ターミナル

葛来奈都

第1話

 気がつくと、私は駅のホームのベンチに座っていた。


 目の前に広がる光景に言葉を失う。私は、どうしてこんなところにいるのだろう。ここに来るまでの記憶が一切ない。


 徐に立ち上がり、辺りを見回す。


 動くと軋む木製ベンチに、足元にはひんやりと冷たさを感じるコンクリート。壁にはぽつぽつと傘のついたランプが取り付けられ、小さな灯火がゆらゆらと静かに揺れている。無論、こんな古びた駅など私は知らない。それなのに、私は仕事用のスーツを着ていた。通勤でこんな駅なんて使わないというのに。


 ここまでの経緯を思い出したいのに、頭の中は霧がかかったように真っ白になっていて何も思い出せなかった。


「お困りですか?」


 不意に声をかけられ、思わず肩が竦み上がる。


 慌てて振り向くと、そこには駅員らしき青年が立っていた。


 年齢は二十代前半といったところか。日が当たっていなさそうな色白な肌に、くりっとした大きな目からあどけなさを感じる。ただ、頭部に合っていないほど大きな帽子からは色素が抜けきった白髪がはみ出ていた。この髪色のせいで、正直彼の年齢の印象に自信が持てないでいる。


 いや、彼のことなどどうでも良い。


「ここはどこだ?」


 率直に尋ねると、駅員は「え?」と首を傾げた。


「どこって……駅ですよ」

「それは見ればわかる」


 あっけらかんとしている駅員の態度にため息が出る。


「しかし、駅といっても他に乗客なんていやしないではないか」 

「それはそうですよ。ここは、あなたの駅なんですから」

「私の?」


 彼の言葉が理解できなかった。いきなり「私の駅」だなんて、馬鹿にしているのかとすら思えた。しかし、彼は至って真面目のようで、私を不思議そうに見ていた。


「だってほら、そこに書いてあるじゃないですか」


 彼が指す先を見て私は絶句した。駅名が書かれているはずの看板には、確かに私の名前が書いてあったからだ。


「ね? あなたの駅でしょ?」


 さらりと告げる駅員の言葉に私は頭を抱えた。いつの間にか見知らぬ駅にいて、その駅が私の駅だなんて、誰が信じられるか。しかし、どんなに考えても、捻り出せた答えは「これは夢だ」という在り来たりで乏しいものだった。


 仮に、これが夢だとしよう。


「……本当に、列車は来るのかい?」


 クイッとかけていた眼鏡を直しながら駅員に問う。


 私の疑心とは裏腹に、駅員は屈託のない笑みを浮かべた。


「勿論。ここはあなたの駅ですから」


 夢とわかっていても、私は彼の笑顔が信じられなかった。それなのに彼はぬっと顔を近づけ、無垢な瞳を私に向けてきた。


「列車が来るまでお暇でしょう? 良ければ、僕とお話しませんか?」

「は、話?」

「ええ。お話です」


 楽しげに提案する駅員だが、私は気が進まなかった。今しがた出会った若輩者にこんなしがない中年サラリーマンと話をして何になる。


「あれ、そんなに乗る気ではなさそうですね」


 私が余程怪訝な表情をしていたのだろう。駅員は近づけていた顔をスッと引いた。


「でもお客様、なんで自分がこんなところにいるかわからないんでしょ?」

「な、なぜそれを」


 いきなり胸内を読まれ、私は思わず彼に顔を向けた。


 だが、どんなに瞠った目で駅員を見ても、駅員は淡々としていた。


「この駅に来た方は、みなさんそう言うんですよ。まるで頭に霧がかかったように、ここに来るまでの記憶が抜けているって」

「『みなさん』ということは、私の他にもこの駅に来た者に会っているということか?」

「駅員ですから、そりゃ会いますよ?」


 当然のように返す駅員だが、彼はまた不思議なことを言う。


「ここは確かにお客様の駅です。ですが、お客様がここから旅立つと別のお客様の駅になります。ここは、そういうシステムです」


「そういうシステム」と言われても、どうリアクションすればいいかわからない。答えを見出すどころか、どんどん混乱する一方だ。


 うなだれる私に駅員は「あらあら」と苦笑する。


「きっと、これまでの記憶が紐のようにぐちゃぐちゃになって絡まっているんだと思います。だから思い出せるものも思い出せないでいる。その絡まった紐をほどくように頭の中を整理すれば、やがてあなたがここに来た理由もわかるはずですよ」


 いきなり真面目に語り出す駅員に、私は思わず表情を固めた。彼の言う通りだ。私の頭の中に広がるこの霧こそが、彼の言う「記憶の紐」なのだろう。


 少し自分のことを語る。思い出すには、それが最善の糸口なのかもしれない。


 あごの下に手を置いて考え込んでいると、駅員はニカッと歯を見せて笑った。


「それに、僕はみなさんのお話を聞くことが好きなんですよ。そのうち列車も来ますから。ね?」


 その屈託のない笑顔は、先程までの堅苦しい空気をいっぺんに吹き飛ばした。


 すっかり彼のペースに飲み込まれてしまった私は、諦めてベンチに腰を下ろした。

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