第3話
その言葉を聞いた途端、私は彼を拳で殴っていた。
『あなた!』
妻が私を止めるように叫んだ。
娘は私の行動に驚いて、目を見開いたまま唖然としていた。
ただ、殴り飛ばされた彼は、殴られた頬を拭うこともなく、また床に額を擦り付けたのだった。
『……本来、守るべき順番を守らなかったことは、謝罪します。しかし、これも彼女を愛していた結果です。お腹の子も、彼女も、絶対に幸せにします……だから』
彼の覚悟は硬かった。
顔をあげなかったものの、見えない眼差しはきっと本物だ。
だが、いくら彼が熱弁しても、私には何も響かなかった。
娘の結婚。そして妊娠。娘にとって幸せな出来事がいっぺんに二つも来たのに、私は喜ぶことができなかった。
『……勝手にしなさい』
それだけ言って、私は彼女たちを置いて自室に向かった。
今の私には、娘たちにその一言を言うのが精一杯だった。子供を授かった以上、いくら反対しても無駄だというのは誰にでもわかる。
自室についた私は、そのままベッドに横たわった。そして、声を殺して枕を濡らしたのだった。忘れもしない、人生で一番惨めな日だった。
結局、結婚や出産の手続きは妻に押し付けてしまった。それだけではない。娘たちの新居探しやその引っ越しも、私は関与しなかった。
その間、私はいつも以上に仕事に励んだ。そうでないと、娘のことを思い出してつらくなってしまうのだ。
いろんな物を失った。娘も、私が抱いていた娘に対する愛情も。全部、娘の夫に奪われたような気がした。見当違いも甚だしいのはわかっている。私自身が、彼女から離れていた結果なのだから。
休む間もなく働いたものだから、案の定体も壊れていった。
常に吐き気や胃痛と戦っていた。連日の働きのせいで、休んでも疲れは取れなかった。だが、こんなボロボロになった体も「サラリーマンの勲章だ」と自分に言い聞かせていた。
とにかく働いた。妻のためでもなく、娘のためでもなく、生まれてくる孫のためでもない。私は、私のために働いた。大嫌いな職場が、私に居場所を与えてくれるなんて考えもしなかった。
だが、そんな無茶もいつまでもできなかった。
体に鞭を打ちすぎたせいで、私はついに職場で倒れてしまった。原因は疲労。病院に行くまでは、そう思っていた。
病院に運ばれた私は、そのまま検査入院することとなった。
この時間がとにかく苦痛だった。じっとしていると娘のことを考えてしまい、そのたびに胸が張り裂けそうなくらいに痛んだ。これを「後悔」と呼ぶのだろうが、私はこの感情を認めたくなかった。
私はただ一心に願った。「働かせてくれ」いや、「忘れさせてくれ」と。
全部なかったことにしたかった。この喪失感も、環境も、この虚しさも。そんなことができたら、どんなに生きやすいかと思った。
だが、いざその淡い願いが叶おうとした時、私は絶望の淵に落とされた。
「……癌?」
検査の結果、私は病いに体を蝕まれていたのだ。不調は前々からあった。それを私は疲れやストレスと誤魔化していただけだったのだ。
この頃には何をしたって手遅れだった。悪性腫瘍は、私の体に転々と巣窟を作っていたのだ。
もって半年。それが私の残された時間だった。
この世に神がいるのなら、呪ってやりたかった。奴は、私からどんどん大切な物を奪っていくのだ。娘だけでなく、生きがいだった仕事も、生きるための命も……両手に抱えていた宝物が、まるで砂のように私の手から滑り落ちていった。
検査入院で終わるはずだった私の入院生活は、引き続き行われた。
私は病室で白い天井を見上げながら、ただ命が終わるのを待った。いや、もしかすると、余命宣告された日から、私はもう死んでいたのかもしれない。
妻には悪いことをしたと思っている。娘のことだけでなく、病いに倒れた私も世話をしなければならないのだ。生まれてくる命と、これから消える命。二つの命の間に揺れる彼女は、一体どう思っていたのだろう。
「生きる屍」
今の私は、正しくそれだ。
そんな私だが、来客は多かった。昔の友人、親戚、会社の人間……まるで私に一目会おうと言わんばかりに訪ねてきた。けれども、なんの話をしても私は上の空で、魂なんて先に天に昇っていた。
一方、娘とはあれから一度も会っていなかった。
妻は私に聞かれなくとも娘の話をしてくれた。胎児はすくすくと育っているだとか、彼とは上手くやっているだとか。全て死にゆく私には必要のない情報であるのに、だ。
窓の外から変わりゆく季節を眺めているうちに、時は私を置いて過ぎ去っていった。
季節が変わった頃には、私の体は私の物でなくなっていた。
一人で起き上がることも、喋ることもままならない私は、ただ体中に管を入れられ、呼吸をしてただ天井を見つめるだけの生き物となった。
その頃から私は眠ることが多くなっていた。医者に診察されている時さえ、私は気づかずに日々を過ごしていた。最近は視界もかすみ、耳も遠くなってきた。
私の変化を知ってか、妻も滞在時間が日に日に減っていた。いよいよ見捨てられたらしい。だが、私は彼女を責めることができなかった。今まで自分が彼女にしてきた仕打ちを思えば、当然の結果だ。
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