二
その年の二月、高等学校の記念祭の頃、
伯父はそそくさところがるようにして階段を下りて行った。ついて行くと、伯父はもう下宿の下駄をつっかけて出て了ったあとで、帳場で
一時間程して帰って来た伯父はすっかり
間もなく伯父は、もう大山へ行くのだと言い出した。何時の汽車ですと、あやうく聞こうとした彼は、伯父が決して汽車の時間を調べない人間だったことを、ひょいと思い出した。伯父は、どんな大旅行をする時でも、時計など持ったことがないのである。
彼は東京駅迄送るつもりで、制服に着換え始めた。伯父はそれが待ちきれないで、例の大きなバスケットを提げて部屋の外へ出ると、急いで階段を下りて行った。と、
表へ出ると伯父は円タクを呼んだ。どうせ文求堂に置いてある荷物を持って行くのだからと伯父は言いわけのような調子で言った。支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人が、がんじがらめにした
車が東京駅に近づいた頃、伯父は彼に向って何か早口で言った。──伯父は非常に聴き取りにくい早弁で、おまけに、それを聞き返されるのが大嫌いであった。──その時も三造は、伯父の言ったことがよくわからなかったので聞えないという風をして伯父の顔を見返した。伯父はいらだたしそうに、今度は、右手は人差指一本、左手は人差指と中指をそろえて、あげて見せた。
それから一月程たって、大山から手紙が来た。身体の工合が益々よくないこと、一日に何回も腸出血があると言うことなどが
翌日、三造は小田急で大山へ行った。その神主の家はすぐ分った。通されて二階に上ると、伯父は座敷の真中の
松田駅の待合室で次の下りを待合せている間、伯父は色々解らないことを言出して三造を弱らせた。その時伯父は珍しく旅行案内を持っていて、(宿の神主が気を利かせて荷物の中に入れておいたものであろう)それで時間を
しかし、いよいよ切符を切り構内に入って露天のプラットフォオムのベンチに、トランクにもたれ、毛布をしいて、ほっと腰を下した伯父を見た時、──沈んで間もない初夏の空は妙に白々とした明るさであった、──三造は、はっきりと、伯父の死の近づいたことを感じさせられた。円い形の良い頭蓋骨が黄色い薄い皮膚の下にはっきり想像され、
汽車の中は、場所はゆっくり取れたけれども、あいにくそれが手洗所の近くであった。伯父は、それをひどく気にして、他の乗客がその扉をあけっぱなしにすると言っては、遠慮なく罵った。三造は毛布を敷き、空気枕をふくらして、伯父の寝易いようにしつらえた。伯父は窓硝子の方に背をもたせ、枕をあてがって、足を伸ばし、眼をつぶった。茶っぽい光の列車の電燈の下では、伯父の顔にももう先刻の妙な「気」はすっかり払い落されて了っていた。ただ、そのやせた顔の
毎我出門挽吾衣 翁々此去復何時
今日睦児出門去 千年万年終不帰
〔我、門ヲ出ル毎ニ吾ガ衣ヲ
睦子とはその妹の名である。三造には漢詩の巧拙は分らなかった。従って伯父の詩で記憶しているのも殆んどないのであるが、今、次のようなのがあったのを、ひょっと思い出した。その冗談めいた
悪詩悪筆 自欺欺人 億千万劫 不免蛇身
〔悪詩悪筆
口の中で、しばらく
翌朝、大阪駅から乗ったタクシイの中で──従姉の家は
伯父を送りとどけると、三造はほっと荷を下した気になって、すぐに、ひとりで京都へ遊びに出かけた。京都には、
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