ふたたび、フェルディナント・バイエル
今まで書いてきたことは完全な私の<柚木ピアノ教室>における思い出である。
ただの思い出である。
思い出は事実でないあるいは、誇張された事実かもしれない。
そして、今まで誰にも語ったり書いたことのないことを今ここに書き足したい。
このことは、親しい友人にも先生や父母にさえ話したことがない。
こちらの事実のほうが本当にあったことかどうか、私には判断がつかないからである。
火災の前であったことだけは確かだ。
その日は兄も部活やらで私は一人で家に居た。
呼び鈴が鳴った。
なにかを拒絶するようにいや、急いでいるのかたった一度だけ。
私は玄関に出た。
立っていたのは、背の高い女性である。大きなサングラスをし大きな帽子をかぶっている。
長い髪は顔を隠すように横で多くにウェーブしている。
タイトなジーンズに丈の長い高いヒールのブーツ。
「忘れ物よ」
女性はバイエルの教則本を私に押し付けるように渡した。
「急いで帰ったので忘れたでしょ」
この言葉が私を射竦めた。
あのピアノを見たあと、私は取るものも取らずに走って逃げたからだ。
しばらく渡されたバイエルの教則本を見たあと、玄関を見るともうそこには、背の高い女性は居なかった。
あの紅茶の甘い匂いだけを残して消えていた。
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