スキュラ

るつぺる

本名

 倖田スキュラは思った。どうして私はスキュラなんて名前なんだろう。倖田スキュラは自分が倖田スキュラでなかった世界を夢想する。たくさんの草花がひしめきあって鳥や虫たちが穏やかに飛び回っている。倖田スキュラは倖田スキュラではないのでそのような優しさを絵に描いた世界でも溶け込むことができた。そこに一羽のヤンバルクイナが訪れて「スキュラさん、こんにちわ」と囁いた。反射的に撃ち落としてしまった。種の保存法は敗北する。私はスキュラじゃない。そのあまりにも悲しい叫び声は世界に響き渡りあらゆる生命を死に絶えさせてしまう。倖田スキュラはこの荒地と化したかつては優しさだった世界に一人になってしまった。慰めるやつはもういない。

 現実に立ち返った倖田スキュラは市役所へと向かった。仕事で必要だと嘘をついて住民票の写しを発行する。そこには倖田スキュラと記されていた。倖田スキュラは国からも自治体からも倖田スキュラであることを宿命とされていたのである。ねえ、スキュラ。どうしてあなたはスキュラなの。心のキャピュレット家令嬢ジュリエットが倖田スキュラに問うた。反射的に撃ち落としてしまった。最愛の者を失い嘆き哀しむロミオを見かねてハヤタ隊員は問うた。

「なぜ人間の生命を奪った」

 バルタンは答えた。

「生命トハ何カ」

 倖田スキュラはもうこんなことを何年も繰り返してきた。現実の倖田スキュラは名前以外になんの特徴もない所謂どこにでもいるような誰かだった。ゆえにスキュラというような突飛な本名は彼女には重すぎた十字架。よって彼女は内的世界でどんどんとスキュラっぽさを追及し体現することになった。幾度となく構築されては崩壊するスキュラ次元の中で唯一生存し続ける彼女はプレインズウォーカーだった。時渡りを駆使し次元から次元へと移動できる無二の存在。何度滅びても彼女だけは絶対として在り続けた。それがスキュラっぽいのかはともかく。


 倖田さん……倖田さん……

 遠くのほうから呼び声がする。インスマンスだろうか。その声は次第に大きくなった。

「倖田さん! ちょっと!」

「はっ はひーーーーッ」

 倖田スキュラは飛び起きた拍子に口元からひいた涎の糸を遠心力に従って呼びかける声の主にパワーウィップしてしまう。上司だった。

「仕事中に居眠りするなんていい度胸だね!」

「す……すみません」

「これ! 明日まで整理しといてね!」


 倖田スキュラは皆が帰った後もひとりオフィスに残って資料整理に追われていた。疲れていた。もし自分がスキュラなんて名前でなければもっと自信を持てたのだろうか。そう考えたりすると悲しかった。特に不自由はない。まわりも別にそんな自分をからかうわけでもない。ただどこかで自信が持てないでいた。プレインズウォーカーなのに。


 ようやく終わる頃には終電も近づいて慌てて退社した。外に出てみればすっかりと冬の兆しで吐く息は白かった。寒さもあってか空は澄み渡り、田舎の山奥ほどではないにしても星がよく見える夜だった。倖田スキュラ。自分が本当は倖田スキュラなんて妙な名前ではなく倖田幸子であるにも関わらず何かの所為にしなければ自分を肯定できない幸子が生み出した切なさであるところのもうひとりの自分である。倖田スキュラは何かをしてくれるわけではないがそれでも幸子を今日まで助けてきた。幸子は星の輝きに照らされて自らを恥じスキュラに詫びた。おかげで終電を逃してしまう。何事も思うままにはいかないがそれでも世界は回っている。神様、もう少しだけ。タクシーを拾う頃にはまた倖田スキュラであるところの幸子だった。

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スキュラ るつぺる @pefnk

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