月白
増田朋美
月白
その日、杉ちゃんが水穂さんに薬を飲ませたりしていたところ、浩二くんが製鉄所にやってきた。何のアポイントもなく、いきなりはいってきたので、杉ちゃんもジョチさんもびっくりした。
「一体どうしたんですか?なにかあったんですか?」
とジョチさんがそう言うと浩二くんが、
「はい。実はですね。こちらの子供さんなんですけどね。」
と、一人の少年を紹介した。その少年の表情がとても硬く、大人に対して強い警戒心を持っていることがわかった。
「お前さんの名前は?」
と、杉ちゃんが聞いても、少年は杉ちゃんのことをねめ回すだけで、名前を名乗らなかった。
「彼の名は、藤井正くんといいます。ただしは正しいの正。今現在、第一小学校に通ってます。」
浩二くんが紹介する通りなら、正くんは、何の変哲もない、公立の小学校に通っている小学生であることがわかる。
「そうですか。何年生ですか?」
と、ジョチさんが聞くが正くんは、浩二くんの後ろに隠れてしまった。
「恥ずかしがってるのかな?」
杉ちゃんがいうが、
「いえ、違いますね。大人を怖がっているのか、それとも憎んでいる、そんな目つきですよ。」
と、ジョチさんが言う通りだと思われた。
「で、浩二くん、今日はなんでこの少年をこの福祉施設に連れてきた?」
杉ちゃんがそう言うと、浩二くんはこう話し始めた。
「実は、彼がですね、学校でも家でも一言も口を聞かなくなってしまいました。お母様の話によりますと、挨拶も何もしないそうです。お医者さんに調べてもらったところ、言語機能に異常はないそうで、精神的なものだということで。それで、治療のため、先月から僕のところにピアノレッスンに来ているのですが、お母様の話によりますと、担任教師が相当ひどいことをいう人であるようです。なので、親御さんに代わって、学校に抗議しようと思うのですが、先生、その間に、正くんを預かってもらえませんか?」
「はあ、学校に文句を言いに行くのね。具体的にはどんなことを学校の先生に言われたのかな?」
杉ちゃんがそうきくと、
「試験の点数が悪いと、運動場を走らされるなどの体罰があったようで、それで同級生からいじめを受けたと聞いています。」
浩二くんはそう答えた。親御さんはどうしているのですかとジョチさんが聞くと、
「それが、本当は親御さんのほうが学校に抗議したいそうですが、お父様が、先月急逝してしまわれて、お母様は葬儀のことなどで、正くんの事まで手が回らないというのが正直なところです。週に一回ピアノレッスンには来てくれるんですけど、お母様は、正くんの話を聞いている暇もないそうです。」
と、浩二くんは答えた。確かに、そういう親御さんは、製鉄所の利用者さんの中でも多く見られる。製鉄所と言っても、工場ではなく、居場所のない人たちに、勉強や仕事をするための場所を提供する福祉施設なのであるが、だいたい利用者さんたちは、家族間で問題を抱えている人が多い。確かに、利用者さんのことを愛してくれてはいると思うけど、仕事で忙しすぎたりして、伝え方が下手なのだ。それを利用者さんたちは、愛情を貰えなかったと、解釈してしまう。だから、色々トラブルも発生するわけだけど、そういうことは一つ一つ解決して行くしか無いと思う。
「そうですか。それで代わりに浩二くんが学校に抗議しようと思ったわけですね。確かに、教師が体罰をしていたというのは、問題です。第一小学校というと、名の知られた小学校ですので、もしかしたら、そういう不祥事を、隠蔽しようとしてしまうかもしれない。そうなると、いくら浩二くんが学校に抗議しても意味がないと思うんですよ。」
ジョチさんは、専門家らしくそういうことを言った。
「そういうときは、人数が多ければ多いほどいいんだよな。きっと、少年が受けた心の傷というのかな、それは非常に辛いものがあると思うぞ。大人がひどいこと言ったんじゃ、大人が成敗しなければしょうがない。僕達も一緒に行くよ。」
杉ちゃんがそう言うと、浩二くんも、
「ありがとうございます。手伝っていただけるのでは、助かります。なんだかお母様の話だと、試験の点数だけではなく、給食を残すと大変に叱られるなど、担任の先生は問題のある方のようです。僕は、小さな子どもさんから、学校の話を聞くことがあるんですけど、学校の先生にふさわしくないのに、学校の先生をやっている人が、たまにいるんですよね。なんでこうなるのかなと思うほど。」
と言った。
「じゃあ、僕が、正くんを預かります。理事長さんたちは、学校に抗議してあげてください。子供さんが、喋らないということは、大変なことですから。」
不意に水穂さんがそういい出したので、杉ちゃんたちはびっくりする。
「しかし水穂さんではちょっとねえ。」
杉ちゃんの言う通り、水穂さんは薬を飲んだばかりだった。誰かがそばにいたほうがいいのではないかとジョチさんも心配したけれど、
「いえ大丈夫です。それより、学校に抗議して、こういうふうに、味方になってくれる大人がいることを、示さないとだめです。それは早いほうがいいですよ。この製鉄所をやっていれば、わかることではないですか。」
水穂さんは、自分は大丈夫だといった。
「それでは、第一小学校に行ってみましょうか。学校に問題があるのなら、早く対処したほうがいいのは、言うまでもないことですからね。結果的に勘違いであっても、抗議したほうがいい。」
杉ちゃんも、ジョチさんも、出かける支度を始めてしまった。浩二くんが呼び出したタクシーに乗り込んで、三人は第一小学校に行ってしまった。
製鉄所には、正くんと、水穂さんが残った。正くんは、水穂さんの方を振り向かず、カバンの中から取り出した漫画の本を読んでいる。その顔は、とても硬い顔つきで、何だか、大人なんて信じてやるもんかといいたげな顔だった。
「正くん、おじさんと遊ぼうか。」
水穂さんが優しく声をかけても、正くんは、何も反応しないで、漫画を読んでいた。
「一緒にお弾きしない?」
そう声をかけてもだめだった。製鉄所には、テレビゲームなどが無いので、遊ぶものと言ったら、おはじきかお手玉程度しかないが、正くんはそういうものには一切興味がなさそうだった。水穂さんは、ちょっとため息を着いて、ピアノの前に座り、ピアノを演奏し始めた。弾いたのは、子供向きと言われるシャミナードの舞踊アリアである。正くんは、それもうるさそうな顔で聞いていた。でも、ピアノに完全に興味が無いわけではなさそうである。水穂さんが舞踊アリアを弾き終えて、ベートーベンの月光ソナタの第一楽章を弾き始めると、正くんは、漫画を読むのをやめて、水穂さんの方へ近づいてきた。そして、ピアノの隣にちょこんと正座した。水穂さんが第1楽章を弾き終えると、正くんがとてもにこやかな顔をしたので、もう一度弾いた。すると、正くんは水穂さんの方へすり寄ってきた。
「ピアノが好きなの?」
二回目の月光一楽章を弾き終えて水穂さんがそうきくと、正くんはとてもうれしそうな顔になって、
「もっと弾いて。」
と言った。つまり、意識して黙ってしまっていたのだろう。言語機能に問題は無いと浩二くんも言ってたから、正くんは喋れないというわけではなかったのだ。
「いいですよ。」
水穂さんが、そう言って、もう一度月光ソナタの第1楽章を弾き始めると、正くんは、立ち上がり、水穂さんの演奏している手の動きなどを観察し始めた。どうやらピアノに興味があるのは本当のようだ。
「弾いてみたいの?」
水穂さんが第1楽章を弾き終えてそうきくと、正くんは、ピアノの鍵盤を叩く仕草をするが、手が小さすぎて、月光の第1楽章は弾けなかった。水穂さんが、第1楽章の音に沿って正くんの手を掴んで指を動かして上げると、正くんは、とてもうれしそうににこやかに笑った。水穂さんが左手で伴奏を付けて上げると、正くんは、
「おじさんどうもありがとう!」
と言ったのであった。まるで幼いモーツァルトが、他の先生の膝の上でピアノを弾いているのにそっくりだった。演奏が終わると、正くんは、水穂さんに気を許してくれたようだ。音楽というのは、心にかかってしまっている南京錠を、簡単に破ってしまうことができる道具であるような気がするのである。
「いつもはどんな曲を弾いているの?」
水穂さんがそうきくと、正くんはたったままピアノを弾き始めた。弾いたのはブルグミュラーの優しい花。小さな子どもの割に、リズム感は正確で、しっかり演奏になっている。
「上手だね。ぶつけたような音ではなくて、もっと柔らかいタッチで弾いてくれればもっとうまくなるよ。」
「ありがとう。」
正くんは、続いてブルグミュラーの進歩を弾いた。スケールの練習曲として有名であるが、これも崩れることなく、音階をスラリとひきこなしている。続いて、ちょっと悲しい感じがある、さようならを弾いた。この曲は少し嘆かわしい雰囲気のある曲であるが、その表現も上手だった。
「うん、よく出来てる。もしかしたら、音楽を専門的に学んだらいいかもしれないね。実生活には役立たなくても、音楽を趣味にし続けてほしいな。」
水穂さんがそう言うと、正くんはとてもうれしそうに、
「僕、ピアノ大好きだよ!ずっと弾いていたいよ。」
というのだった。
「そうなんだね。ありがとう。」
水穂さんもにこやかに笑い返した。水穂さんは、そのまま、正くんに学校でいじめられているのかを聞くと、正くんは、試験の成績が悪いので、先生にいつも叱られているのが辛いと話した。また担任教師が、生徒を名前ではなく番号で呼んでいると話した。番号は試験の点数の高い順につけられるという。正くんは、いつも最後尾なので、その尻馬になって、上位の生徒が、下位の生徒をバカにするような状況も発生していると、正くんは言った。
「そうなんだね。それは、学校の先生が問題だね。それは、正くんのせいじゃないよ。だって、こんなに上手にピアノが弾けるじゃないの。決して、頭が悪いわけじゃないよ。」
水穂さんがそう優しく言うと、正くんは、
「でも、試験に出てくる答えをかけなくて、みんなから僕はバカバカと言われているんだよ。」
と小さい声で言った。
「それは、大人の人が自分が格好良く見せたいからいう当てつけだよ。残念だけど、日本の教育ではそうなっているの。でも、今はそれを反省する声も高まってきてるから、先生たちも、それは行けなかったと思い直してくれるかもしれない。それは、お母さんや、ここのおじさんたちに訴えて、学校が苦しいって、ちゃんと言わなくちゃダメだよ。そして、苦しいと思ったら、隠そうとしないで、ちゃんとお母さんや、先生にいいなさい。もっと大変なら、学校を変わりたいって言ってもいいのでは無いかな。それは、体を大事にすることでもあるんだよ。」
水穂さんは、とても優しそうに言った。小さな少年は、水穂さんの言うことをちゃんと聞いている。そうなっているからこそ、大変な学校であることがよくわかった。
「本当に学校を変わってもいいの?」
少年はそうきく。水穂さんは、そうだよと小さな声で言った。
「今の時代だもの、いくら逃げても構わないよ。それに、そういうことができるんだったら、何でもしていいんだよ。」
そう言いながら、水穂さんは、自分の目が熱くなってくるのも感じられた。正くんが、おじさんどうしたのと聞いてくるけど、答えを口にしてしまったら、正くんに衝撃が大きすぎるのではないかと思った。
「本当にいいんだね。おじさん。ありがとう。僕、喉が乾いたよ。なにかない?」
正くんに言われて、水穂さんは、そうだねと言って、ピアノから離れて、台所に行き、冷蔵庫のドアを開けた。と同時に、12時の鐘がなった。ということはもうお昼の時間だった。冷蔵庫には、食べ物は何もはいっていなかった。パンも即席麺も、ジュースもない。水穂さんは、正くんに、お弁当でも買おうかと言って、タンスを開けて、茶羽織を出してそれを着た。
一方。
「いいですか。子供が一人傷ついているんです。もう少し、教育者として、自覚を持ってもらわねばなりません。子供さんを、成績順で番号で呼んでいるそうですが、それだって、子供さんの自尊心を傷つける恐れがあります。すぐにやめてください。」
と、ジョチさんは、若い女の先生に向かって、そう話した。目の前にいるのは、正くんの担任教師の先生である。年は、30代なかばくらいの先生であるが、なんだかそのような雰囲気は全く見られない、おごり高ぶっているのがわかる先生である。三人がいるのは、第一小学校の職員室。そこで、正くんの担任教師の女性と、面会しているのである。
「そんな事ありません。教育というのは、厳しさが必要です。そのあたりを、しっかり教えていかないと。これから上級学校に進んだとき大変なことが起きるおそれがあります。」
と、先生は言った。確かに、先生だから、弁舌はうまいのだ。喋り方だけでも全然ちがう。そういう言い方をされれば、もう専門家に言われているような、そういう気がしてしまう。
「そうですが、現に一人子供が傷ついて不登校になっています。それを気にしないでいるということは、ありえないでしょう。もう少し、藤井正くんのことを考えてやってください。」
ジョチさんはそれに対抗する様に言ったが、先生はびくともしなかった。
「お前さんは、阿羅漢だな。」
不意に杉ちゃんがそういうことを言った。ちなみに阿羅漢とは仏教用語で、自分が一番えらいのだとおごり高ぶっている人の事である。
「阿羅漢は絶対誰かに言われても自分が阿羅漢って気が付かないけど、いずれはでっかい跳ねっ返りが来るぜ。世の中はそういうもんだと思わないと。阿羅漢ばかりが勝つかというとそういう事は無いぜ。大事なのは、事件に大して、どう対処すればいいかを考えること。そういうことだよ。それは、いつの時代も変わらない。」
杉ちゃんがそう言うと、先生は、杉ちゃんをバカにするように見た。そしてそのようなことは絶対ないという顔をしていた。
「とにかくですね。先生のような態度を取っていることに、傷ついている子供さんが一人いるわけです。もしかしたら、他の生徒さんにも影響が出るかもしれません。そうなる前に、先生の態度を改めてください。」
浩二くんも、先生にそう抗議したが、
「いいえ、私達は。ちゃんと、子供が将来きちんとした大人になるために、教育を行っています。それに文句を言われる筋合いはありません。私達は。私達のやり方でやっています!干渉しないでください。」
と、先生は涼しい顔をしたままだった。
「小学校の先生というのは、いつも一緒にいるわけですから、その先生が及ぼす影響は、すごいものがありますよ。それをもっと自覚していただかないと。」
と、浩二くんはいったが、ジョチさんがそれを止めた。多分、もうこの先生は無理だということになるんだろう。世の中には、そういう何を言っても通じない人間もまたいるのである。とりあえず、形式的な挨拶を交わして、三人は第一小学校をあとにした。なんだか抗議しても無意味だったようだ。
三人が、タクシーを降りて製鉄所に戻ってくると、誰かが咳き込んでいる声がした。それと同時に、小さな子どもがタタタッと走ってくる音がして、正くんが玄関に飛び込んできた。ジョチさんがどうしたんですかと聞くと、
「お願い!おじさんを助けて!」
と、甲高い声で言う。ジョチさんと、浩二くんが、四畳半に飛び込むと、水穂さんが激しく咳き込んでいるのが見えた。すぐに浩二くんが、水穂さんの背中を叩くなどして楽にしてあげた。ジョチさんはその間に、枕元にあった薬を用意して水穂さんに飲ませた。水穂さんはそれを飲み込んたが、同時に、内容物が噴出した。それが、絵の具みたいに真っ赤だったから、正くんは、怖かったのだろう。涙をこぼして、泣き出してしまった。
「大丈夫です。そのうちに止まります。」
ジョチさんがそういうことを言っても、正くんは泣き続けていた。数分後に確かに発作を止めることに成功して、水穂さんは静かに眠りだしたのであるが、杉ちゃんが呼び出した柳沢先生にはえらく叱られた。水穂さんにレッスンをさせることはもちろんのこと、外へ出て、弁当を買いに行かせるなんて、何を考えているんだと言われてしまった。ジョチさんや、杉ちゃんが叱られているのを眺めていた正くんは。
「学校の先生に怒られているのとは違うんだね。おじいちゃんは、真剣におじさんのことを思って叱ってるんだ。」
と思わず呟いてしまう。
「そうだよ。その違いをちゃんと見抜ける大人になろうね。」
と、杉ちゃんに言われて、正くんは、なにか決意を決めたような、そんな顔になった。その日は、浩二くんに連れられて、家に帰っていったが、何か重大なことを得たような、そんな一日になったに違いない。
それから、数日がたった。杉ちゃんが、またいつもと同じ様に、水穂さんの世話をしていると、水穂さん宛に、はがきが届いた。全部ひらがなで描いてあり、子供が描いたものとわかる。杉ちゃんが、読んでくれというと、水穂さんが、はがきを取って読み始めた。
「えーと、右城先生、この間はありがとうございました。僕は立派なピアニストになって、ベートーベンの月光が弾けるようになります。」
子供らしい、可愛らしい文書だった。
「僕のことを本当に、可愛がってくださってありがとうございます。僕は、これから新しい学校でがんばります。藤井正。」
「そうか。彼も、僕達の意思が通じてくれたようだね。」
杉ちゃんは、にこやかに言った。
「まあ、小さな子どもさんだから、どう解釈されるかわからないけど、とりあえず、彼には通じたんじゃないの?」
「そうだね。」
水穂さんは、一つため息を着いた。彼はきっと、良い方に進んでくれるだろうな、と思いながら庭を眺めていた。庭は、冬らしく、松の木以外は葉を落としていた。
月白 増田朋美 @masubuchi4996
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