第二話 第十二組の出会い

***


 蝋燭の火が部屋の中を淡く照らす。蝋燭の火は扉からの隙間風に煽られ、その影がゆらゆらと軌跡を描く。長く伸びている複数の影が動く様はまるで、物の怪どもがうごめいているようだ。

 馬酔木屋あせびやという名の食堂に一角に設けられた一室で、口と顎に髭を蓄えた男が胡坐をかきながら銭の枚数を数えながら一枚ずつ紐に通していく。百かんの銭を通して一束出来上がったところで、男は肘置きに寄りかかり気怠げに顔をあげる。


「——して、入試に受かったと」

「はい。柊蔵しゅうぞう様……」


 床に額を付けた女——あおいはか細く呟く。葵は八朔院から今日貰った入学許可証を柊蔵に震える手で差し出す。それを奪い取った柊蔵は興味なさげに中身をさらりと見て、すぐさま葵に投げつける。少し皺がついた証書を葵はそうっと拾い、懐に大事に仕舞う。

 葵は細く息を吐き出してから、吊り目気味の大きな瞳をキッと開く。


「約束は、ちゃんと守っていただけるのですよね」

「またその話か。いい加減、飽きたぞ」

「柊蔵様!」


 柊蔵の反応に思わず葵は声を張り上げた。柊蔵は一睨みし、床を思いっきり手のひらで叩いた。葵は慌てて俯き、「申し訳ございませんでした」と震える声で告げる。

 ふん、と鼻を鳴らした柊蔵は五束の銭縄を持ち上げ、ねっとりと口を開く。


「お前の立場が分かればそれでいい。……私は一柑でも多く得を出来ればそれでいいのだ。今すぐにでも利益を得たいところを我慢して、お前に機会を与えてやっているのだ。私はなんて人格者なのだろうか! なあ、そうだろう?」

「……はい」


 葵はそう小さく答え、唇を強く噛みしめる。その葵の様子など目に入っていないかのように、柊蔵は再び銭を紐に通し始める。


「もう帰ってよい。まあ、せいぜい頑張ることだな」

「はい……失礼いたしました」


 葵は身体を起こし、音を立てないように扉を開けて部屋の外に出る。喧騒に包まれている食堂の店内を抜けて、葵は長い息を吐き出す。

 雲間から覗く月光をじっと見つめて、葵はぎゅっと拳を握る。


「頑張るしか、頑張るしかないんだ。今のままじゃ……」


 葵は脚に力を込めて駆け出す。両目から涙が溢れだしたが、無視して葵は走った。

 葵の肩の上で切り揃えられたこし、、のある黒髪が揺れ、月の光に照らされて輝いている。街の騒がしさがわずらわしい夜だった。


***


 ふっくらとした桃の花が、枝を埋め尽くすほどに咲いている。さほど手入れをされた木ではないものの、花弁は鮮やかに色づいており、つるりとした樹皮が花の隙間から輝きを放っている。


 家のそばに咲いている桃の花を見つめて、桔平は柳のような眉を落とす。桔平は桃の木に一言「すまない」と断りを入れてから、そうっと枝を手折る。その枝に懐から出した簪を重ねる。

 その簪は緋色を基調としていて、先には桃の花を模して彫られた飾りが付いている。さほど高価なものではないものの、気品のある作りの簪だ。

 桔平は簪と桃の枝を一緒に握り、太陽にかざす。簪と枝が照り返す光に桔平は目を細め、頬を緩めた。


「……まぶしい、な」


 桔平は緩やかな動きで簪と桃の枝を握っていた腕を下ろし、目をゆっくり閉じる。

 柔らかな風が桔平の長い髪を優しく撫でていく。春の暖かい日差しが身体全体をじんわりと温めて、朝の冷え込みで強張った身体を溶かしていく。

 桔平は目を開け、簪と枝を両手で握りしめる。桔平は再び桃の木を見て、深呼吸を繰り返す。何度か繰り返した後、「よし」と小さく呟き桔平は家の扉に桃の枝を差す。簪を懐に入れ、桔平は扉にそっと寄りかかる。


「……行ってきます」


 桔平は誰の返事も返ってこない家にそう告げ、背を向け歩き出した。


 今日は、八朔院に入学する日だ。入学する日、といっても式典のようなものは行われないため、八朔院の寮に入り同じ組の者と対面する日といってもいいだろう。八朔院では、院生は入学と同時に三人ずつの組に編成され、その三人で卒業まで共同生活を送ることになっている。同じ部屋で過ごし、授業や試験を三人でこなしていくことになる。八朔院の施設や授業についての説明は明日以降にすると聞いているし、今日は本当に同じ組の者と知り合うためだけの日、という扱いなのだろう。柑橘衆という一つの集団で動くための訓練として、組制に重きを置いている八朔院らしい日程の取り方だ。


 八朔院を含む皇居に続く大路に出て、桔平は背負った風呂敷の結び目を握る。入試の日よりも少しだけ増えた荷は、肩にじんわりと重みを感じさせる。相変わらず蜜柑の匂いが濃いこの路を、桔平は早歩きで進んでいく。

 と、橙色の実が桔平の前をころころと転がっていく。その様子に、桔平はひゅっと喉を鳴らした。瞬間、辺りに怒号が響く。


「これはどういうことだ! 蜜柑を地面に転がすなど……一体どういう了見だ! よもや蜜柑の価値を知らぬとでも言うのか! 誰だ! 蜜柑を転がした愚か者は!」


 輿こしから飛び出してきた少年が顔を真っ赤にしてそう怒鳴り散らす。その顔色に引けを取らないほどに赤く染め上げられた布に、絹糸で豪奢な色とりどりの刺繍がされている水干を着た少年は、従者を手招きする。少年は従者から太刀を受け取り、引き抜く。

 少年が太刀を引き抜いたことで、顔を青くした下僕たちの間から引きった悲鳴が湧き上がる。その下僕たちの中でも一際青白い者を目ざとく見つけ、太刀を下僕の首筋にあてる。


「そなたか……蜜柑を落とした者は。そなた、蜜柑をどのような存在であると心得ておる!」


 怯え切って言葉を発することが出来ない下僕に、少年は顔をさらに赤くし、眉を吊り上げる。少年は下僕の首に太刀を少し食い込ませ、地を這うような低い声で下僕に語りかける。


「そなたのような者が本来触れるどころか、目にすることすらはばかられる代物だ。そのことを承知しておったのか? ああ、そなたのような汚らわしい者に貴き蜜柑を預けた私が間違っておった。私が責任を持って、その醜き魂を浄化してやろう」


 少年は冷笑し、腰を抜かして震えることしか出来ない下僕に太刀を振り上げる。

 それを見て、桔平は思わず飛び出す。少年の太刀を桔平は懐から取り出した短刀で受け止めた。


「……誰だ。なぜ、その者を助ける?」

「おのれ! この方をどなたと心得ての愚行だ! この方は皇后陛下が甥御であらせられる雨月うげつ様でいらっしゃるぞ!」


 雨月の後ろから従者が地面を割るほどの声量で叫ぶ。桔平は耳を消し飛ばしてしまいそうなその声に眉を潜め、小さく口を開く。


「うるせえ……。で? それがどうしたんだ? あいにく、俺はそんなこと、、、、、を気にするたちじゃなくてね。目の前で人が殺されそうになっているんだ、助けるっていうのが人の道理だろう。その人が殺されるような理由もないしな。それに、貴い蜜柑、、、、が血に濡れる方がまずいんじゃないか?」


 桔平は太刀を弾き飛ばし、自信たっぷりに笑う。目を見開いてわなわなと震えている従者を無視し、桔平は短刀を鞘に納める。


「おのれ! おのれ! おのれ! 尊き雨月様の名を知ってのその妄言! 許さぬ、許さぬぞ! 我が手でその首を落としてやる!」

「待て、垂氷たるひ


 太刀を振り上げている垂氷を雨月は片手で制し、桔平に一歩近寄る。雨月は桔平の顎を摑み、その瞳を覗き込む。雨月は微かに笑った。


「橙の瞳か……。これほど立派な色の瞳は初めて見た」


 桔平は眉を潜め、雨月の手をはたき落とす。桔平は一歩後退り、雨月を冷え切った目で睨みつける。その桔平の反応に暴れ出す垂氷を宥め、雨月はゆったりと笑う。


「そのような高貴な色を持っているなら、分を弁えぬ尊大な言動に多少なるのも納得だ。その色に免じて許してやろう」

「……別に許してもらうことなどないが?」


 桔平は雨月を鼻で笑い、冷えた声色でそう言う。雨月は一瞬目を丸めたが、すぐにっこりと杏子の花のような微笑みをたたえる。


「そうか。私の問題だ、気にせずともよい。して、そちの名は?」

「答える必要が? 名前を聞くのはあんたの都合。俺に答える義務はない」


 雨月に背を向けて歩き出した桔平の腕を鷲掴み、雨月は引き止める。振り払おうにも雨月の摑む力がだんだん強くなっていて、逃げられそうにない。

 桔平はため息をつき、ぼそりと呟く。


「……桔平」

「きっぺい……きっぺいか。……この世で一番嫌いな者と同じ名だ」


 桔平の名を反復して露骨に嫌そうな顔をした雨月に、桔平は丸めた紙のように顔をしかめる。桔平は少し力の緩んだ雨月の手を勢いよく振り払う。


「聞いておいて、好き勝手言いやがって……。俺だって、好きでこの名前になってない!」


 その荒げた声にぽかんと口を開けた周りの人たちから逃げ出すように、桔平は走り出す。

 桔平は大路から逸れて、狭い路地に駆け込む。桔平はその場に座り込み、はふはふと浅い呼吸を繰り返す。

 あんなこと言うつもりはなかった。つい、やってしまった。もう気にしないと、どうでもいいことだと自分に言い聞かせても、いつまでたっても全然出来ない。


「だいたい、八朔院だって……」


 桔平は自嘲的な笑みを浮かべ、地面を見つめる。鼻がつんと痛む。視界がだんだんぼやけてきた。桔平は袖で顔を擦り、両手で頬を力いっぱいに叩く。


「気にするな、気にするな……。大丈夫、大丈夫。ちゃんと俺がやりたいことだ。誰かから言われたことじゃない。俺の意思だから……」


 桔平は全身の空気を細く長く吐き出し、ふらふらと立ち上がる。浮いたような感覚がある脚に力を込めて、桔平は歩き出す。そっと大路に出て、桔平は真っ直ぐに背を伸ばし八朔院を目指す。

 大内裏の四方に設置されている門の一つである邪払門じゃばらもんで、八朔院から交付された通行証を見せ、宮城きゅうじょうの中に入る。邪払門から右に少し歩いたところで、蜜柑の木に囲われた建物が現れる。「八朔院」と流麗な文字で書かれた木板が掲げられている門をくぐり、新入生の受付の列に並ぶ。

 入学試験の時よりも圧倒的に人数が少ないため、順番はすぐに回ってきた。

 受付をしている八朔院所属の官人に入学許可証を桔平は提出する。事務的にそれを受け取った官人は軽くそれに目を通し、肩を揺らす。

 そろりと顔を上げて桔平の顔を確認した官人は、顔を強張らせる。明らかに緊張した動きで手元の帳簿を捲り、官人は裏返った声で話し始める。


「——か、確認できました。桔平様」

「様はいらん。桔平でいい」

「し、失礼いたしました! きっぺ、あなたの寮の部屋はこちらの、だ、第十二組の部屋となっております。また、八朔院の施設については、こ、こちらをご確認くださいませ。ご不明点がも、もしございましたら、いつでもお尋ねください。普段は、あちらの建物におりますので」


 そう言ってぎこちない笑みを浮かべた官人の絡みつくような視線に、桔平は苦虫を嚙み潰したような顔をする。桔平は建前で官人に軽く礼をして寮の部屋に向かう。


 八朔院の寮はその敷地の中でも奥の方に位置している。演習用の広場や施設、鍛錬のために自由に使える空間が門の近くにあり、少し行くと食堂や教室がある建物がある。そこからさらに進むと、院生寮が見えてくる。


 寮の中に入り、桔平は自分の部屋を探す。寮の中は少しざわついていて、扉から聞こえる話声の中には新入生らしき浮ついたものもあった。

 と、耳をつんざくような叫び声がどこかから上がる。桔平は苦い顔で、声が上がった部屋の前に彫られた文字を確認する。「第十二組」という文字を見て、桔平は舌打ちをする。

 桔平は部屋の扉に手をかけ、勢いよく開ける。

 間抜けな顔をして目を丸めた青年が、振り向き数拍遅れて口を開く。


「……あ、君も第十二組かい?」


 青年は切れ長の目を桔平の目に合わせてそう言う。青年は硬そうな髪をきつく後ろで小綺麗に結い上げている。薄い唇が作り物のように緩く弧を描いている様は、胡散臭いとしか言えない。

 桔平はため息をつき、怠そうに話し始める。


「ああ、そうだが。というか、うるせえんだよ。外まで声が聞こえてたぞ。何があったらあんな声出せるんだよ」


 嫌味っぽい口調で言った桔平に、青年は「そうなんだよ!」と大きな声を出す。大ぶりな動きで部屋にいるもう一人を指した青年の指の先を見て、桔平はぽかんと口を開く。


女子おなごが! 女子おなごが、いるんだよ、八朔院に! しかも同組に」

「……お前、入試の時の」

「やあ、久しぶりだね。あの時の怪我はしっかり癒えたか?」


 にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた女は、桔平に手を振ってくる。桔平は、額を押さえて深いため息をつく。

 短い黒髪も、日に焼けた肌も、吊り目気味の大きな瞳も、少し太めの眉も、どこをどう見ても入試の時の女だ。


「ああ、まあ、すっかり治ったさ。で、この女がここにいることのどこが問題なんだ?」

「え、あ、いや、だから、女子おなごは普通、家で大事にされているものだろう? だから、八朔院のような場所はか弱き女子おなごには……というか、君たち知り合いかい?」


 しどろもどろになりながらそう言う青年に、桔平は畳まれずに放置されている洗濯物のように顔を歪める。じっと黙っている桔平を見て、女は焦るように青年に話かける。


「ああ、実は入試の時に共闘したんだ。それで、知り合ったというか……」

「で、お前はこの女が八朔院に入るような実力がないとでも言いたいのか? 八朔院が実力主義なのは、あの入試を受けたなら分かるだろう。その入試に受かったのなら、そこらの貴族の姫君とは質が違う女なのはすぐ分かる。それに、部外者を入れるほど八朔院の警備は甘くない」


 桔平が早口でそうくし立てると、青年は言葉を詰まらせる。何かを発しようとして口をもごもごしている青年の肩を、女はぐいっと引き寄せてしたたかな笑みを浮かべる。


「私を気に入らないかもしれない。それは仕方ない——まあ同組として仲良くありたいとは思うけど、それは一旦置いといて。ともかく、女だからといって弱いと決めつけられるのは気に入らないし、その筋合いもない」


 女がそう強い口調で言い切ると、青年は俯いて「そうだよな……悪かった」とばつの悪そうな顔で呟く。そんな青年の背中を勢いよく叩き、女は晴れやかに笑いかけた。


「そんなに気にするなよ。大体、人は誰でも間違えることがあるだろう? それと変わらないさ。それに、これから長い付き合いになるんだし、気まずい始まりは嫌だ」


 女の笑みに押され、青年は「うん……」と煮え切らない返事をする。

 その二人の会話を無視し、桔平は部屋の中に入る。部屋の隅に二人に背を向けて座り、背負っていた風呂敷を下ろす。桔平が荷物の整理を始めようとした時、女が「そうだ!」と明るい声を上げる。

 桔平が面倒くさいというのを少しも隠さない顔で振り返ると、女はにいっと笑い口を開く。


「君たちの名前を知りたい! まだ、私たちお互いの名前も知らないじゃないか。こんなんじゃ、仲良くなる以前の問題だ。えっとひとまず、私から——名は葵だ」

「僕は紫蘭しらんだ。……君は?」


 葵に続けて名乗った紫蘭は、桔平の橙色の瞳をじいっと見る。桔平は気怠げな動きで身体を二人に向きなおす。


「……桔平」


 二人がやっと聞こえるような声量でそう呟いた桔平は、目線の動きだけで二人の様子をうかがう。にこにこと先ほどから変わらない笑みを浮かべている葵に対し、紫蘭は何かを考えるように目を泳がせている。


「紫蘭、桔平! これからよろしくな」


 そう言う葵の大きな声に弾かれた様に、紫蘭は人形のように整った笑みを浮かべる。紫蘭は「ああよろしく、葵」と言ったあと、桔平に笑顔の面でも貼ってあるかのようなその顔を向ける。


「桔平も、よろしくな」


 そう言って紫蘭が握手を求めて差し出した右手を無視し、桔平はただ「ああ」と短く返事をする。紫蘭の眉が不満げに顰められたが、桔平は背を向けて荷解きに集中した。


 少ない荷物の荷解きにさほど時間はかからず、荷物の整理を終えた桔平は家から持ってきた戦術について書かれた本を開く。本自体がもう古いのもあるが、使い込まれてぼろくなっているそれを桔平は大事にめくっていく。

 決して綺麗な字とは言えず、かろうじて読めるという字で本の隙間という隙間に覚え書きがされている本を、桔平はゆっくり読んでいく。読み込みすぎて暗唱が出来るほどだが、それでも毎日のようにこの本を開いてしまう。


「ずいぶん使い込んだ本だな。勉強家なんだな、桔平」


 横から葵にそう話しかけられて桔平は勢いよく本を閉じる。桔平のその反応に「驚かせてしまったか。悪い」と眉尻を下げる葵に、桔平は首を緩く横に振る。桔平はそっと本を胸に抱き、小さく笑う。


「……譲り受けた本なんだ。昔から読んでいる」

「すごいな、桔平は。こんなに難しそうな本なのに、昔から読んでいるのか? 私なら絶対出来ない。今でさえ本を読むのは苦手なんだ。すぐ眠くなる」


 葵はお道化どけた口調でそう言う。身振り手振りが大きく、表情をころころと変えながら話す葵は、まるで役者のようだ。桔平が葵の話す様子を無表情にじっと眺めていると、紫蘭が桔平の持つ本を覗き込んでくる。


「それ、八朔院で昔使われてた教本じゃないか。……近くに八朔院出身者がいたんだね」


 紫蘭はお手本のような笑みを浮かべ、桔平の顔をじっと見る。桔平の表情の変化を少しでも逃さないという風に、まばたき一つせずに桔平の顔を見続ける紫蘭に、桔平は不快そうに目を細める。


「……だったら、何だよ」

「いいや、何でもないよ。思っただけだから」


 紫蘭は笑みを消し、ゆっくりとそう言う。丑三つ時の外の静けさのような顔で桔平を見つめ続ける紫蘭を、桔平は睨み付ける。


「……あ、あのさ、一緒に食堂に夕飯を食べに行かないか?」


 気まずそうにそう言った葵の方を、桔平と紫蘭は勢いよく見る。葵は苦笑を浮かべ、二人に再び話しかける。


「私は、紫蘭や桔平と仲良くなりたいんだ。ほら、同じ釜の飯を食った仲間とかいうだろう? あんな感じにさ……な?」


 両手を合わせてそう上目遣いに言う葵に、桔平はため息をつく。桔平は笑みの引きっている葵をまっすぐに見て、口を開く。


「同じ釜の飯を食うねえ……。俺、ここに仲良しこよしをしに来たわけじゃないんだが?」

「えっ……あ、いや……そうだけど。あ、私の言い方が悪かったよな。すまない。ただ、親しくなりたいって私が思っただけで。自分よがりな考えで、二人のことを考えてなかったよな。でも、八朔院は組制だし、仲良くするのも大事だろう? ……いい成績取りたいし」


 視線が泳ぎ、自分の首を意味もなく摑みながらそう言う葵に、桔平は氷の微笑を浮かべる。桔平は頬杖をつき、再び口を開く。


「それで? 別に仲良くあることが組制の目的ではないが? それこそ、成績がいい組でも必ずしも仲が良いとは限らない」

「その辺にしときなよ、桔平。言い方がきつすぎる。それとも、苛める趣味でもあるのかい? 何でそんなに葵を責め立たいのか知らないけど、少なくとも桔平のその行動に意味があるとは僕には思えない」


 桔平をたしなめるような口調でそう言い、紫蘭はうっすらと笑う。口元は日向のように柔らかに笑んでいるが、目は朔日ついたちの夜のように暗く冷え切っている。蜷局とぐろを巻く蛇に似た紫蘭の視線に、桔平は唇を震わせて口をはくはくと動かす。全身から力が抜けていくのに合わせて眉を曇らせ、紫蘭と葵に背を向ける。手にしている教本を緩慢な動きで開き、桔平は小さく口を開く。


「……間違ったことを言ったつもりはない。納得できないから言ったまでだ。まあ、言い方はあったとは思う。そこだけは謝る」


 意味もなく教本のページを捲って桔平は早音を打つ心臓を落ち着かせようとする。どくどくという音が耳元で鳴っているようで気分が悪い。

 紫蘭がふっと小馬鹿にしたような笑い声を上げ、桔平の目の前に立つ。身体を強張らせた桔平に気をよくしたように、紫蘭は屈んで話しかけてくる。


「もしかして、拗ねちゃったかい? 気を悪くしたようならごめんよ。でもまあ、仲良くするのは必要だと思うよ。桔平がどれだけ自分の強さに自信があるのかしらないけど、僕たちは第十二組。一番下だ。少なくとも、第一組なんて一人の力で勝てるわけないと思うけど」


 余裕たっぷりに言い切った紫蘭に、桔平は渋い顔をする。幼子おさなごにするように頭を撫でてきた紫蘭に寒気を覚えながらも、桔平は精一杯声に力を籠めて話す。


「しつこい。それに、お前が言ったことだって一意見でしかない。それを押し付けようとするな。俺らが今置かれている状況は、意見の衝突。それだけだ」

「意見の衝突? そうかな……僕には桔平がただ協調性がないようにしか見えないけど。何か間違ったこと言っているかな?」


 そう言って笑みを深める紫蘭の手を力いっぱいに払い、桔平はその場に立ち上がる。紫蘭はゆったりと佇まいを凛と正し、ぐしゃりと顔を顰めている桔平を見遣る。紫蘭は、もったいぶるように口を開く。


「図星、だったのかな? 怒ってしまったのかもしれないけど……僕は、間違ったこと言ったつもりはないな」

「し、紫蘭。その辺で収めてくれないか? え、えっと、今の紫蘭の言い方だとそれこそ桔平を責めているようにしか見えない。なんとなく、お互い様って感じがする。だから、な? あ、えっと、考え方が違うからこそ、話さなきゃいけないことってあると思うんだ。だからその……」


 紫蘭の言葉を遮り話し始めた葵は、だんだんと自信なさげに声量を落としていく。葵は頬の近くの髪の毛をいじりながら、口をつぐむ。髪を弄っていた手で自分の首を揉みながら紫蘭と桔平の様子をうかがっている葵を見て、桔平は息を長く吐き出し腕を胸の前で組む。


「だから、一緒に食堂に食べに行け、と?」

「いい考えだと思うよ。僕は賛成だ。食事で親睦を深めるのはよくある話だ」


 柔らかい口調でそう言った紫蘭に、葵は俯いていた顔を上げる。水面に浮かぶ泡が割れるような勢いで喜色になった顔で葵は、桔平と紫蘭の腕を摑む。


「そう言ってくれて嬉しいよ! あ、善は急げって言うし、そうと決まれば早く食堂に行こう!」


 葵は桔平と紫蘭の腕を引き、部屋の扉に向かう。「俺は賛成していない」という言葉を飲み込み、桔平はやんわりと葵の手から離れる。桔平は葵と紫蘭の後ろに付いて歩きながら、やけに楽しそうに食堂に向かう二人の背を桔平は見つめる。


「……お前たちが何をしたいのか、全く理解出来ない。俺なんか、放っておいてくれればいいのに」


 そう呟いた桔平の声は少し冷たい風に溶けていった。

 稜線が血のように赤く染まり、山のすぐ上に三日月が皿のようにぽっかりと浮かんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蜜柑に刃を突き立てる 碧宮かなた @aomiya_kanata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ