第4話


 また季節が一つ過ぎた。


 私は、まだ息をしていた。呼吸しかできなかった、のほうが正しいかもしれない。


 治療はとっくの前に緩和医療に移っていた。あれだけ繋がっていた管も最小限になり、鼻カニューレによる酸素注入の量もかなり減っていた。


 このところ体が重く、むくみが全体に広がっていた。それに、今日はなんだかいつもより呼吸が苦しい。少しずつ意識が遠退いていく。


『あなた』


 眠りにつくところだったが、妻の声で私はふと目を開けた。もう人影しか映さない私の目だが、妻の隣にもう一つ人影を感知した。


 顔は見えない。だが、私はその影の正体をわかっていた。娘だ。


 娘は何かを大切そうに抱えていた。その宝物のことも私はわかっていた。


『お父さん……』


 娘は震えた声で、その抱えていた宝物を私にそっと近づけた。


 霧がかかっていた視界も、まるで光が差し込んだようにはっきりと見えた。


 それは娘が産んだ、小さな命だった。


『――生まれたわよ。あなたの孫』


 妻の声がはっきりと聞こえた。


 私は思わず息をついた。妻の粋な計らいだった。娘が生まれた子供をすぐに私に見せられるように、出産先も敢えて私と同じ病院にしたのだ。


 最初、娘は反対したらしい。娘を捨てたのと同然の私に、なぜそこまでやらなければならないのか、と。だが、妻はそんな娘に悟らせた。


『どんなことがあっても、あなたは彼の娘で、あの人はあなたの父親。そして、生まれてくる子供はあの人がお祖父さんなのよ』と。


 だから、娘は思ったのだろう。私に孫を会わせるのでなく、生まれた子供に祖父と会わせる、と。


 孫を見た途端、視界が涙でかすんだ。


 私は消えゆく声で娘の名前を呼んだ。


 呼ばれたことに気づいた娘は、慌てて私に耳を近づけた。


 私は彼女に届くよう、力を込めて声帯を震わせた。


『頑張ったな』


 最後に見たのは涙を浮かべ、くしゃっと歪めた娘の顔だった。


 意識が、遠くなる。


『お父さん!』

『あなた!』


 妻と娘の声が聞こえる。だが、もう私の目は何も映さない。体中の力が抜け、頭が真っ白に染まって行く。


 目は閉じていても、騒がしさは耳に入る。慌てる医者。焦る看護師。それから私の体に触れ、懸命な処置にかかる。だが、私の体だ。私が一番知っていた。


 眠気が急激に襲いかかる。どうやら、私の命もいよいよ消えるらしい。だが、それで良い。私には、もう何も思い残すことはない。


 それでも、伝えたいことだけは沢山あった。だが、それも全てたった二言でしか表すことができなかった。


『ありがとう』


 そして、


『愛している』


 私は残りの力をその言葉に託した。


 最後に耳に残った音は、妻のすすり泣きと、娘の声だけだった。


『私もだよ……お父さん』


 震えた娘の言葉を後に、私は意識を手放した。


 ――そして、次に目が覚めたら私はこのベンチに座っていた。




「そうか」


 全てを思い出した私は、ぽつりと漏らした。


「私の命は……もう終わっていたのだね」


 駅員は無言のまま、静かに首を縦に振った。


 ――駅内でベルが鳴り響く。そろそろ列車がやってくるのだろう。


 私はゆっくりとベンチから立ち上がり、ホームまで歩いた。


「話を聞いてくれてありがとう」

「いえ……記憶が取り戻せたようで何よりです」

「ああ。君の言った通り、絡まっていた記憶の糸が解けたようだ」


 小さく息をつき、私は向かえのホームを眺めた。


 そこから見えたのは人集りだった。妻や孫を抱く娘。会社の同僚や旧友まで、まるで私を見送るように並んでいた。


 目を瞠る私の隣で、駅員はそっとアナウンスをした。


「……まもなく、列車が到着します。危険ですので、白線より下がってお待ちください」


 それが、駅員の彼と私の別れの合図でもあった。


「この駅は私の終着駅だったのだね」

「どうでしょう? あなたはこれから旅立つのですから、始発駅なのではないですか?」

「ああ……なるほどね」


 その彼の言葉に、私はつい笑ってしまった。終着駅は始発駅にもなる。捉え方は私次第ということだ。


 ――列車が到着する。


「世話になったね」


 列車に乗り込みながら駅員に会釈すると、駅員は屈託のない笑みを浮かべた。


「お客様の旅を無事に見届けるのが僕の役目ですから」

「そうだったね……駅員の鑑だ、君は」


 そう言うとベルがホームに轟いた。いよいよ列車が出発するらしい。


「…………それでは、良い旅を」


 敬礼した駅員が別れを告げる。


 それと同時に列車の扉が閉まる。


 列車が動き出したので、私は席に座って車窓を眺めた。


 ホームにいた人たちは私を見て優しく微笑み、そして頬に涙を伝わせていた。私との別れに嘆いているようだが、その涙は私の門出を祝っているようにも見えた。


 ふと振り返ると、未だにあの駅員が敬礼をして私を見送っていた。


 旅立つ客人を無事に見送る。その責務を果たした彼は、また次の客が来るのを待つのだろう。

 人生というのはレールのようなものだ。ただし、行き先も終着点ですら誰も知らされずに我々は生きている。


 ――ここは私の終着駅。これから私は、新たな旅に出る。


 列車はやがて空へと浮かび、私を天へと連れて行ってくれるのだろう。そこで私は空の上から愛しき者たちを見守るのだ。彼女たちがいずれこの駅に辿り着く時まで、なるべく永く。そう思うと、自然と口元が綻んだ。


 私は、この旅が良き旅になることを心から祈った。

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ターミナル 葛来奈都 @kazura72

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