第2話
「わかった。話をしようではないか」
そうは言ったものの、いったい何を話せばいいのだか。
天井を仰ぎ、揺れるランプの灯りをぼんやりと眺める。それだけで私たちの間に沈黙が流れる。
言葉が出てこない。それくらい私の頭の中の霧は濃いものになっていた。
だが、いくら経っても口を開かない私に、駅員は明るい口調で話かけてきた。
「ご職業はなんだったんですか?」
「なあに。どこにでもいるしがない会社員さ」
答えるだけでため息が出た。毎朝、八時過ぎには会社に着き、夜まで働き、そして家に帰って眠る。役職は課長ではあるが、使えない上司と生意気な部下たちにいつもあーだこーだ言われる頼りない中間管理職だ。そんな毎日を堂々巡りのように繰り返していた。これと言って、特別なことはない。
家庭はある。専業主婦の妻と、二十四になる娘がいる。とはいっても、娘とは最近――いや、ここ数年ろくに口を聞いていない。私が起きる時間には彼女は寝ているし、彼女が帰宅する頃には私は眠りについている。すれ違う日々がずっと続いていた。
妻との関係は良好のはずだ。といっても、コミュニケーションは彼女の世間話をただ聞いているのが殆どだ。
正直なところ、日々の労働で疲れているせいで妻に自ら話題を振る気力はなかった。彼女の話を聞いている時も、生返事をしてわかったようなふりをしているだけ。そんな態度だからか、最近では妻ですら私に話しかける回数が減ってきた。
「それは……寂しいですね」
私の近況に駅員は眉尻を垂らして哀れんだ。
「寂しい……ね」
そんな感情なんて今まで芽生えたことがあっただろうか。
「妻のため」「子どものため」と粋がっていた時期もあった。確かに彼女たちの笑顔だけで幸せに感じた。だが、今はどうだ。もう会話すらないではないか。
これは寂しさではない。情けない。ただ、それだけだ。
娘と口を利かなくなった理由なんて、たかがしれていた。俗に言う「父親離れ」というものだ。話かけても「うざい」で終わり。夕食時も避けられ、風呂なんて私が先に入ると途端に不機嫌になる。妻には私と自分の服を「同じ洗濯機で洗うな」と困らせたこともあった。それの延長とも言えるだろう。
たとえ話したとしても、私は怒鳴ってばかりだった。
高校、大学になるに連れ、娘は帰りが遅くなった。部活動やアルバイトならまだしも、友達と遊んで帰宅が真夜中や早朝になるのも増えていった。そういう時は、私も彼女が帰宅した途端声を荒らげたものだ。
『何時だと思っているんだ!』
だが、娘は私の言葉を無視して部屋に籠ってしまう。そのたびに侘しい気分になった。我ながら、子離れできていないと感じた。
しかし、駅員はそんはみずぼらしい私のことも軽蔑することなく微笑んだ。
「娘さんのこと、心配だったんですね」
その通りだ。彼女が心配で堪らなかった。たった一人の娘の身に、もし何かあったら。そう考えただけで、私は震えが止まらなくなった。
――静かな駅内に、冷たい風が吹き抜ける。
不思議なものだ。こんなことなど会社の同僚は勿論、友人にすら話したことがなかった。だが、私は今こうして、初対面でなおかつ自分の娘より年下であろう駅員の彼に話をしている。
ここまで自分語りができる理由は彼のほうにある。彼は私の目を見据えて、どんなつまらない話でも嫌な顔しないで真摯に聞いてくれる。
そして何より、彼と話しているうちにあれだけ霧かかっていた頭の中がスーっと晴れていくのだ。
これが彼の言う『記憶の紐を解く』ということなのだろうか。
話を続けよう。
「過保護だと
私は力なく笑うと、彼は「そんなことないですよ」と首を振った。
「でも、娘さんが恋人なんて連れてきたら、お客さん大変なんじゃないですか?」
駅員はケラケラと笑った。だが、表情が固まる私を見て、彼は「ん?」と笑うのを止めた。私はまた思い出したのだ。
「ああ……手がつけられなかった」
私は遠い目をしながら天を仰ぎ、あの日のことを彼に語り始めた。
あれは、一年程前だっただろうか。普段私と顔を合わせない娘が、あえて私が仕事の休みの日を選んで恋人を連れてきた。
恋人は私と妻の顔を見た途端、その場で土下座した。
『娘さんと、結婚させて下さい』
突然のことで私も妻も何が起こったかわからず、互いの顔を見合わした。
娘はそんな恋人を不安そうに眺めながら、そっと自分の腹部を撫でた。その仕草で私は良からぬことを想像してしまった。
『まさか、お前……』
たまらず私はその場を立ち上がった。妻もその状況を察したのか、両手で口を覆い、娘を凝視した。
娘はそんな私たちを諭すように静かに頷いた。
『――妊娠したわ』
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