第3話~勝~

 ◇




 あれから暫くの時が流れて―


 美花は2階の欄干から身をのりだし煙管をくゆらしていました。


 七はこの世にはもういない


 旅籠の女将は亡くなり、実質旅籠屋は美花が女将として任されていました。旦那の妾として、何不自由のない暮らし。心にぽっかり穴の開いた暮らし。


 座の手伝いには、今もたまに行っていて、花形のいなくなった座の仲間達だけが、美花の心の拠り所でした。


 旅籠屋とは色々な客が訪れるものですが、幕末の不穏な空気が流れる中、旅籠屋は密談をする場所にはうってつけで、最近の客の大半は武士や浪人。


 美花は色々な話を酒の相手をしながら、自然と尊皇攘夷論や、様々な思想を耳にする様になっていました。そして、客人達がその場で語る名や素性は、嘘や誇張が多かった事もあって、美花は次第に人の本質を見る事、そこに意識を向ける様になっていました。



 その中に最近頻繁にやって来る書生さんがいました。名前は勝。


 勝は書物好きの物静かな青年でしたが、書に関しては語りだしたら止まらない、そんな人でした。


「美花さんと酒を呑みにきたよ」


 そう言って訪れては、色々な話をしました。

 そして美花もいつしか心を開き、身の上話をするようになっていました。


 七との事、旦那さんの事、店の事、座の事。

 勝はいつも静かに、そして優しく聞いてくれました。


 いつしか美花は、勝さんが来るのを待つようになっていました。そしてそれに応える様に、勝も同じく足しげく通ってくれたのでした。





 ◇



 満月の夜ー


 勝は酒を飲む手を止めて、美花にこう言ってきました。


「私と一緒に逃げよう」


 美花は少し驚いたものの、気づけば黙ってコクりと頷いていました。


 美花は幸せになりたかった。

 いつも平凡な幸せを夢みていただけだった。

 でも、それが一番叶わなかった。

 勝さんと、平凡な暮らしがしたい。

 旦那さんの妾という、今の状態から抜け出したい。


 美花はまず、正吉に全てを打ち明けました。

 彼にだけは黙って行ってはいけない……そう思ったからでした。


 すると正吉が座の仲間達と協力をして、全ての段取りを計画をしてくれました。


 見張りの使用人を足止めしてる間に、裏口から逃げる。勝とは三条大橋で落ちあい、そのまま二人で東へ逃げる事。


 美花と勝はその計画通りに、駆け落ちする事にしたのでした。





 ◇



元治元年(1864年)6月5日

 

決行の日ー


 その日は祇園祭の宵宮で、京の町は活気に満ち溢れていました。


 美花は、旦那さんの息のかかった使用人に酒を振る舞い、酔いつぶれたのを確認すると座の皆に別れを告げて、三条大橋に向かって走りました。


 もうすぐ勝さんと自由になれる


 美花の心は踊りました。


 月明かりで照らされた三条大橋の上で、美花は待ち続けました。


 でも、約束の時間になっても勝は現れませんでした。


 そんな……

 勝に限ってそんな……


 絶望感が美花を襲い始め、三条大橋の下をまるで時を刻む様に流れる鴨川の水流が、もう時間は巻き戻せないと言うかの様に、川下に向かって流れていました。



 もう死んでしまおう……


 美花は気付くと、鴨川に入っていました。


 このまま楽になろう……


 美花は歩みを更に加速させました。


「美花さん!」


 その声は、美花の姿を見届けに来た正吉でした。


 そして美花の姿を鴨川の中に見つけると慌てて、躊躇う事無く川へと飛び込み、抵抗する美花を無理矢理河原へと引き戻したのでした。


 美花は泣きじゃくりながら正吉に訴えました。


「うちは……うちは捨てられたんか?」


 正吉は黙って顔を横に大きく振りました。泣きながら何度も振りました。


 美花は更に泣き始めました。

 正吉も一緒に大声で泣きました。

 子供のように二人で……

 いつまでもいつまでも……





 ◇


 勝はその日以来、消息がわからなくなりました。


 また捨てられたのかもしれない。

 実は何かが、あったのかもしれない。


 でもそれを知る術は、今の美花にはありませんでした。


 そしてまた店での、今まで通りの生活に戻っていったのでした。

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京都四条の物語 豊 海人 @kaitoyutaka

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