鏡を割る
惣山沙樹
鏡を割る
彼との出会いを、あたしはよく覚えていなかったが、彼が繰り返し言うところによると、それは大学に入学したばかりの五月だったようだ。
どんな会話をしたかというのも、彼はしっかりと記憶していた。
「カッコいいね、ってお前から声かけてきたんだよ」
「いきなりそんなこと言ったの? あたしが? そんなまさか」
「そうだったんだよ」
それからは、どこの学部だとか、どんな講義を取っているだとか、月並みなことを話したらしい。そんな記憶はまるで無かったが、彼は余計な嘘をつく方じゃ無いから、確かなのだろう。
あたしと彼はよく似ていた。いや、似ているようで真逆だった。衝動が内に向かうのがあたしで、外に向かうのが彼だった。だから、きっと鏡のようなものなのだろう。鏡はいくら手を当てたとして、向こう側にたどり着くことはできない。
多くの時間を彼と共にしたが、あたしたちが交差することは無かった。ただ、側に居て、共通の友人や、勉強や、音楽の話をした。
「また、手首切ったのか?」
「そっちこそ、校内のゴミ箱蹴飛ばしたんでしょう?」
あたしたちの衝動は止められなかった。年齢と共に落ち着くのかもしれないが、もうすぐ世界が終わるというこの時になってみると、もはやどうでも良かった。
最後の一日を、家族では無く彼と過ごすことを決めたのは、あたしだ。彼のワンルームの部屋に昼間から押し掛け、ありったけの缶ビールを空け、あたしたちはぐでんぐでんに酔っ払った。
「なあ、良かったのか? 最後の日が、俺で」
「もちろん。だから誘ったんじゃない」
「家族とは仲良いんだろう?」
「それなりにね。親子三人で居たいとも言われたけど、あたしの意思を尊重してくれるって」
「そっか」
世界の終わりが何時にやってくるのかは分からなかった。だからこのまま眠ってしまおう。寝ている間に終わってしまえばいい。そう考えたあたしは、勝手に彼のベッドに横たわった。すると、眠りが訪れる前に、彼があたしに覆いかぶさってきた。
「どうしたの?」
「しようか。最後の日だし」
「最後の日だから?」
「そう。そうじゃなきゃ、お前とこうすることなんて無かっただろう?」
鏡が、割れた。
その破片は、あたしの身体中に降り注ぎ、肉を削いだ。
「ねえ、痛いよ。やめて」
「やめない」
彼は至る所に爪を立てた。あたしの皮膚が、赤く染まっていった。どうせこの身体はもうすぐ滅びるのだ。いくら痕をつけられたところで、構わなかった。
あたしも彼も、すっかり服を取り払ってしまい、生まれたままの姿で抱き合った。そうしたのは初めてのことだったのに、まるでその状態が自然そのもののように思えた。どうして、今までそうならなかったのだろう。
彼の肉体は、生きていた。生き物としての温かさがあった。激しくなる呼吸、鼓動。
「挿れるよ」
「待って、ゴムは……」
「要らないだろ? どうせ世界は明日で終わりだ」
それもそうか、とあたしは思った。彼との間に実を結んだとしても、それを産み出すことはできないのだ。それを考えた時、急に寂しさに襲われた。あたしは、彼とだったら、一緒に育むことを夢想できたのに。
「あっ……痛っ……」
お酒で感覚が鈍くなっていたのにも関わらず、喪失の痛みは鋭くあたしの全身を貫いた。悲鳴を何度もあげたが、彼はやめてくれなかった。むしろ、貪欲に突き動かした。あたしは痛みで涙をこぼした。それすら彼は取り合わなかった。
しかし、段々と腹の奥から熱いものがほとばしってきた。これは、あたし自身の熱。徐々にあたしの身体は彼を受け入れていった。遂に鏡の向こう側に手を伸ばせたのだ。そう思った時、ふわりとした快楽が下腹部を包み込んだ。
「気持ちいい……」
あたしのその言葉を合図に、彼は情欲を注ぎ込んだ。
「喉、乾いたな」
「ビールしかないよ」
あたしたちは裸のまま、一つの缶ビールを分け合った。その後、浴室に行き、丁寧に互いの身体を洗い合った。あたしの肌は、いくつもの爪痕で腫れていた。それを優しく彼はなぞった。
シャワーを浴び終わった後も、あたしたちは服を着なかった。バスタオルを軽く巻いただけの姿で、彼はタバコを吸い始めた。
「一本、ちょうだい」
「いいけど、吸ったことあるの?」
「無いよ。でも、最後だから」
あたしは彼に火をつけてもらい、タバコを吸った。不味かった。肺に煙を入れることができず、あたしはふかした。吸い殻は、空いたビールの缶に入れた。
「ねえ、あたし、やっぱりこわい」
「俺もだ」
「手を握ってて」
「ああ」
もうすぐ、地響きが起こるだろう。そうしてこの世界は終わる。
「一人じゃなくて良かった」
あたしがそう言うと、彼は柔らかなキスをした。
「俺もそう思ってる」
それから、手を繋いで黙ったまま、あたしたちは終わりが来るのを待つことにした。
鏡を割る 惣山沙樹 @saki-souyama
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