京都四条の物語

豊 海人

第1話~旅籠屋に売られた娘~




 それは幕末の物語ー



 昔々ある所に、農家の一家が住んでいました。両親と小さな子供達5人の7人暮らし。生活はとてもとても貧しかったけれど、家族みんなが笑顔で楽しく暮らしていました。


 長女である美花。妹である次女の結、その下に3人の弟達。


 畑仕事で忙しい両親に代わり、長女の美花が母親代わりで、兄弟達の世話を一手に引き受けていました。そして妹、弟達も皆、そんな姉の美花の事が大好きでした。


 両親は生計を立てる為、畑仕事の傍ら稲作で生じる藁を使い藁草履を作っては、京都の商家へ卸す事もしておりました。


 朝から夜中まで、働いても働いてもその日暮らしな生活。いつまでたっても楽になる事はない生活。


 そんなある日の事、美花は父親に呼ばれました。


「美花、明日は京の四条の商家さんに草鞋を届ける日だ、一緒に着いてきてくれないかい?」


「え?うちが??そやけんど……」


「美花なら大丈夫さ」


 そう言って、これを着ていくようにと新しい着物を手渡されました。


 何故うちが?美花はまずはそう思ったものの、手渡された、初めて手にする綺麗に仕立てられたその着物に、有頂天になっていました。


 美花は舞い上がり、袖を通してはその場でくるくると回転しながら、その布が織り成す景色に見惚れました。


 そうだ。やっと父の手伝いをできるくらいになれたのだ。私はもう1人前なのだ。


 美花の心の中に最初芽生えた不安な気持ちは、その晴れやかな着物に飲み込まれるかの様に薄れてしまうと、喜びの感情のみで満たしてしまったのでした。






 ◇





 京へいく朝ー


 美花は、先日父親から手渡された新しい着物を母親に着付けてもらっていました。


「お姉ちゃんええなぁ!うちも行きたい!」

「帰ってきたら、お話たくさん聞かせてや!」


 妹や弟たちが周りを囲み、やいやいと囃し立てる姿を順番に眼で追いながら、美花は少し困った顔をしました。


「さあ出来た!べっぴんさんの出来上がりや」


 母親がそう言って、優しく美花に微笑みかけました。


「ほないこか、美花」


 美花は父に促され、その場に立ち上がりました。するといきなり、目に涙をいっぱいに溜めた母親が、美花の両手を力強く掴みました。


「おかあちゃん、どないしたん?」


 無言で、ただ美花を見つめる母に困惑しつつ


「大丈夫、うちそんなへましたりせえへん。安心して?おかあちゃん」


 そう言って両手で母の手を握り返すと、元気よく手を振り、美花は京の都へ父と向ったのでした。





 ◇





「うわぁ人がいっぱいやなぁ・・・。」



 初めて訪れた京の景色は、美花を驚かせました。

 口をあんぐりと開けてキョロキョロと周囲を見渡しながら歩いては、橋の真ん中で下を覗き込むと、しばし鴨川の水流に見惚れました。


 すると、父の呼ぶ声がしました。


「美花!今からこちらへご挨拶に行くから、はようおいで!」


 美花がそちらに目をやると「旅篭」と大きく書かれた看板が、目に飛び込んできました。

 それにも驚いたものの、その遠く向こう側にきらびやかに建つその小屋の佇まいに、一瞬で目を奪われたのでした。


「あれが……お父ちゃんが前に話をしてくれた、歌舞伎座やろか」


 ドキドキしながら美花は小走りで旅籠屋の前に立つ父の元へと駆け寄りました。


 すると、父は優しい目でこう言いました。


「お前はしっかり者やし大丈夫。お父ちゃんは安心してる」


 美花は急に褒められた照れ隠しもあって、すかさず「お父ちゃんこっちは……歌舞伎座なん?」と話を変えました。


「そや、そっちは北座や。向かいが南座。凄いやろ?ほな、此方に入ろうか、挨拶ちゃんとするんやで」


 父に促された美花は、旅籠屋の中へ恐る恐る入っていったのでした。






 ◇




 あれからどれだけの月日が流れたのだろう―


「みんな元気やろか……」


 美花は、店先の掃き掃除をしながらその雲ひとつない青い空を見上げました。


「美花!はよぅ!七さんが来とる部屋にお茶や!」


 旅篭の女将にどやされ、美花は慌てて転がる様に店の中へと戻っていきました。父と一緒にこの旅籠屋に来たあの日、美花はこの旅籠屋の奉公人となったのでした。


 挨拶の途中から、やっと色々な事を理解しました。あの新しい着物の意味も、母の悲しそうな微笑みも。そして、私は金で売られたのだという事を……


「美花!はようお茶や!喉が乾いとる!」


 部屋に入ると、満面の笑顔の顔の整った男性が寛いでいました。


「また、油を売りにきはったんですか?」


 美花はその男性に、淹れたての熱いお茶を差し出しました。


 彼は、傍にある北座のいわゆる花形役者で、皆からは、七さんと呼ばれていました。


「ここが一番落ち着くんやからしゃあないやないか、ここは俺の第二の故郷や」


 七さんは美花が出したお茶を一気に飲み干すと、ゴロリと寝転び寝てしまいました。


 七さんはここに来てからの最大の味方でした。女将さんに叱られて泣いていたら、いつも庇ってくれました。いつもこっそりお菓子をくれました。


 子供だった美花は大人になるにつれ、自然と七さんを慕っていくようになったのでした。


 七さんは出番の合間に店に来ては、色々な事を教えてもくれました。三味線も躍りもしきたりも。


 師匠であり、父親であり、兄の様な

 そんな大きな存在になっていったのでした。


「お前は筋がいい」


 優しい目でいつも、誉めてくれました。美花は誉められたくて、いつもいつも一生懸命でした。


 七さんにはその頃、生活の全ての面倒を見てくれる商家の男性が居ました。


 当時の役者の身分は低く、それを受け入れる事、自分自身は所帯は持たぬ事が更に、芸の発展、強いては人気にも繋がる事を意味していました。



「身分なんて作って、神さんは不公平やなぁ……」



 一日働き通しで、やっと迎えた夜の月を見上げながらそう呟いた美花は、16になろうとしていました。






 ◇




「今日は鴨川で興行やから、美花も連れていくぞ女将!」


 七さんは突如やってくると、美花を連れだしました。


 女将も七さんには弱く、


「お給金は、はずんでもらいますからね!」と、諦め口調で返事をするのが、毎度の事でありました。


 美花が外へ出ると、座の面々が立っていました、

 ここに来てからこの方々がいたから、美花は寂しくはありませんでした。


「美花さん、これお願いできますか?」


 黒子で座を支えてる正吉が、美花に三味線を渡してきました。


「正吉さんはいつも、皆の為に動いていて大変ですね」


 美花がそう言うと、正吉は笑顔でこう言いました。


「私は、この座が好きなだけですよ」






 ◇




 鴨川の河原での興行も無事終わって、七さんは旅籠屋でまた寛いでいました。美花はいつもの様に、熱燗を用意し傍に座りました。


 七さんは興行がうまくいったからか、上機嫌でした。美花はそんな七さんの笑顔を見つめながら、お猪口に酒を注ぎいれました。


 すると七さんはお酒を呑むのを急にやめて、ポツリとこう言いました。


「美花、夫婦になろうか」


 美花は驚きの表情を浮かべたものの、悪い冗談だと言わんばかりに膨れっ面をして「もう酔ったんですか?」と、わざと笑って答えてみせました。


「公の妻には出来ない。式もあげられない。でも……今、夫婦になろう」


 美花は恥ずかしそうに俯いて、恐る恐る小さな声で尋ねました。


「七さんは……私を捨てられたりせえへん?」


「お前がここに来てからずっと、傍にいたのは俺やないか、当たり前や!」


 七さんはいつもの、満面の笑顔でそう言いました。


 美花は嬉し涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、七さんと一緒に微笑みました。

 七さんはそんな美花の事を、絶対に手放したりはしないとばかりに強く強く抱き締め続け、それは美花が、17の誕生日の事でありました。


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