セプテンバーくん
坂原 光
セプテンバーくん
佐藤楓から電話がかかってきたのは九月のある土曜日の午後、休日だと言うのに職場の先輩に誘われて行きたくもない飲み会に行く時間が十分前に迫っているときだった。彼女は僕の大学時代の友人で、社会人になってからは少し疎遠になっていた。
玄関で仕事用の革靴を仕舞って、休日用のコンバース・ジャックパーセルに履き替えているときにその電話は鳴った。どうせ先輩だろうと舌打ちをしながらスマートフォンを見ると、そこには佐藤の名前が表示されていた。
★
時々、昔見た映画を思い出す。真夜中に目が覚めて、テレビをつけたらその映画が始まるところだった。その映画は面白くもなく、つまらなくもなかったのだけれど、ラストシーンだけが妙に印象に残っている。
お互い好き同士だった男女が、好きであるが故にお互いを想って別れるという話だった。一般的なストーリーでは、多分そんなラストシーンにはしないだろう。最後には希望を持たせるべきだと思っていた。しかし、ある程度年齢を重ねた今なら、そういうラストシーンもありだと思う。たとえフィクションだとしても。
というか、現実にはほとんどそれじゃないのか? どうしてそう思うか? 多分、僕もいまそんな状況だからだと思う。もちろん、映画のシチュエーションとは似ても似つかないわけだけれど。
★
毎日を送っているだけなのに、時々、ふと昔のことを思い出すことがある。本棚の奥で眠っている本を取り出して、久しぶりにページをめくったら、覚えていないメモが途中に挟まっているのを見付けるみたいに。それはずっと前のもので、その本にそんなメモを挟んだことすら忘れていた。
昔のアルバムを見た時みたいな気恥ずかしさで、僕の頭の中を駆け巡る。そういう時って、こちらの都合は無視なんだ。いつだってそれは突然訪れる。仕事中、パソコンとキーボードに向かっているときに、急に大学時代の友人だった佐藤楓のことを思い出したときもそんな感じだった。僕はタイピングしていた手を止める。画面を眺めながら考え事をしている風を装いながら。
★
「聞いてもいい?」
佐藤の声。記憶の中。場所は大学の階段の踊り場だ。季節は……九月の終わりだったと思う。夏の鋭さは少しだけ和らいで、秋の予感を含んだ風が僕たちを包む、そんな季節。うちの大学は九月の終りには授業が始まる。他の学校より早く授業が始まるのだけれど、今年だけは妙な寂しさがあって、早く夏休みが終わって欲しかった。
夏休みが終わって欲しいなんて、今までの学生生活で思ったのは初めてだったと思う。僕と佐藤はよくそこで話をしていた。学生はおろか、教授だってみんなエレベーターを使うから階段を使う物好きは凄く少ない。だから僕と佐藤はいつもここでカップのコーヒーを飲みながら話をしていた。
稀に階段を下りてくる人がいる。その人から見たら、僕と佐藤は付き合っているように見えたかもしれない。もっとも、そういう人に限って、僕たちの事なんか視界にも入れていないで、まっすぐ自分の進む道を見ているんだけれど……。
僕と佐藤は純粋な友達だった。……恋愛感情はあったのか? ……分からない。純粋に、分からないんだ。
「何?」
僕は踊り場にある窓から空を見ていた。この風景を見るのもあと少しだと思うと、訳もなく感傷的になってしまう。僕はどうして夏休みが早く終わって欲しかったのか理解できた。早くここに来たかったんだ。こうやって、ここで佐藤と一緒に。僕は佐藤の横顔を見た。
「来年の今頃、私たち何していると思う?」
いつになく真剣な横顔だ。こういう表情を見ても、純粋な友情は有効だろうか? 彼女のこの表情、この三年半で間違いなく初めて見た。
「何って……そうだね、『くそったれ!』とか、『チクショウ!』って言いながら仕事しているんじゃないかな? 少なくとも僕は全然、金持ちじゃないし、働かないわけにはいかないからね」
佐藤は笑った。彼女はいつもアイスココアを飲むのだが、今日は珍しく砂糖増量してミルクを入れたコーヒーを飲んでいた。彼女はいつもココアを飲んでいた。どんな時も。まれにコーヒーを飲むところは見たことがあったが、そういう時は必ずブラック・コーヒーを飲んでいるから、珍しいな、と思ったこと覚えている。
自動販売機で買うカップは、カフェ・オ・レと呼ぶには、ミルクが少なすぎる。じゃあ、何だ? と問われると困る。それはまるで、今の僕たちの様な気がしていた。そんな行動から、彼女も、この生活の終りを感じ取っていたのでは無いのかと思った。彼女は、直接僕にそんなことを言うってことは無いんだけど、何となく……。
僕と佐藤は就活も終わり、残り短い大学生活を謳歌していた。あーしたいこーしたいと言いながら、結局何もせずただ同じ日が続く。なんとかしなければと思っていたけれど、時間を止めること、そしていつまでも学生を続けることはどう考えたって不可能なのだ。僕も彼女も、時間を止める術は持っていなかったし、仮にそんなことが出来たとしても、それを本当にしたいのかどうかもわからない。
正直に言うと寂しかったんだと思う。甘いと言われればそうだけど、社会に出てなんて、行きたくなかった。それだけ。
「立花は多分、そうだろうけれど……」
僕は壁際から移動して、佐藤の正面を見ることが出来る位置に移動する。いつになく気落ちした声だったから。
「佐藤は違う?」
彼女は僕の顔を正面から見て、そして後ろ向きになる。さっきの僕がそうやっていたように、踊り場にある窓から外を見ている。佐藤と会うのはたしか、二ヶ月ぶりくらいで、彼女は夏休みの間ずっと茨城県にある実家に帰っていたという。
もしかしたら、佐藤と長く離れていたことも、早く夏休みが終わってほしいというのに繋がっていたのかもしれない。別に、僕たちは友達だから、いつ会いに行ったっていいわけだけど、どうしてかそうする気にならなかった。会いたいは正解、でも百点ではない。
僕の実家は千葉県の鴨川だが、八月の半ばに少しだけ帰っただけで、あとはずっと東京のアパートにいた。アパートと、アルバイト先の往復。彼女と僕は今、凄く近くにいるのだけれど、彼女が立っている場所はとても遠い気がした。
「私は……どうだろ、何しているかな……」
彼女は僕と違って優秀で、就活もさっさと終わらせた。ギリギリのギリまで履歴書用の写真を撮りにいっていた僕とは大違いだ。そんな彼女にも迷いがあるのだろうか?
「立花はさあ、こう……本当にやりたいことってあるの?」
あまりこういうことを話したがらない佐藤にしては珍しく、真剣だ。少しナーバスになっているのかもしれない。
「やりたいこと、か……」
僕は高校も大学も特にこれといってやりたいことが有るわけではなかった。自分の学力で行けるところを適当に選んだだけだ。もし、タイムマシンがあって過去の僕に会えるのだとしたら、何も考えなかった当時の僕を殴りに行くだろうけれど、未来の僕だって、今の僕のことを殴りにくるだろうという気がした。
「立花はさ、いつも本読んでいるじゃない? 小説を書くとかはしないの?」
「僕が読んでいるのは詩で、僕は詩人って柄じゃ無いんだ。それに……」
「それに?」
「多分だけど、純粋に孤独じゃないと詩は書けない」
僕のよく分からないつぶやきを聞いて、佐藤は少しだけ微笑んだ。そしてコーヒーを一口飲んで顔をしかめた。少し太めの眉毛と眉毛の間にしわが三本よった。多分、コーヒーが甘すぎるんだと思う。そして、多分、今の僕たちも。
「そっか……」
「なんか、迷っているの?」
「迷っているっていうか……」
「うん?」
「立花はさぁ誰か、もしくは何か……」
その後、彼女は何て言ったっけ?
★
「立花君」
記憶の中の佐藤が僕の名前を呼んだ声と、先輩が僕の名前を呼んだ声が重なった。会社の事務所で、両手がパソコンのキーボード上で止まっているのを見た先輩が僕に声を掛けてきた。僕は深刻な表情を作り、先輩の方に顔を向ける。
「……じっとモニター見て、動かない。どうかした?」
僕は心の中でした苦笑いと記憶をかき消して、なんて言い訳をしようかってことを考えていた。
★
この会社に入って五年、昨日と明日を取り換えても気が付かないような毎日を送っている。この五年間で僕が変わったことと言えば、煙草をやめたこと、そしてスーツを何着か気潰したことくらいだろう。僕は自分にさえも聞こえないため息をこっそりとついた。これも、五年の社会人人生の賜物。糞くらえだ。
★
僕は少しだけ、佐藤の名前が表示されているスマートフォンの画面を見つめる。この間、仕事中に佐藤のことを思い出してから三日とたっていない。偶然にしては出来すぎている気がしたけれど、出ない理由が無い。僕たちは……友達だから。
電話帳に登録だけしてあって、全く使われない名前はいくつかある。社会人になってからというもの、佐藤の名前もそのうちの一つだった。腕時計は、家を出る時間の七分前を指していた。あと少しで家を出ないと、くそったれ飲み会には間に合わない。僕は通話に切り替える。
「今、会えない?」
佐藤の声を聞いたのは、随分と久しぶりだった。大学を卒業してからだから、多分五年とかそれくらい。それまでは画面上でのやりとりしかしてこなかった。そんな会話とは違う、佐藤の声。声を聞いてすぐに思い出した。
記憶のノートは、インデックスがたくさんある。スマートフォンが繋がっているインターネットの検索よりはるかに多く。だけど、そこにアクセスするためのキーをいつも持っているとは限らない。というより、持っていないことの方が多い。
だけど、今日は彼女の声というキーがあった。僕はすぐにそのページを開くことができた。彼女は、『久しぶり』も『今、何してる?』もなく、『会えないか』と聞いてきた。僕はもう一度腕時計を眺めた。時間はあと五分。
「急ぎ……なんだよね?」
「うん。今日しか駄目で、今しか時間が無い」
僕は時計を見る。残り四分三十秒。電波時計だから、間違えようのない確実な時間。
「ちょっと待っててもらえる? すぐ折り返す」
「うん」
僕は急いで電話を切って、先輩に電話を掛ける。
「もしもし?」
「こんにちは、立花です」
「知っているよ、名前が出るから。電話かけてきたってことは、今日来れないって言うんでしょ?」
「……そうです、申し訳ありません」
「彼女?」
「友達です。でも、大事な友達なんです」
「……」
先輩の後ろから駅のアナウンスが聞こえた。多分もう駅に着いているんだろう。申し訳ないと思うと同時に、少しだけ、ほっとしてもいた。
「……また、次回ね。友達によろしく」
「すみません。埋め合わせは今度必ずします」
「……無理しなくてもいいよ」
僕は電話を切ったと同時に大きなため息をついた。最初からこうすればよかったんだ。こうすればよかったというのに、この申し訳なさと残念さはなんなのだろう? それに最後のあの残念そうな声。反射的に掛けなおそうとする手を止めて、頭を振る。
本当にこれで良かったのか? 靴の踵を直しながら、そんなことを考えつつ玄関を開ける。僕の中で佐藤の声と先輩の声が重なる。二人とも、同じ事を言ったわけではなかったのに、不思議と声が重なった。
さっきまでの重かった体は、今では信じられないくらいに軽くなっている。風が吹けば飛んでしまいそうなくらいだ。僕は、ドアを閉めて急いで玄関を閉め、鍵を鍵穴に入れようとした。
「久し振り」
声のした方を振り返ると、佐藤が立っていた。僕は、鍵を閉めたことを確認してから、佐藤のほうを見る。
「本当に、久し振り……」
佐藤の姿見るのは大学を卒業して以来だったはず。僕は何度か会おうとしたけれど、彼女は全然、乗り気じゃなかったから。でも、今この場所じゃなくて、どこかの道ですれ違っても絶対に分かったと思う。それくらい、彼女は変わっていなかった。
変わっていないと言うより、僕の記憶の中にある像と一致した。僕は、どうして彼女と会おうとしなかったのだろうか? 彼女からの連絡を待っていたから?
「急にごめん。ちょっと、話したいことがあるんだ……」
「じゃなきゃ電話してこないよね。どこか行く?」
「煙草が吸えるところ。煙草が吸いたい」
僕は三年前に煙草を辞めた。だけど、吸いたい人がいるのなら喫煙席でまったく問題は無い。昔は僕だって吸っていたんだから。僕は頷いて、佐藤のことを見た。彼女は、紫色の緩い七分袖のシャツに、黒い膝までのスカートを穿いていた。靴はナイキのコルテッツ。女の子と縁の無い生活が長くなりつつある僕には、その服装が年齢相応なのかどうか分からなかった。
「行こ」
佐藤と一緒に、マンションの階段を降りる。大学の時も、エレベーターを使わずにこうやって一緒に階段を降りた。そして踊り場で打ち明け話をする。でも、そんな話は階段を降りると忘れてしまう。……嘘だ。忘れたことなんて、無かった。
一階に降りたところで、佐藤が閉じていた口を開いた。
「なにか、予定あったんじゃないの?」
「ああ……職場の飲み会がね」
「行かなくて良かったの?」
「うん。そもそも今日は土曜日だからね」
僕は佐藤の隣に立って歩き出す。高い家賃を払っているだけあって、今僕が住んでいるところはそこそこの都会だ。五分も歩けば、スターバックスだって、マクドナルドだって、ロイヤルホストだって、ドドールコーヒーだって行ける。僕と佐藤は黙ったまま、他の通行人にぶつからないように歩いて喫煙席のある喫茶店に入った。
「煙草、吸ってもいい?」
「もちろん」
「先に席取っとく」
「うん」
僕は、彼女が大学時代によくアイスココアを飲んでいたことを思い出し、彼女の分のそれを注文した。それと、アイスコーヒーも。言うまでも無く、自分のもの。
商品を受け取ってから、佐藤のいる喫煙席まで歩く間、本当にこれで良かったのかふと思った。僕に五年の時間が流れたように、彼女にも五年分の時間が流れているのだ。好みが当時と同じかどうかなんて、今の僕に分かるはずもない。電話すらできなかった男だ。……友達だというのに。
二人用の席に座って、煙草を吸っている佐藤にアイスココアを渡す。
「ありがと」
「どういたしまして」
「これでよかった?」
「うん。よく覚えてたね」
答えの代わりに、僕は笑う。この感じが、とても懐かしかったから。
「いろいろと聞きたいことはあるんだけどさ、今日は? どうしたの?」
佐藤は吸い込んだ煙を吐き出した。
「いきなり聞く?」
「だって、急いでたんじゃないの?」
「まあそうだけどさ、だって立花と会うのは暫くぶりだよ? 積もる話があるでしょう
「積もる話」
「そう。だってもう社会人五年目でしょ? お互い」
「去年会社を辞めて転職したんだ」
「そうなんだ……」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
砂糖とミルクを貰ってくるのを忘れた。今から取りに行くのもなんだから、ブラックのまま飲む。たまにはブラックも悪くない。
「ところで、佐藤は今何やっているの?」
「実はね、これから実家に帰ろうと思うの」
「今? 仕事は」
「辞めたの」
僕は佐藤を見る。荷物はトートバッグ一つ。
「よく分からないんだけど、今から短い期間実家に帰るの? それとも、もうここから完全に実家に戻るの?」
佐藤はふぅぅーーっと煙を吐き出す。煙の量が多い。彼女は、多分フカシだな。あるいは普段は葉巻を吸っているか、だ。もっとも、誰がどう煙草を吸おうが個人の自由だ。僕はまたアイスコーヒーを飲む。もう半分くらいになっている。
「その話、聞きたい?」
僕は頷く。
「本当に?」
僕はまた頷く。
「立花は私の何?」
「友達」
「電話したのが五年ぶりなのに?」
「会って、まあ会わなくてもだけど、電話でも、会話した瞬間に昔に戻れるってのが、僕が考える友達の基準」
佐藤はアイスココアを少しだけ飲んだ。あの頃のように、とても美味そうに飲む。今すぐカウンターに行って、同じものを頼みたくなるくらいに。
「……昔に戻っているのかな?」
「大学の階段の、踊り場にでも行こうか」
佐藤は声をあげて笑った。久し振りに見たその笑顔には、会わなくなった五年分の月日が滲んでいた。そして、当たり前だけど、僕と過ごさなかった五年の重みが、僕の目の前に差し出された。僕はそれを受け取る自信があるのだろうか?
「そうね、行っても良いかもしれない」
佐藤は、そう言って窓の外を見て、半分以下になった煙草を灰皿で消した。僕は残ったコーヒーを一口で飲んで、グラスをテーブルに置く。沢山残っている氷が、やたらと涼しげに見えた。
「行くはずだった飲み会」
「うん?」
「その、職場の飲み会?」
「ああ……」
「何人で行くはずだったの?」
「僕と、先輩の二人」
「先輩って、男でしょ?」
「ううん、女の人」
「デートじゃん」
「いや、そんなことないよ」
「いや、そんなことあるよ」
「そうかな?」
「その先輩、多分立花のこと好きだよ」
僕は底の方に少しだけ残った、氷が解けて薄くなったコーヒーをストローで啜った。あんまり行儀が良い行為ではないけれど、気まずさの方が勝った。
「僕の話はいいよ。それより佐藤のこと」
「一つだけお願い」
「一つ?」
「うん。もし、もし私とセックスしてって言ったら、してくれる?」
僕はテーブルに置いてある佐藤の煙草に手を伸ばした。そして箱から一本取ってライターで火をつけた。三年ぶりの煙草。予想したより、遙かに美味かった。
「……無理だよ。佐藤のことは死ぬほど好きだけれど、僕は友達だと思っているから」
佐藤は真顔でアイスココアを啜った。多分、もうその飲み物がそんなに好きじゃ無いのだと思う。表情がそう語っていた。あるいは、表情にそう語らせていた。
「……もし、いいよって言われたら、どうしようかと思ったんだ」
僕はどう言えば良いのかよく分からなかった。だから、ただ黙って煙草を吸った。それとも、『どうしてそんなことを聞くんだ?』とでも言えばよかったのかもしれない。煙草が短くなる頃、佐藤が腕時計を見た。
「もうすぐ電車の時間」
僕は頷いて、短くなった煙草を消した。そして席を立つ。席から店を出るまでの間で、僕たちの距離は変わらなかったと思いたいし、今も僕はそう思っている。自動ドアを潜ったら、街の熱気が体の周りを包んだ。
「時間作ってくれて有り難う」
「いや、何も出来ずに」
「ううん、そんなこと無いよ。……どうもありがとう」
僕は佐藤を見た。部屋の前で会ったときよりも、幾分柔らかい表情になっている気がした。
「じゃあ、またね」
「うん……」
佐藤は歩き出す。少しだけ歩いて立ち止まり、僕の顔を見る。
「今からでも、その、先輩に電話した方が良いよ」
僕は、何かを言おうとして、口を開きかけた。佐藤は、そんな僕を見て何かを言った。しかし、街で流れる音楽が急に大きくなり、彼女が何を言ったのかまでは分からなかった。
僕は、何かを言おうともした。でも、その何かが言葉になる前に、佐藤の背中は見えなくなってしまった。立ち止まっていれば、佐藤が戻ってくるかもしれない。そんなことを思った。
でも、そんなことを思ってしまったからこそ、僕はその場から離れざるを得なかった。ポケットから携帯電話を取り出す。そして、さっき電話をかけた番号を、もう一度タップする。
「もしもし?」
「立花です」
「どうしたの?」
「……今日は、すみませんでした」
「ああ……いいよ、正直、そんなに来る気なかったでしょ?」
何と答えようか迷っているうちに、電話口から声が聞こた。
「ほら、何も答えない」
先輩は笑ってはいたけれど、わずかな寂しさが滲んでいた。僕はどうすればいいのだろうか?
「あの、今から、どうです?」
「……用は終わったの?」
「はい」
今度は先輩が黙る番だった。
「じゃあ。ここに来て?」
「はい!」
★
一年後の九月、佐藤から葉書が届いた。彼女の実家のある茨城県の消印だった。彼女はどうやらそこで喫茶店をやっているらしい。去年の九月に会って以来、僕たちはほとんど連絡を取らなくなっていた。
正確には、僕が連絡をしても彼女はあんまり答えなくなった。忙しい、というのがその理由だ。だから、電話でも画面越しでもなく、葉書で連絡が来たときは驚きはしたけれど、納得してもいた。僕たちは、多分、このくらいの距離が丁度良いのだろう。葉書は短い文章だったけれど、楽しんでいるのだろうと想像出来る文章で書かれたそれを見て、僕は少しだけ幸せな気分になった。
僕は、多分今でも佐藤のことが好きだ。でもそれは変な話だけれど付き合いたいとかセックスしたいとかじゃない。ただ単純に、純粋に好きなんだ。彼女と離れた今、改めてそう思う。
僕は玄関で、仕事用の革靴を下駄箱に入れ、休日用のジャックパーセルを代わりに出した。今日は彼女と出かけることになっている。時間にシビアな彼女のことだから、そろそろ遅いと電話が掛かってくると思う。
ほら、電話だ。僕はスマートフォンを通話にする。
「もしもし?」
「……遅いよ」
「……ごめん、じつは」
「まだ家、って言いたいんでしょう?」
彼女は――会社の、僕の、先輩――こうやって、いつも僕の前にいる。言うまでもないことだけれど、会社での関係とは違った、プライベートな空間だけの話だ。先輩の顔と、プライベートの、顔。両方を知っているのは、間違いなく僕だけだとは思うけれど、そこには優越感みたいなものは無い。それは、多分彼女といることが当たり前になり過ぎているからだと思う。
「……その通り、ごめん」
「いつも遅刻するわねぇ……友達ともそんな感じ?」
彼女の言う、『友達』という言葉で、僕はさっき佐藤から来た葉書を思い出した。
「友達とは、あんまり遅刻はしないんだ」
「でも私とは遅刻するの?」
「……甘えているんだよ、好きだから」
「……馬鹿ね、とにかく、待っているから早く来て」
うん、と言って、僕は電話を切った。誰に見つかるわけでもないけれど、佐藤からの葉書は鍵のかかる引き出しにしまっておいた。
僕は、多分、少し、迷っているんだと思う。彼女のことは、もちろん好きだ。もちろん好きだけれど……。僕は答えの無い感情を、靴底に隠して、さっき出したジャックパーセルを履いた。外に出て、玄関の鍵を閉める。外には、誰の姿もない。僕は期待しているのか? いや、そんなことは無い。そのはずだ。アパートを出る。
そして、歩いている途中に昔見た映画を思い出していた。ラストシーンは、お互い好きであるが故に分かれる男女の話。僕と佐藤をそこに重ねているわけじゃない。僕は佐藤の本当の気持ちを知らないから。
だけど。
だけど……。
僕は頭を振って、待っているであろう彼女のもとへと歩き出した。遅いと言いながら、僕を待っているであろう彼女の所へ。
セプテンバーくん 坂原 光 @Sakahara_Koh
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