第8話
直樹は息を切らしながら彼女の隣に屈む。
ようやくアキラの居る部屋に行き当たった。
「何を打たれた」
アキラは、ぎっと歯を食いしばり、ゆるゆると首を横に振っている。
興奮剤の一種だろうか。
「……」
壁にもたれて、苦しげに肩を上下させる。一人では動けそうにない様子だ。
「一階からの階段はどっちも火の手が上がってる…けど、お前一人運ぶくらいなら何とかなる」
「いい。…直樹だけなら飛んでいける。私はここで待つから、置いて行って」
ガチャ…と奥の扉が開く音に、二人の意識がそちらへ向く。
資料室から一人の少年が姿を現した。
直樹が立ち上がる。
「まだ子供が…、逃げ遅れか」
アキラが息を呑んだ。
「…あ、っ…ご、ごめん、なさ…ぁ」
「彰…!」
「ひっ、ぅく…ここなら、絶対…お姉ちゃんたちの事が書いてある教科書…あると思って、僕…ごめ…なさ、い」
握りしめたズボンの裾から覗く足が震えている。アキラが壁から身体を起こした。
「その状態じゃ獣化は無理だ。一旦、俺がこの子を連れて出るから、ここで」
「っ…大丈夫、こっちおいで!」
少年はアキラに走り寄り、その首に飛び付いて嗚咽する。
「お願い、直樹。私の目になって」
袖を引き、こちらを見上げるその瞳にはあの時と同じ強い意志の炎が灯っていた。
こういう顔をされると、こっちが折れる以外に選択肢が無い。
「…わかった」
彼女に引っ張られるようにしてジャケットから抜け出す。
4階の廊下、階段、不規則な軌道で周囲を確認する。
ガラスは何処も分厚いが、唯一階段の丸い飾り窓だけ、音の反響が大きい。
彼女の頭上へと舞い戻った。
「しっかり掴まってて。何があっても…絶対手を離さないで。…出来る?」
彰は懸命に泣くのを堪えながら、こくこくと頷く。
深呼吸してから、自身のチョーカーをその小さな両手に掴ませた。俺のジャケット少年に被せ、おんぶ紐のようにして両袖を自身の口に咥えた。
「…行くよ、アキラ(・・・)」
少年の身体が引っ張り上げられる。
その縞模様の背中は少年を乗せて走り出した。
眼前の蝙蝠の動きを追って廊下を駆け抜け、踊り場に出る。
円形の大きな窓を正面に捉えた。
助走をつけ、跳躍する。
ガシャァンッッッッ――――
前足を叩き付けるようにして窓ガラスを突き破り、4階の窓から飛び降りる。
真下には花壇があり、着地の衝撃で色とりどりのアネモネが踏み散らされていく。
突如、バスン、と鈍い音が響いた。
向かいのビルの二階の窓が開いている―――狙撃された。
窓際に二人隠れて何事か揉めているのが見える。
虎は尚も蝙蝠を追ってそのまま駐車場に飛び出し、制御が効かない暴れ馬のように跳ねる。
恐らく音の感じから、ジャケットを掠めただけで弾は当たっていないはずだが、完全にパニック状態だ。
咥えていたジャケットが一台の車のボンネットの上に落ちる。
ガアアアア――――!
咆哮と共に宙に放り出される少年。
その身体を、翼手を広げて受け止める態勢を取りながら人の姿に戻る。
門の外へ走り寄ってきた保育士に少年を引き渡し、その場を離れるように車上を渡り虎の視線を引き付ける。
唸り声を上げながら牙を剝き出しにし、姿勢を低くしたそれが飛び掛かってくる瞬間。
再び上空へ飛ぶ。
虎の頭上を旋回した後、先程の狙撃者の元へ飛んだ。
「てめえ馬鹿か!ありゃどう見ても子供が乗ってただろうが!人間殺す気か!」
「知るかよ!なんでガキが居るんだよ!話が違うだろうが!」
「おい」
「ヒッ」
窓の縁に足を掛けた状態で、二人の男の片腕をそれぞれ掴んで全体重をかける。
そのまま窓の外へ引っ張り出され、落下する男達に一言だけ残して飛び立つ。
「一々…邪魔をするな」
二人分の悲鳴は下の植え込みに吸い込まれていった。
一度俺の姿を見失ってぐるぐると辺りを見回していたアキラがこちらに気付き、向かってきている。
再びその視界へと躍り出た瞬間。
「アキラお前…!」
旋回した視線の先に、目を見開いた翔が映る。
しまった、このタイミングで――――、天地が逆転したまま咄嗟に人の姿をとり、叫ぶ。
「こっちに来るな!」
虎の意識は既にそちらへ向いている。
「!」
身体を捻りながらボンネットの上のジャケットを拾い、闘牛を躱すかのようにアキラの視線を覆った。
その勢いだけが殺しきれず、背後の翔を巻き込んでそのまま吹っ飛ばされる。
蝙蝠の姿になり、二人の間を抜け出したが――――間に合わない。
近隣住民たちが悲鳴を上げてその場から散り散りに逃げ出す。
そこへ翔を叩き付けるようにして虎が着地した。
翔の上半身を抱え込む姿勢で虎の目の前に腕を突き出す。
世界が止まったかのような錯覚。
正面から見据えた彼女の目は、元の冷静さを取り戻していた。
「―――――」
「……―――――いい子だ、アキラ」
気絶している翔の頭をそのまま地面に降ろし、ジャケットを掴む。
虎の目を見つめてゆっくりと瞬きをして見せながら距離を取る。
俺の背後の群衆を見て、どう動くべきか指示を待っているようだ。
「虎が人を襲ったぞ!虎の獣化種が、人を襲った!!」
ここぞとばかりに訓練生の拘束を振り切って、外に転がり出てきた石割が声を張り上げる。
次から次へと邪魔が入る。舌打ちしたくなる気持ちを抑え、周囲にも聞こえるように声のトーンを上げた。
「この虎が人を襲うなんてことはありません。万が一、彼女が人を害する事があれば、その時は俺が必ず始末します」
ジャケットを叩き、羽織りながら石割代理の方へ向き直る。
「そんなもの、信用できるか!だったら今ここで!そいつを始末して見せろ!」
野次馬達がどよめく。
協会はアキラの希少性を理解しているからこんなにも回りくどい手を使う。
――――ずっとそう考えていたが、この様子では読みが外れたのかもしれない。
協会の前でこんなにも多くの人間達に目撃されて害獣呼ばわりされては取り繕うのも困難だ。
長く、細く、息を吐く。
ジャケットに取り付けたポーチからナイフを抜き、確かめるように回す。
「証明しましょうか」
俺は片膝を立てて屈む。腕を回して顎を持ち上げると、その首元にナイフを当てた。
伏せたまま天を仰ぐようにして、虎は目を閉じる。
ビルの隙間に沈む太陽がやけに眩しい。
「はは…いいぞ、殺せ!」
すると彼女はまるで撫でられている時のように喉を鳴らした。
その手に甘い響きを感じ、思わず反射的にナイフを沈み込ませる。
彼女は英雄になれない―――ならば、いっそ。
フリだけのつもりが、真剣に、そんな考えが頭を過った。
「止めや」
頭上から声が降ってきた。
白い狼が飛び出し、その声の主の腕に咬み付く。
手には日本刀が握られており、その切先がこちらを向いている。
天音森を余裕の表情で振り払うと刀をしまいながら窘めるよう全員の顔を見渡した。
「小さい子供も見とる前で破廉恥やわ、君ら」
「な…!尾裂会長…!何故」
ふと手元を見るとナイフの刃が握り占められている。
アキラの下敷きになったまま、翔がこちらを見上げていた。
「…ぉい、コラ…しっかりしろ、獣タラシ。マジで殺す気かよ」
翔の顔の上に血が滴る。
俺は腕の力を緩め、アキラを解放した。翔の手が力なく滑り落ちる。
「アキラも最悪のタイミングで煽んな…ったく、お前らがそんなんじゃ、おちおち気絶もしてらんねーよ…」
アキラが人の姿に戻り、翔の上に倒れ込む。ぐぇっと潰された蛙のような声が上がった。
「また、わけわかんなくなっちゃった…ごめんね…」
相変わらず呑気な声を出すアキラに対し、その背中をぽんぽん叩きはよ立てと促す翔。
俺達の邪魔をさせまいと正面に立ちはだかる天音森。
そんな四人の様子を見て、尾裂は苦笑した。
「これは確かに歪やねえ?」
野次馬の方へ近付いていき、先程救出された少年に声を掛ける。
「なあボク?あのお姉ちゃんはキミに酷いことしたん?お兄さんに教えてくれるか?」
先生の腕に抱かれたまま、少年はきょとんとしている。
「虎のお姉ちゃんは…悪い事、してないよ!助けてくれたよ!」
周囲の大人にも聞こえるように必死に声を張り上げている。
「だから…お姉ちゃんに…。アキラに、酷いこと、しないで…!」
余程怖かったのか泣き出してしまった。周囲も何事か囁きながらもその様子を見守っている。
「そうかそうか、大丈夫やで、お姉ちゃんには何もせえへんから安心して、な」
少年の頭を撫でてから、よっこらしょ、と立ち上がる。
「皆さん、今聞きはった通りです。お騒がせして申し訳ありませんでした。この通り、消火も進んどりますので、あんまり近付かんようお願いします」
****
――――サイレンの音が鳴り響く。
外部任務に出ていた正規部隊の一部が戻ってきており、警察や消防との連携に追われていた。
どうやら暁明会の関係者の少女が自首したらしく、周囲のビルに潜伏していた連中も軒並み取り押さえられていた。火事の影響で協会の職員や子供達の中に怪我人が出たようで、そちらを優先して病院へ搬送する為、訓練生達は建物内の一角で事情聴取や応急処置を受けながら待機する事になった。
直樹は、乱闘の場に居なかった班の面々に取り囲まれている。
「信じらんない、喧嘩なんて野蛮よ!雛宵君達を殴るだなんて…!」
「そうよ!しかも任務中でしょ?もう部隊配属されるんだからしっかりしなさいよ!」
「そうだな…反省はしている」
八重木や田口、三島達他数名が女子達に叱られていた。直樹と翔を見て全員で頭を下げてくる。
「本当に、すまなかった」
「いい、こっちも悪かった。すまん」
翔が直樹の肩を借りたまま巻き込むようにして頭を下げた。
「雛宵君!大丈夫…?」
「俺は怪我してない、大丈夫だ」
今度は直樹がちやほやと取り囲まれている。肩を借りながらもその状態に不満があるのか翔が
文句を言う。
「そうだぞ、直樹は怪我してない。見ての通りオレの方がボロボロだろ。オレを心配しろ、オレを」
志木宮が割り込んで来て直樹の手を握る。
「何かお手伝いさせて頂けます?」
「いや、無視かよ」
がく、ともたれたまま更に力を抜く。バランスを崩しそうになって少し迷惑そうに翔を見ながら、直樹が志木宮に礼を述べた。
「ありがとう志木宮。翔とアキラが怪我をしてるんだ、応急処置をしたい」
「道具を運んできますわ!」
「私、水取ってくるね」
女子達が我先に期待に応えるべく動き出した。
「やっぱり納得いかねー…」
翔はぐったりと寄り掛かったまま呟いた。
「へん、やっぱり女子どもは遅いな。雛宵、ストレッチャー運んで来たぞ、二人を乗せてやれよ」
「渡辺、ありがとう。助かる」
協会内には簡易の医療設備がある。ガラガラとやかましい音を立てながら、男子達が二台のストレッチャーを押してきた。
「お待たせ―」
「ホレ怪我人、乗れ乗れ」
何故かストレッチャーに乗って運ばれてきた園寺が飛び降りる。
早々に獣化すると、褒めろ!褒めろ!と言わんばかりに直樹の足元に纏わりつき始めた。
またしても直樹は狼の群れに囲まれている。
「いや、やっぱ腹立つな…」
仰向けして台に転がされた翔が悪態をつく。
志木宮達が包帯などの備品を持ってきて、処置を手伝っている。
「大げさじゃない?」
点滴をセットされたアキラが、ガードル台で揺れるバッグを見上げている。
「どうせ搬送されるんだ、この方が都合がいい」
直樹が消毒液や着替えを運んできた。アキラが手渡された患者衣を纏う。それを確認すると直樹は首を指で叩くジェスチャーをして、チョーカーを外せと指示した。
「迷惑かけてごめん。助けてくれてありがとう」
「こっちこそ、悪かった」
アキラがチョーカーを手渡す。
「なんで直樹が謝るの?」
「…さっき、お前を殺しかけた」
周囲では忙しなく職員や警察、隊員達が動き回っている。
「約束、守ってくれたんだよね。それで良かったよ」
「アキラは、自分で思ってる程危険じゃない」
直樹は自身の手を確かめるように握る。
「…俺の方がよっぽど危ない奴だ」
目を丸くしてその様子を見るアキラに対して、自虐的な笑みを見せた。
「直樹でもそんな風に思う事、あるんだね。意外」
「自分でも意外だ」
ぽつりと呟く直樹を見て、アキラは励ますように笑う。
「…いい相棒になりたいな!」
握手を求める手を差し出してくる。
グーでもパーでもない、中途半端に開かれた自らの拳。
迷いながらも彼女の手を掴んだ。
「ああ。よろしく、相棒」
アキラのにっと力強い笑顔が、直樹にもうつる。
二人の様子をぼんやりと眺めていた翔のストレッチャーに手が掛けられた。
「大丈夫か」
咢が翔の様子を覗き込んだ。天井の明かりをその背受けている。翔は眩しそうに目を細めた。
「咢隊長…アンタ何者だよ」
意識がある事にまず安堵した。
「最初から言ってるだろ。俺はただの、施設の飼育担当だ。お前達と同じ、獣化種の先輩だよ」
それを聞いて、翔は胡散臭そうに身じろぎする。
「ワニの獣化種が居たなんて話聞いた事無いんですけど…アキラの時はめちゃめちゃニュースになってたのに…」
「虎は特別なんだ。野生では日本に存在しないからな」
「ワニも存在しないでしょ」
「―――」
咢がほんの少し、口元を歪めた。
「マジ…?」
翔は、俄かに信じ難いといった様子で乾いた笑いをこぼした。
****
天音森が事情聴取を終えて戻って来た。
途中、司令官の姿を見付け、報告完了の挨拶をする。
「お取り計らい頂き、ありがとうございました」
「…何の話だ」
「第一班より伺いました。現行の配属のまま進めて頂ける、と」
「こちらの不手際も発覚したからな。貴様らには無理を強いた、その点は謝罪しよう」
制帽を取り、小さく会釈する。
「今後も任務に励め」
司令官は制帽を被りなおすと踵を返した。
予想していなかった反応に、ぽかんとしていた天音森がその背中を呼び止める。
「兄さん」
足を止め、乃郷は振り返る。まだ何かあるのか、と目だけで問うている。
特に話すべき事もなく、天音森はただ兄を見上げた。
先程までの騒ぎで天音森は血や砂埃で汚れ、髪も乱れたままになっている。
乃郷が眉を寄せ、ポケットに手を入れた。
「後ろを向け」
言われるがままに背中を向けた天音森の髪を、無造作に一纏めにした。
特に飾りのない簡素なヘアゴムで手早く括ると、トンと背中を押す。
突然の事におっとと、とよろめいてから、不思議そうに兄を振り返った。
呆然としながら、雑に結われた髪に手をやっている。
「雅から報告は聞いている。後は仲間に面倒を見てもらえ」
制帽のつばに手を触れ、特に感慨も無く言うとそのまま去って行く。
「…?ありがとう?」
暫くその場で立ち尽くしていた天音森だったが、やがて十三班の面々の元へと駆け出した。
****
玄関口の植え込みの陰に、一匹の蛇が微動だにせず転がっている。
乃郷はそれに近付き、片膝をつく。
「何をしている、カガチ。私の許可なく潰されるな」
一瞬だけピクリと反応するも、蛇はぐったりしたまま仰向けに転がっている。
それを拾い上げた乃郷は、ウエストバッグに放り込んだ。尾の先端がバッグからはみ出し、力なく垂れさがっている。
そのまま協会の門の外へ出ると、その場で尻餅をついている石割を後ろ手に締め上げて尾裂の方を向かせた。
尾裂はまるで子供相手に目線を合わせるかのようにしゃがみ込んで語り掛ける。
「なあ、石割。僕がいつ、虎殺せて言うた?勝手な事しなや」
「ぃぎっ…しかし!虎を部隊に入れるつもりは無いと…!」
「日本に野生の虎が存在した記録は無い。貴重な研究対象やのに殺処分なんぞするわけあらへんやろが。子でも生して引っ込ませるんくらいはええ考えや思たから見逃してやっとったのに…政治絡ませた挙句密猟集団と手ぇ組むんは看過できひんなあ?」
「ぐ…」
「調子乗ったらアカンで。人間風情が。食うぞ」
「ヒッ」
犬歯を剥き出して顔を近付ける尾裂。
その気迫に圧され、石割は自らを庇うように身を縮こまらせた。
「尾裂会長」
「わかっとるわかっとる。はよ警察に引き渡してこい」
乃郷は無表情のまま敬礼し、石割の腕を掴んで立ち上がらせると踵を返した。
「なあ、乃郷。あんたも大概やで。ちゃんと伝える気が無いんか知らへんけど、兄妹揃ってやる事成す事ほんまよう似とってかなんわ…天音森の英才教育も考えもんやぞ」
乃郷は聞こえていないのか、振り返ることなく去っていった。
建物の陰から伊沼が現れ、警察に引き渡される石割の姿を遠目に眺めて言う。
「だから人間を協会に入れるのは反対だと言ったのですよ。この有様…とんだ失態ですね?」
「…ん?何か言うたか、古狸」
尾裂はジロリと伊沼を睨み付けた。
「伊沼ですよ。さすがに耄碌しましたか?」
言いながら協会の建物を振り返る。
火事で焼けた壁は黒い煤に覆われ、中の物は全て焼けてしまっている。隊員達がそこかしこを行き来しており、はっきり確認できないが、ヘリが突っ込んだ渡り廊下はブルーシートに覆われ、酷い有様だった。
「因幡が獣化を見られたようですよ。我々は他の者とは獣の格が違う。貴方も彼も、その自覚が足りないのですよ。……いい加減、不山戯るのは止せ。九尾」
いつもの冷静な様子とは一変し、凍るような視線。
尾裂と伊沼は暫くの間、正面から睨み合う。
「…ハー。嫌やわぁ、イヌマちゃん。そんな怖い顔せんといてえな。何がどう違おうが、人間も獣化種も他の何かて歩み寄りっちゅうの、大事やろ?そう思わへん?」
にっこりと目を細める。
冷めた表情のまま、伊沼が小さく呟く。
「…主のような愚か者を野放しにした己の至らなさについては認めざるを得まいて」
「ほざくな狸、煮て喰われたいか貴様」
尾裂は額に青筋を浮かべて鯉口を切る。伊沼の周囲でざわりと風が巻き起こった。
「止めろ、お前ら」
剣呑な空気を纏う二人の間に咢が割り込んできた。一服する為に抜け出してきたところだったのか、火の付いていない煙草を加えている。
「退け因幡、主に用は無い」
伊沼の瞳孔が細くなる。咢は二人の頭を掴み上げて睨む。
「いい加減にしろ。長生きしただけの子供か?…俺は荒事も、都合の良いように利用されるのも好きじゃないんだ。…嫌な事をさせないでくれ」
「もー…止めや、止め。悪かったてアギちゃん。離してんか、頭割れてまうわ」
尾裂は刀から手を離し、降参とばかりに手を上げて見せた。咢が手を離すとやれやれと言わんばかりに肩とトントンと叩いた。伊沼が恨めし気に咢を睨んでいる。
「…これからはもうちょっと、僕らもお互い仲良うせなあかんねえ?ほれ、下に示しがつかへんし?」
歩み寄るという言葉に反して早々に背を向ける尾裂。
ふん、と鼻を鳴らし、伊沼は前髪とスーツの乱れを直した。
「…貴方がそれを先に示さない限り、難しいですよ」
「可愛げ無いやっちゃな。そないに簡単に割り切れたら、世の中誰も苦しまへんのや」
二人の様子に咢は再び溜息をついた。
地面に落ちた煙草を拾い上げ、火を付ける。
周囲の喧騒をぼかすように、紫煙が空気に溶けていく。
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