり高い身長、白い肌に綺麗な長い黒髪、小さい鼻がポテっとあって、リスみたいな大きな丸い目は、その暗闇が、吸い込むようにグッと惹きつけてきた。

スラっと伸びた鼻だったり、彫刻みたいな横顔だったり、透き通るような綺麗さ、というよりかは、ただ可愛かった。

「初めまして、志野結衣、と言います。これからよろしくお願いします」

転校生の彼女は、そう挨拶してから、担任が用意した席に行った。

窓際、一番奥の席から横に数えて、2番目の席。

澄月の横の席に結衣は座った。

結衣は、澄月をチラッと見た後、これからよろしくね、とパッと笑った。


それから1限の現代文の授業が始まっても、澄月はまるで集中できなかった。

ずっと胸が高鳴って、横を気にしまう。

ただ、認めたくなかった。

これがもし恋という感情だとしたら、自分は同性愛者だった、ということに気づきたくなかった。

「今日も前回の続き、森鴎外の舞姫についてやります」

教師はそう言って、教科書を開きながら、結衣の存在に気づいた。

「あれ、転校生だよね?」

教師がそう言うと、結衣はコクっと頷いた。

「舞姫について、今この授業では、豊太郎がエリスをドイツに残して帰国する最後の場面なんだけど、あなたがいた学校ではどこまで進んでた?」

「確か、同じくらいの進行具合だったと思います」

結衣がそう言うと、教師は、じゃあ問題出しちゃおうかな、といたずらににやけた。

「豊太郎が何故、結局エリスを置いて帰国にはしったのか、前回の授業の最後に考えたんだけど、豊太郎を最後にそう動かしたのは、つまりなんだと思う?」

教師はそう言って、まぁ答えなんてないけどね、と続けた。

結衣は少しだけ黙ってくうを見つめた後、多分、と呟いた。

「豊太郎は、ずっとエリスに恋をしていたから、最後に帰国を決断したのだと思います」

その時、教室に、クスクスと少し笑い声がした。

教師は、結衣がそう真剣に言うもんだから、なるほどな、と頷き同意した。

「いや、これは不正解じゃないぞ。豊太郎は酷い奴だとか、結局最後は自分のために見捨てたとか色々な意見があったけど、こういう考え方もあるからな」

教師はそう言うと、結衣に、ありがとうと言って授業を続けた。


授業が終わった後、女子の一部が結衣の回りに集まって、賑わっていた。

澄月は、結衣が楽しそうに話しているのを横目で見ながら、ただやり過ごした。

その日、学校が終わり、何人かが結衣に、この後一緒に帰ろう、と声をかけたが、結衣は、私の家少し遠いから、と断っていた。

教室から、徐々に人がいなくなる中で、結衣は席に座ってただ本を読んでいた。

いつもは一人、すぐに教室を出る澄月も、結衣の存在が気になって、ただうろちょろと歩き回りながら教室に残った。


やっと、教室は2人だけになった。

澄月は、結衣をチラチラと見ながら、とっくに綺麗になっている黒板を再度黒板消しで拭いてみたりしていた。

そうして、静寂がまたずっと教室に流れて、澄月はもう教室を出ようかと思った。

「澄月、ちゃんだよね?」

結衣は、いつの間にか本を読むのをやめて、澄月を見ていた。

「え、あ、うん。そう」

澄月は、また平静を装いながら答えた。

「誰か待ってるの?」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど、一応まぁ仕上げに掃除しとこうかな、って」

「私も手伝うよ」

結衣はおもむろに立ち上がって、澄月の横で黒板消しで一緒に拭き始めた。

澄月は、自分では手の届かない高さまで拭いている結衣をふと、羨ましく思った。

「結衣ちゃん、身長高くて羨ましい」

呟くようにそう言った澄月は、すぐにハッとした。

「あ、別に、そういう嫌味とか、全然そういうのじゃないからね」

慌てている澄月を結衣は横目でクスっと笑って、わかってるよ、と優しく言った。

そのまま、黒板を消している結衣を澄月は、ずっと眺めていた。

「家ってどの辺にあるの?」

澄月は、それとなく聞いてみた。

結衣は黒板を消しながら、遠いよ、と言った。

「海の見える場所」

「え?」

「海の見える場所に一人で住んでる」

それを当たり前のように、結衣は言った。

澄月は、その先を聞くか躊躇った。

そうやって澄月が躊躇っているのを見た結衣は、そのまま黒板を消すのをやめた。

「親とかどうしているのって思ったでしょ」

結衣はまた、ジッと澄月を見た後、奥の方に行って黒板を消し始めた。

「私ね、小さい頃に母親を亡くしてて、父親とずっと一緒に暮らしてたんだよ」

結衣はまたそうやって話すもんだから、澄月も、またそのまま、黒板消しを動かした。

「でも、お父さんさ、お母さんが死んでから、毎日お母さんのことずっと嘆いていたの。四六時中お母さんのことばっかり」

キュッキュッと、黒板消しがただ黒板に擦れる音がしていた。

「だから私それが嫌になって、逃げ出してきちゃった」

結衣はそう言って、こんぐらい綺麗になればいいよね、と続け、黒板消しを置いた。

「こんな話ごめんね。聞きたくなかったでしょ」

結衣はまたそう言って、足早に自席に戻ってバッグを取った。

「あ、待って」

澄月は、そのまま結衣の後姿に声をかけた。

「私も、お母さんを亡くしてる」

結衣は、一瞬、え?と発した後、すぐに黙った。

「私も小さい頃にお母さんを亡くしてて、そっからおばあちゃんに育ててもらった」

結衣はただ、そうなんだ、と呟いた。

「私達、嫌なことがなんか似てるね」

結衣がそう言って、バッグを肩にかけながら、笑って澄月を見た。

澄月もまた、胸が高鳴って、自然に笑みが溢れた。

蛍光灯の白光がやけに明るい教室は、薄暗い外の夜とは対照的な温度だった。



それからの2人は早かった。

あの日、互いの秘密を打ち明け合った以降、1か月も待たないうちに、段々と仲良くなっていった。

放課後、2人で最後まで教室に残って、他愛もない話をしては盛り上がった。


季節はどんどん流れて、7月も下旬となった。

夏休み前、地元の小さなこの高校でも、教室はそれとなく、大学受験の雰囲気になっていた。

外の蝉がずっとうるさいその日、2人はまた放課後の教室に残っていた。

「そういえば、結衣は受験するの?」

結衣の前の席の椅子に立って寄っかかりながら、澄月は言った。

「一応、しようかなって思ってる」

結衣は、奨学金も借りて頑張ろうかなって思ってる、と続けた。

「澄月は?」

澄月は少し考える素振りを見せた後、どこかの専門学校行こうかな、と返した。

澄月は、この先も、結衣と一緒にいたいということは言えなかった。

それも、結衣はとても頭が良くて、澄月は結衣と到底同じ進学先を選ぶことはできないのはわかっていた。

澄月はふと、窓の外に目をやった。

夏の空は、18時になってもまだ明るいままだった。

「ねえ、結衣、今日とか結衣の家行っちゃだめ?」

澄月は、今まで言わなかったことを結衣に言ってみた。

結衣は少しびっくりしたような表情をした後、またすぐに笑顔になって、いいよ、と言った。

そのまま、二人はいつもより早い時間に、教室を後にした。


学校の最寄り駅から、電車で1時間くらいかけた鳩里という場所に、結衣の家があった。

アパートの一室、1Rの部屋はこじんまりとしていた。

「ここ、景色だけはいいの」

結衣がそう言って、白の花柄のカーテンをパッと開けると、目前は、広い海が広がっていて、また長い砂浜がずっと伸びていた。

「ほんとだ。綺麗」

澄月がそう呟くと、結衣は少し嬉しそうな顔で、そのままキッチンの下の戸棚からおかしとコップ、冷蔵庫からりんごジュースを持ってきた。

「食べよ」

結衣は、そのまま部屋の真ん中のテーブルにそれを無造作に置いた。

窓をそのまま開けていて、部屋には潮風が時々入ってきた。

「ポテトチップスが、いつもよりしょっぱい気がする」

「絶対気のせいでしょ」

二人は笑って、また一枚ずつそれを取った。

澄月は、ずっと胸が高鳴っているのが自分でずっとわかっていた。

ただ、この気持ちを結衣に伝えてしまえば、もうこの関係性が終わってしまうのが怖かった。

「澄月、ポケベル語って知ってる?」

「ん?なにそれ」

結衣がチョコレートマフィンのお菓子の包み紙を開けながら、澄月を見た。

「お母さんがまだ生きていた時に、私に教えてくれたんだよね」

結衣はマフィンを口に入れて、窓の外の海を眺めていた。

「ポケベルっていうのが、お母さんが私達ぐらいの時に流行ったらしくて、それでポケベル語ってのがあったらしいんだ」

「へー。聞いたことないかも」

「それで、ポケベル語ってのが言いたい事を全部数字で表すものらしくてね」

結衣はそう言うと、ふと、じゃあ問題ね、と続けた。

「サンキューは、ポケベル語でなんて言うと思う?」

「え、なんだろう」

澄月は、そのまま押し黙って少し考えた。

そのまま答えが出ないままの澄月を見て、結衣は、時間切れ、と笑った。

「正解はね、999。9が3つでサンキューってことらしいよ」


潮風がまた、ひゅーと部屋に入ってきた。

澄月は、自分の髪が潮風でべた付いているのがわかった。

「ねえ、結衣。愛してるってポケベル語で何て言うの?」

結衣は、一瞬考えた。

「そういえば、お母さんが死ぬ前に私に言ってくれたな。確か…14106だったかな」

「そうなんだ」

澄月は、胸がずっとうるさいまま、もうそれを隠すことはできない衝動で苦しかった。

「ねえ、結衣」

澄月は、結衣をグッと見た。

結衣は、ん?と澄月を見て、澄月が何か言いたそうにしていることに気づいた。

「どうしたの?」

「私、結衣のこと14106」


結衣は一瞬、え、と言った後、あぁありがとね、と続けるように笑った。

澄月は、結衣の手を衝動的にまたグッと掴んだ。

「友達としての、じゃない。恋人としての」

結衣は、掴まれた手をほどかないまま、そのままスッと黙った。

海の向こうから、船の汽笛が大きく鳴って、それが部屋に響いた。

澄月は、急にふと我に帰って結衣の手をパッと離した。

「あ、ごめん。ごめんね、急に気持ち悪いよね、何やってんだ私」


結衣は、ふと、32と呟いた。

え、と顔を上げた澄月が結衣を見ると、結衣は笑って、ミートゥー、と言った。

「え、え、結衣も?」

「私も、澄月が好き」

結衣はそう言うと、そのまま、澄月の頬にキスをした。

澄月は心臓がバクバクして、それとともに、ずっと大きい喜びで満たされてるがわかった。

二人は互いにグッと見て、そのまま見つめ合った。

そのまま、今度は唇を重ね合った。

澄月は、自分の頬に触れる結衣の髪もまた、べた付いていることがわかった。

澄月は、キスだけじゃ満たされない感情になって、また結衣を見つめた。

「ねえ、澄月って、その…処女?」

澄月は、うん、と呟くと、結衣も、私も、と言って、澄月の制服を脱がしてきた。

「女の子同士のセックスってどうやってやるんだろうね」

澄月も、また勢いのまま、結衣の服を脱がしながら無言にした。

気付けば外も薄暗くなっていて、2人は下着姿のまま、より近くで重なるようにして、互いを認識した。

そうして、二人は交じり合った。

「これで正解なの?」

「わからないけど、私達なりのやり方でいいよ」

澄月は、そうしていく中で、ずっとこの時間が続けばいいと、そう思った。



やっと夏休みに入ると、ある日、2人は海に行った。

それも、結衣の家の前の海じゃないとこに行こう、ということで、少し遠出をした。

結衣は、真っ白のワンピースに、麦わら帽子を被って、いかにもアニメやドラマのヒロインみたいだった。

綺麗な黒髪が横に流れ、ワンピースが風に靡いて、その白の長い足が時折見えたりした。

「結衣、そんな恰好してくるなんて聞いてないよ」

澄月は、ちょっとからかうようにそう言うと、結衣ははにかんで、澄月に見せたくて、と言った。


そのまま、砂浜の場所で、座って、近くのコンビニで買ったアイスを舐めた。

「海になりたいなぁ」

目前に広がる海を見て、結衣がチョコレートアイスをペロペロと舐めながら、言った。

夏の日差しが反射して、海は所々でキラキラと光っていた。

「海って、見てると気持ちよくなれる」

結衣のその言葉に、澄月は、思わず、どういうこと?と笑いながら返した。

「海ってさ、広くて綺麗で光ってて、嫌なこととかあっても、見てたら全部忘れさせてくれるじゃん」

澄月も、バニラアイスに夢中になって、から返事で、そう?と返した。

結衣は、そんな澄月を一瞬見てから、フフっと笑った。

「そうだよ。だから私がもし死んだら、その時は、遺骨は海に撒いてもらうことにしてるの」

結衣は、そう言った後、これは私と澄月だけの秘密ね、と続けて笑った。

「次は、澄月の番だよ」

澄月は、わざとらしく、えーと言ってみた後、私の秘密かあ、と呟いた。

「私って、あかりって言うじゃん」

「うん」

結衣は、アイスが溶けて下に落ちるのを防ぐように、必死に舐めながら相槌をうつ。

「これお母さんが付けてくれた名前らしいんだけどさ、澄って字、サンズイが入っているじゃん」

「うん、あチョコレートやばいかも」

「ちょっと、結衣、真剣な話」

バニラアイスが残り半分になった澄月は、むくれたように結衣に言った。

結衣は、ごめんごめん、と笑って誤魔化しながら、またアイスをペロペロと舐めた。

「これ、どうやら名前につけるのは縁起がよくないらしくてさ」

「そうなの。初めて知った」

「らしいよ。で、お母さん死んじゃった後、おばあちゃんが、あの子は学がなかったからこんな名前をつけたんだって、ずっと言ってた」

澄月は、そう言い終えて、アイス棒に残った最後の部分をかじった。

結衣も、残りの部分を一気に口に放り込むと、口から冷たいのを逃がすように、はぁーと息を出した。

結衣のその唇がチョコレート色になっているのを見て、澄月は笑った。

結衣は、それをやっと飲み込んで、笑っている澄月を見た。

「私はそうは思わないけどな」

結衣は、そのまままた海を眺めながら言った。

「澄って字、澄み渡るって意味もあるでしょ。とっても素敵で綺麗な字だと思うよ」

結衣は、ただ普通にそう言った。

「サンズイがどうとか、関係ないよ。少なくとも、私は澄月の字、超好きだな」

結衣は、ふざけた口調で、そう言って笑った。

澄月は、どこか胸の中に積もった雪が、結衣の言葉とこの空気によって、少しだけ溶けたような気がした。

その日も、夜までずっと二人でいた。



「澄月、次の講義行くよ」

友達の声が、ぼぅっと空を見ていた澄月の意識を戻した。

友達の後を追いつつ、澄月は次の講義の教科書を取りに、ロッカーに急いだ。


ふと、澄月は、メールを見た。

まだ、返信を先送りにしている人に名前の中に、結衣と表示されていた。

「そういえば、結衣と全然会ってないや」

卒業以降、あれから、澄月は専門学校、結衣は第一志望の東京の大学に進学したため、互いの生活リズムは、もう全く合わなくなっていた。

それぞれの日々を過ごす中で、最初のうちは会う事はなくとも、メールや電話だけは定期的にしていた。

しかし、それもいつからか、やりとりが少なくなっていった。

朝に、おはようと送って、夜は、おやすみと送る。

卒業前に二人で決めたその約束事も、最近はもうやらない日も多くあった。


その日、帰りの電車を待つ中で、澄月は結衣に電話をした。

「ん?澄月、どうしたの?」

電話先の結衣は、明るい声だった。

「あ、伝えたいことがあってさ」

「なに?」

結衣は次の言葉が中々出てこないまま、なんとか吐き出してしまおうとした。

「結衣、もう私達、別れない?」

「え」

澄月は、電話の向こうで、明らかに結衣の声が低くなったのがわかった。

「私達、もう全然会えてなくてさ、もう互いに日々を過ごす中で、そっちの方がいいかなって」

電話先の結衣から、何も言葉はなかった。

ただ、澄月も、そのまま結衣の言葉を待った。

「わかった。澄月がそうしたいなら、そうする」

そう言った結衣の声は、泣きながらなんとか漏らした声だった。

そのまま、また無言の時間が流れて、結衣がスッと息を吸うのが聞こえた。

「でも、これだけ言わせて。私は結衣のこと、今でも、ずっと好き。愛してる」

結衣のその声は、もう澄月への諦めを含んでいることを澄月はわかっていた。

「ねえ、結衣。これからは、友達としてまたいいかな?」

澄月は、この会話から逃げるように、もうさっさと終わらせてしまおうとした。

それから、結衣の返答までは、10秒くらいの間隔が空いた。

「もちろんだよ。友達として、ね。よろしくね」

「うん、それじゃあ」

澄月は、通話のボタンをそのまま切ろうとした。

「あ、澄月」

「ん?」

「あ、いや。なんでもない」

結衣は、何か最後に言おうとしていたが、もう澄月はそれを聞くまで待つこともなかった。

「それじゃあ」

「うん、それじゃあね」

結衣が最後にそう言った声色は、ずっと泣いていたけど、もう吹っ切れたみたいだった。

澄月は、乗るはずの電車を一本見過ごしてしまって、次の電車を待つ時間、ずっとホームに立ったまま、ぼうっとしていた。



一昨日からずっと降る雨は、また一層強くなって傘を強くもってないといけないほどだった。

「いよいよ、今年も終わりますね」

横切った家電量販店のテレビから、そんな会話が聞こえた。

クリスマス、年末、お正月、世の中は楽しいイベントに溢れていたが、澄月はどこかそれを俯瞰しながら見ていた。

何か、ずっと心にあるわだかまりが、へばり付いて離れないまま、今年がもう終わろうとしていた。

「帰ろう」

澄月は、また傘を持ち直して、そのままその場を去ろうとした。

「では、次のニュースです。今日未明、千葉県の鳩里峠付近で、一人が海に流され、行方不明になっているということです」

グイっと服を掴まれたように、澄月は急停止して、その中継映像を見た。

大きな4Kのテレビ画面に移るその海は、雨に打たれて、勢いよくしぶきをあげていた。

「鳩里峠、結衣の家の海だ…」


澄月は、大きな白文字のテロップの「行方不明」という文字が、とても不安になった。

「まさか、まさかそんなわけないよね」

自分に言い聞かせるように、そう呟いてみた。

しかし、ずっと鼓動が早くなる中で、何故かとても嫌な感覚だけがずっとしていた。


澄月が持っていた傘は、いつの間にか路肩近くの草木に放り投げられていた。

そんなわけない、そんなわけないから、と澄月は永遠に自分の中で唱え続けた。

急に、ザァッと、また一段と雨の勢いが増した。

澄月は、震える手で、すぐに結衣に電話をかけた。

しかし、ずっと呼び出しの着信音がなるばかりで、結衣は一向に出る気配はなかった。

10回目の呼び出し音が鳴った瞬間、そのまま傘も放ったまま、澄月は駅に向かって走った。



澄月の髪が雨に浸って、髪先から下に雫がぼたぼとと流れていた。

結衣のアパートの前。

衝動的に、ここまで来ていた。

鳩里峠にはパトカーや救急車が来ていた。

アパートの前、警察に事情を聴取されている男性を澄月は見つけた。

「あの、あの、志野結衣の、お父さんですか?」

澄月は、そう言って男性の前に駆け寄ると、その人は少し驚いた様子で、はい、と答えた。

「あの、結衣は今、部屋にいますか?」

結衣の父親は、澄月を見て、急に下を向いて黙り込んだ。

急激に、澄月は自身の心臓の鼓動が早くなるのがわかった。

「志野結衣さんの、ご友人の方ですか?」

黙りこむ結衣の父親の横で、警察は、澄月を傘の中に入れて、落ち着いた口調でそう言った。

澄月は何も言わず、ただ頷くと、警察は結衣の目を再度グッと見た。

その瞬間、バクバクバクバク、と心臓が一気に早くなったのを澄月は抑えることはできないまま、そのまま何度も嗚咽した。

「結衣が、結衣が流されたわけではないですよね?ね?」

警察はそのまま、何も言わずただ黙りこんだ。

「ねえ、なんか言ってくださいよ。そんなわけないですよね?」

警察は、半狂乱してそう言う澄月を見て察したのか、ちょっと落ち着きなさい、と澄月を必死になだめた。

「ねえ、嘘だよね」

警察は、やっと焦点が合った澄月の目から、溢れんばかりの涙が零れ落ちるのを見て、少しひるんだ。

結衣の父親は、澄月に向き直してから、これ、と枯れた声でスマホを出した。

「これ部屋にあって、ロック番号がわからなくて、何かスマホに書いてあるのかなと思って、結衣がどうして海に行ったかわからなくて」

途端に泣き崩れた父親から、強引にスマホを取った澄月は、その電源を入れた。

壁紙は、いつか一緒に違う海に行った日の、澄月と結衣が笑ってピースをしている写真だった。

「結衣…」


5桁のロック番号。

結衣の誕生日、3月14日。00314。

違う。

「ねぇ結衣のお父さん、誕生日はいつ」

結衣の父親は、澄月の言葉をまるで聞いてないみたいにずっと泣いていた。

澄月は、それを見てもう言葉を抑えることができなかった。

「あんたがそうやってずっと泣いてるから!結衣はいなくなったんだよ!早く答えてよ!」

警察は、思わず、澄月に向かって、こら!と大きな声で怒鳴った。

結衣の父親が顔を上げると、泣きじゃくった顔で、8月31日だよ、と言った。

00831。

その瞬間、パッとスマホが開いた。

ロックが解けたスマホの画面に最初に映ったのは、澄月と結衣のメール画面だった。

「え」

見ると、結衣が打とうしてやめたであろう文字が、未送信となって残っていた。

なんだろう。

数字だった。

11014。

澄月はとっさにポケットからスマホを出して「11014、ポケベル語」とネットで検索した。

スマホは雨に打たれて、その画面が歪んだ。

水滴を手で一気に払うと、文字がくっきりと写された。

画面に大きな黒文字があった。


「11014 会いたいよ」



澄月はそのまま、海に向かって走った。

澄月は、後ろの方向で、警察が自分を呼び止める声がしていても、それでも全力で走った。

「結衣、結衣、結衣」

走りながら呟いて、雨の粒が口一杯に入ってとても苦かった。

瞼から水滴がこぼれ落ちて、前が見えなくなっても、ただ走った。


砂浜、海にきた。

海は大きく荒れて、波同士が打ち付け合う轟音が響いていた。

「結衣!」

精一杯の大きな声で、叫んだ。

「こら!危ないからそこ、女の子、離れて!」

警察や救急隊が、澄月に向かって大きく叫んだ。

しかしそんな声も、もう澄月には聞こえてなかった。

「結衣!結衣!結衣、返事してって、結衣!」

その時、澄月は、急に海の遠く真ん中に人がいるような気がした。

「ねえ、結衣なの?結衣でしょ?」

それは段々と濃い残像となって、やっと人の形すべてができあがった。

いつかの真っ白のワンピースを着た、結衣がこっちを見て笑っていた。

「結衣だ、結衣だ」

澄月は、結衣の方向目指して駆けていく。

救急隊がそれを見て、また澄月の方に走った。

結衣の姿が段々と薄くなって、そのまま最後にはにかんだ後、遠い水平線の方に歩いていく。

「ねえ、結衣。待って。行かないで。私も会いたかったよ!」

ザバッザバッと波に入っていく澄月は、ずっと結衣を追いかけようとした。

「こら!何やってんだ!!君!」

救急隊は、怒りに満ちた声で、澄月の体をグワっと掴んだ。

「やめて!離して!」

結衣がどんどんと向こうに歩いて、薄くなって消えていく。

「離せ!離せ!」

声を精一杯枯らして、全ての力を使っても、そのまま澄月を抑える救急隊の力は強まった。

おい!と叫ぶ救急隊の怒号は、荒れる波にすぐにかき消される。

「離せ!掴むな!離せぇ!」

水平線の全体に雨が打たれて、しぶきに変わって結衣の姿がもう、見えなくなっていく。

「結衣!結衣!」

澄月の顔は雨と涙でぐちゃぐちゃになって、もう自分自身が今何をしているかすらわからないほど、狂ってしまっていた。

「うあああああああああああああああああああ」

そのまま、救急隊に背負われるように、澄月は砂浜の方に引き戻された。

雨はその勢いをさらに強めながら、波とずっとぶつかりあっていた。




夏、蝉がずっとうるさいぐらいに鳴いている。

「うん、大丈夫」

それなりに化粧をして、笑顔をつくった。真っ白のワンピース。麦わら帽子。

鏡に移った自分はそんなに似合ってなかったけど、もう大丈夫だった。

澄月はそのまま、電車に揺られた。


海についた。

鳩里峠。

そのまま靴を脱ぎ捨てて、砂浜を駆けて、波打ち際にきた。

ザパーンと、足元に波が打ち付けては、戻っていく。

海全体に、日差しが反射してずっとキラキラしていた。

澄月は息を沢山吸って、水平線のもっと遠くを見た。

「結衣ーーーーーーーーーーー」

そう叫んだ澄月に、遠くの人の視線が一斉に向けられた。

「1!0!5!6!1!9!4!」

澄月は笑って、水平線の方におもいっきり麦わら帽子を投げた。

風に揺られて、麦わら帽子は飛んでいく。

また、澄月はもっと向こうへ駆けていった。


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