それを僕は忘れる、それを君は思い出す。

明日key

それを僕は忘れる、それを君は思い出す。(完結)

 美樹が記憶喪失になった。それはわずか一年ほど前のことだ。けれど彼女は少しずつ思い出してきている。これから僕たちは繰り返すんだ、美樹との時間を。そのつもりでいる。たとえ僕が死んでも、僕は美樹と添い遂げなければならない。


   ――それを僕は忘れる、それを君は思い出す。


「結婚しよう、美樹みき

 二人で欄干にもたれかかったまま手を握る。青い月が浮かぶ海に波面が立つ。

 美樹の瞳が濡れる。僕の乾いた瞳には、切り取られただけの写真みたいな風景が見える。

「嬉しい、こんな感情はじめて、ありがとう」

「そうか、そんな感情もあったんだな……」

 ありがとう、か。僕が何を感じていたかもうわからない。でも、美樹はここに辿り着けた。

 本当に無味乾燥なプロポーズ。もしかして美樹は気障りな言動を嫌っていたか。

 もう何度もあったはず。その感慨にもう浸れない。激情が夜風に流される。

 美樹が僕の左肩に両腕を絡める。

「私、一生忘れない」

 美樹の視線が痛々しく僕の胸に刺さる。

「僕は……」

 どれだけ愛していたか、もう形にできない。おそらく愛が衝動的でいられなかった。

 僕はため息を吐いた。

「ほかほかのじゃがいもみたいだね」

「どういう意味?」

史乃しのくんが言った。ごつごつした冷たいじゃがいもは、ほかほかになるとほくほくになってほこほこに温かくなるって」

「へぇ」

 たぶん僕は言ってない。たぶん美樹の覚え違いだ。なかったことにすれば、いっそ清々しい。

 胸が空いて涼しい。

「ねえ史乃くん、私のこと、今日のこと、ずっと忘れないで」

 息が苦しくなりそうだよ。

 涙で熱い瞳を、美樹は僕の肩に押し当てる。

「子供」

「馬鹿にしてる?」

「なわけないよ、僕は子供っぽいのが好きだから」

「やっぱり馬鹿にしてる。でも知ってた」

 スマホケースの小熊のアクリルホルダー。しきりに触ってくる。

 車の中に戻り、二人で広めの後部座席に身を落ち着かせる。彼女は僕に身体を預け、しばらく気持ちが弾んだ。くすぐったり、いじめたり、わざと泣いてみせたり、軽く謝ったり、慰め合ったりした。

 こんなことを僕はかつてしたのか。

 彼女にとって思い出の一部になるんだろう。

 悲しみが待っていても、美樹と居続ける。

 ここで果てるわけにはいかない。これはスタートだ。


   ◆


 空が白みかけたところで、僕らは街の中に入る。

 指輪を選んであげた。

 美樹の指って、けっこう小さかったんだな。店員は無表情で機械的に指輪を渡す。

「私、この指輪は一生外しません」

 節が赤い薬指を見せ、指輪をはめてみせた。

 指輪は少しも輝いてない。

 外に出て僕は辛い顔をした。

「大丈夫? 史乃くん?」

「ごめんな、僕は君に指輪しか買ってあげられなくて」

 式を挙げるお金はない。一緒に祝ってくれる友達も彼女には少なくないのに。美樹は、

「大丈夫だよ」

「……」

「私、そんなに冷たくないから」

 しょうがないな、と美樹は笑顔を柔らかくする。

「僕のほうが冷たいよ」

「変だね。史乃くんって、まるで私より大人みたい」

 年の差こそない。けれど僕も美樹も、きっといつも目の前にいる大切な人より一段上にいる。そう思わないと僕は、いや……僕らはきっと相手を守れない。

「私も史乃くんと同じくらい年相応になりたいな」

 涙が一筋流れたのは、美樹のほうではなかった。

「私も子供っぽい性格でいられないよ。史乃くんにもっと近づきたい」

 目をこすって、僕は泣いた事実をなかったことにしようとした。


   ◆


 交差点を過ぎて街を出る。ここにはきっと戻らない。

 助手席で静かに眠る美樹を横にして、僕は高速道を走り抜けた。

 夜が再び更ける。路肩に車を駐車し、美樹の肩をゆっくりと動かす。

「なに? 史乃くん」

「なあ、思い出してきたか?」

「……」

 ルームライトに照らされている。彼女の顔色がみるみるうちに冷たくなっていく。

 僕らは車を降りる。舗装済みの道と、ぴかぴかのガードレールを跨ぐ。

 急斜面で足を滑らせないよう気をつけ、美樹と一緒に下を見た。

 まだ片付けられていない、の車。

「史乃くん、これ」

「僕は君を不幸にした」

 あの日、僕はハンドルを取られ、ガードレールを突き破って、ここに落下した。

 僕も美樹も重傷を負った。

「恨んでくれ」

「史乃くん……」

「僕は君に真実を言わなくては」

 冷たい風が吹き抜ける。背中が冷たいのは風のせいではない。

「僕は、君を君でなくしてしまった」

 気持ちが揺らいだ。

 ここで罪を吐露して美樹を別れることもできるのだから。

 けれどそうもいかない。

「美樹、僕は……」


   ◆


 事故を起こした直後、僕は車の外に投げ出された。美樹の姿が割れた車の窓ガラス越しに見えた。目が半分開いた状態で、生きているのかも怪しい。

 僕は身体を必死で動かそうとした。しかし、指一本動かせない。

「美樹……」

 心の声でしか僕は呟けない。

 涙すら出てこない。

 天上から一人の男が現れた。それは天使か、悪魔か、生涯わかることはない。

「お前には罪を、彼女には恩を負わせてもらおう」

「何を言っているんだ、お前」

 口も動かない状態で、僕の言葉が彼に伝わった。

「彼女を助けたいか?」

「助けてくれ……どうか」

「お前が助けるんだよ、どうしてこの俺がそんな役目を負う」

「僕には……」

「彼女の人生を散々縛って、奪って、酷ですね」

 熱い閃光が走って視界が焼ける。とっさに目を閉じた。

 暗闇に閉ざされた状態で、なお彼の姿はあり、彼はこちらに近づいてくる。

「お前には罪がある。よく聞け、これから言うことを。彼女は記憶を失った状態で目を覚ます」

「記憶を失う? 僕と二人で交わした約束も、思い出もか……」

 そこから頭がぼやけ始めた。酩酊した状態だったが、かろうじて思い出せることを彼は言い残した。

 お前は忘れる。彼女は思い出す。

 そして……


   ◆


 無惨に壊れた自動車のそばで、あのときのことを思い出していた。

 そして、僕の記憶のタイムリミットは迫る。

 美樹と交わした約束も行為も罪も、ぼやけて始めている。

 やがて、あの男と交わした言葉も忘れ去られる。

「思い出したよ、私」

「美樹」

「いつも優しくしてくれた史乃くんのことも、史乃くんが言ってくれた大切な言葉も、いま思い出させてくれた」

「僕は! ……もう思い出せない、思い出させてくれよ」

 この枷が苦しめる。僕は子供みたいにめちゃくちゃに泣いて追いすがる。

人のことでしょう?」

「え?」

「史乃くんの姿が見えなくなったとき、あの人が現れた。そして私を幸せにしてくれたから、史乃くんに恩があるって」

 もしかして。

「傍から見たら私たちは、記憶を忘れるのと記憶を思い出すのが交互に起こってるだけにしか見えないよね」

 美樹は言った。この記憶の輪廻は繰り返される、と。

 僕は彼の言ったことを鮮明に思い出す。


 お前は忘れる。彼女は思い出す。

 そして、

 彼女は忘れる。お前は思い出す。

 お前に罪を、彼女に恩を負わされた者同士、物語を繰り返し続ける。


「美樹……」

「今度は私が史乃くんの記憶を戻す番だよ。待ってて」

 美樹の姿が視界の中で歪む。

 数秒後に忘れる。

 美樹はきっといつものように振る舞い、僕はそんな彼女に惹かれて、もう一度美樹にずっと一緒にいるって、そう約束をするんだ。

 美樹は指輪を外す。何度も外した痕が薬指にくっきり残っていた。

「大丈夫だよ、私たちはいつも一緒でいられるから、何があっても……」

 そして物語はループするのだ。

 美樹は微笑みを浮かべ、僕の意識は途絶えた。

 そして、


   ――それを私は忘れる、それをあなたは思い出す。

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