第2話~別れ~
暫くしたある日の事。
店に米問屋の旦那という人物がやってきました。
美花が部屋に案内をし、食事の世話をして部屋から出ようとすると呼び止められました。
「美花さんだね?」
「はい……」
瞳がギラギラとしたその初老の男性の事を、美花はあまり好ましく思えませんでした。
「七さんが世話になってるようだね」
旦那は酒を一口飲むと、美花をジロジロと上目遣いで凝視し、そのただならぬ雰囲気に、美花は身を強張らせる事しか出来ませんでした。
「彼は私のモノだよ?」
美花はその言葉で、一瞬で色々の理解をしました。
この人は私に文句を言いに来たのだ
「花形に女の一人や二人、普通なら多いに結構。
ただ……心を奪われるのは流石に気に入らないねぇ。私は悪いが独占欲が強い方なんだ」
美花は膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめながら、下を向いてただただ震え続けました。
「聞けば、美花さんは借金があるそうじゃないか。それは私が、全て引き受けよう」
「え?」
美花は予想外の言葉に意味がわからず、俯いていた顔をあげると、旦那に視線を向けました。
「君を、この私が引き受けるということだ。君が私の妾になるという事だよ。断る事は出来ない。断ったら君は今すぐここから出ていかなければならないし、君の故郷への送金も滞る。何より……七が花形を辞めることになる。私が七の支援者なのだからね」
美花は下唇を噛み締めながら、その場に勢いよく立ち上がると、旦那の事を見下ろしながら睨みつけました。
そしてそれは、受け入れるしか道は無い事への悲しみと、溢れ出そうになる無力さ、それに耐える無言の、精一杯の抵抗の姿でもあったのでした。
◇
その日から、美花は旦那さんの妾となりました。
別に居を用意されるわけではなく、今まで通り店で働き、座の手伝いもしました。
ただ見張りがつけられ、七と二人きりになる事が禁じられ、それは逆に引き離されるよりも、残酷な仕打ちであったのでした。
ある日の事、美花が玄関先に水を打っていると、黒子の正吉が紙包みを手渡してきました。
「七さんからです」
小声で耳打ちをし、走り去る正吉の背中を見送った美花が、手渡された紙包みをそっと開くと、そこには金平糖が数粒入っていました。
「また、子供扱いして……」
美花はその中の、水色の一粒を口にしました。甘いはずの金平糖は、涙で塩辛い味がしたのでした。
◇
正吉はいつも、美花と七さんを繋ぐパイプ役でした。一度聞いた事がありました。何故そんなに良くしてくれるの?と。
正吉には妻がいたが、病で亡くした事。
悲しみの淵にいた時に七さんが、座の面々が心の支えになってくれた事などを話してくれました。
自分だけが辛いわけじゃない……
美花は正吉の話を聞いて、苦悩の中にある幸せや喜びを大事にしようと、そう心に誓ったのでした。
◇
春夏秋冬を、いくつか繰り返して……
店の女将が倒れてからは、美花が店の切り盛りを任されるようになっていました。
七さんは相も変わらず花形役者で、最近はかなりな人気を博しておりました。
ある秋の夜-
「今日は満月やねぇ……」
美花は旦那さんにお酒をつぎながら、憂いを帯びた瞳でそう呟きました。
「それはそうと美花、最近は血を吐く流行り病が流行っているらしいよ」
「血ですか?それは怖いなぁ」
美花はそう答えたものの、どこか他人事で。本当の怖さをこの時は、知る由もなかったのでした。
それから数日後、興行中に七さんが倒れたとの報せが入りました、噂では血を吐いたとも……
駆けつけた所で会えるわけはなく、美花はただ北座の近くにある八坂神社へお願いしに、毎日毎日通い続けました。
私は死んだっていい……
彼を助けて……
◇
その日、正吉が悲壮な顔で慌てながら私に会いにやって来ました。
「美花さん来て下さい!早く!」
美花は正吉に連れられ、七の家にやってきました。
「こっちの裏です」
正吉に促され、庭先の草影に隠れた美花に、正吉は耳打ちをしてきました。
「あっちの部屋に、七さんがいます」
正吉が静かに指さした方向には、障子で閉ざされたひとつの部屋がありました。
「私が今から七さんのお見舞いに行きます。そして理由をつけて、あの障子を開けます。なんとか伝えますから……一目だけでもお顔を……」
正吉の優しさに、美花は今にも泣き出しそうになるのを堪えながら、コクりと頷きました。
正吉はその姿に自らも何度も頷いて見せた後、玄関へと走り去っていきました。
美花が息を殺して待っていると、目の前の障子がゆっくりと開かれ、そこには、布団上に起き上がった七さんがいました。
正吉から美花の事を聞いたらしく、近くにいる使用人に気を付けながら、庭先に向かって眼球だけを動かし美花の事を探し始めると、すぐに草陰に隠れていた美花の姿を見つけました。
七さんは痩せていたものの、いつもの、満面の笑顔を美花に向けたのでした。
あぁ……
このまま、時が止まればいいのに……
無言で見つめあう、静かな時間が流れて
次に七はゆっくりと口を動かすと、そこに声は乗せる事無く、想いを形作って魅せました。
その五文字の言葉は
「ありがとう」
美花はただただ頷いて……
ただただ、泣き続けたのでした。
七はその後すぐに労咳で亡くなったと
美花は人づてに、その報せを受け取りました。
そしてその瞬間
美花の中で何かが壊れたのでした。
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