「海というものがどこかにあるらしいわ」 と水槽の人魚が言った。
春海水亭
海へ行く
「海というものがどこかにあるらしいわ」と水槽の人魚が言った。
人魚は生まれた時から、リビングルームの水槽の中に住んでいて、本来の人魚の大きさの半分どころか、十分の一……いやもっと小さかったのかもしれない。身体を自由に動かすには彼女の世界はあまりにも小さかったので、自分の身体の方を世界に合わせるしかなかった。
僕はなんだか無性に悲しくなってしまったけれど、なんでもないような顔をして「そんなことを誰が言っていたの」と聞いた。母さんは水槽の人魚に海について話すような残酷で無意味な真似はしない。当然、僕もだ。お腹が空いている人の前でごちそうの話だけをたっぷりして、そのまま去っていくようなものだ。
「……やっぱりあるんだ、海」
人魚は僕の質問には答えず、納得したようにそう言って、身体を体育座りのようにくるりと丸めて、眠ってしまった。その姿は人魚というよりも海老のようだな、と思った。
彼女が誰から海について聞いたのか、僕は気になったけれど少なくとも今は聞き出せないだろうな、と思って自分の部屋に戻った。本当は海なんてないんだよ。と言えるほど僕は大人ではなかったけれど、いつか人魚も海に行けるよ。と言えるほどの子どもでもなかった。
自分の部屋に戻っても、あるものは読み飽きた漫画とやり飽きたゲーム、見飽きた外の景色、後はボタンひとつで解除されるプライバシーと重力ぐらいだ。この部屋は泣けるほどに面白いものが何もない。窓の外から見える景色はいつも暗く、代わり映えしない。それでも何も変わらない漫画とゲームよりはマシだと窓の外を覗くこともある。
ベッドにゴロンと転がって、僕は人魚が誰から海について聞いたのかを考える。
この家の中にいるのは僕と母さん、そして人魚だけだ。お客様というものに会った覚えはない。おそらく、これからも会うことはないだろう。そもそも、もしもこの家に誰かが訪れるというのならば、人魚よりもまずは母さんに会って然るべきだろう。
気がつくと眠っていたらしい。
窓の外の景色は相変わらず暗い。太陽は時間経過を教えない。僕は時計を見た。
夕食の時間だ。
リビングルームのテーブルには缶詰が一つだけ、ぽつんと置かれている。
椅子は一つだけ、僕だけが座っている。
母さんがいつの間にか準備してくれていたのだろう。僕は缶詰を開き、もしゃもしゃと咀嚼する。食事だけはいつも楽しい。
「母さん、人魚と海の話をしたの?」
缶詰を食べ終えて、僕は母さんに尋ねる。
五分ほど待ったが返事はない。
最近は母さんもめっきり話すことがなくなってしまった。
僕はいっそのこと水槽を僕の椅子に向かい側に置こうかと思ったが、水槽は強く固定されているため、それは諦めた。
「人魚」
僕は水槽を覗き込み、人魚に声をかける。
「……ここから、出して」
「ダメだよ」
「ね、お願い。海に行きたいの」
「……無理だよ」
出来ることならば、僕も彼女の願いを叶えてあげたいと思う。
こんな狭い水槽の中ではなく、広く青い海で思いっきり泳がせてあげたいと思う。
けれど、無理なんだ。
海はとっくに枯れてしまったのだから。
僕の家は宇宙船。導くのは
滅びゆく地球を離れ、どこかにあるかもしれない第二の地球を目指して旅をしている。どこかに自然はないか、文明による通信はないか。存在しないものを目印にして。
もしかしたら、どこにも辿り着くことはないかもしれない――そんな旅をしている。
孤独な旅で狂わないように、とっさに身の回りにあるものを連れて僕たちは旅立った。あるものは犬を、あるものは猫を、あるものは人魚を、僕たちは準備不足のノアだった。いつ沈んでもおかしくない方舟に乗っていた。
「わたし、声を聞いたわ」
「声?」
「……わたしを海に誘う声」
「そんなの――」
聞こえるはずがない。この家には僕と母さんしかいない。
その時、母さんの声がした。
『船……外……ニ……反……応……』
ノイズにまみれた聞き取りづらい母さんの声。
僕は船外ディスプレイを確認する。
家の外で人魚が泳いでいる。
否、人魚といっていいものなのかはわからない、下半身は蛸のそれによく似ている。
「……わたし、海で思いっきり泳いでみたいわ」
結局、僕は彼女を星の海に送り出した。
一人は寂しいけれど、水槽から出たい気持ちはよくわかるから。
彼女は蛸の人魚に手を引かれ、徐々にその大きさを増していく。
僕は宇宙をさまよう水槽に取り残され、旅を続ける。
水槽越しに見る星の海に、身投げをしてしまいたくなるような衝動を堪えながら。
「海というものがどこかにあるらしいわ」 と水槽の人魚が言った。 春海水亭 @teasugar3g
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