Playball.9 生徒たちの旅立ち

 試合終了後、両校のキャプテン、つまり札幌農学校の佐藤昌介、日々学校の堀節子ががっちりと握手をして、この試合は終わった。


 ペンハローは、この結果に非常に満足しており、両校の選手たちを並べて、英語で流暢なスピーチを告げた。

「いい試合だったね。男女でやると、どうしても男子がフィジカルで勝るから、女子を怪我させないか、心配だったけど、フェアな試合だったよ」

 それが、札幌農学校の彼らの中に「武士」がいたから、卑怯な振る舞いを嫌うがゆえに自然にそのように振る舞っていた、とは彼は気づかなかったが。


 一方、泣いている生徒たちを励ますように、笑顔で迎えたのは、日々学校を率いていた、ハリスだった。妻のフローラと共に、彼女たちに諭す。

「泣かないで下さい。とてもいい試合でしたよ。フィジカルで劣る女子が、ここまでナイスな試合をするとは、正直、思っていませんでした。これもあなたたちが努力したからです」

 リーダー格の堀節子が、中でも一番悔しがっていたが、そんな彼女の肩を軽くた叩いたのは、フローラだった。


「節子。あなたは自分のことを誇っていいわ。これから、この国ではベースボールが盛んになる。その発端をあなたたちは、作ったのかもしれないもの」

 節子が涙に濡れた表情のまま、泣き笑いのような笑顔をフローラに見せていた。


 とにかく世紀の一戦はこうして、男子が勝って終わったが、予想外の3-2という辛勝に終わったのだった。


 もっとも、当時は、ある意味、男女不平等の全盛期。


 男が前に出て、女は一歩引くどころか、三歩くらい下がって、後についてくるのが、「大和撫子」らしいと言われていた時代。


 当然のことながら、この試合全般が地元の新聞社に取り上げられれることもなかったし、もちろん歴史に残ることもなかった。


 だが、教師たち、つまりアメリカ人にとっては、そんなことは関係がなく、男女平等を願い、同時にフェアプレーによる、日本での野球の試合を望んだため、この試合が実現したのだ。


 彼ら札幌農学校の生徒たちや、関係者のその後の進路は、野球とはまったく関係がないものだった。


<一期生>

 伊藤一隆。

 彼は、札幌農学校の卒業後に、開拓使の役人になり、北海道庁が発足すると、初代水産課長に任命される。

 生涯の大半を行政に携わり、北海道庁を退職するまで、北海道の水産業界の発展に尽力したという。

 昭和4年(1929年)、69歳で亡くなっている。


 大島正健。

 札幌農学校の卒業後に、同じく開拓使の役人になり、その後札幌農学校予科教員となり、和漢学・地理学を担当。伊藤一隆の妹と結婚している。

 その後、札幌独立教会から牧師に任命されたが、按手礼を受けたことで、独立教会内部の反発を受け、札幌を離れる。

 明治25年(1892年)。かつての同窓で、札幌農学校の教授となっていた佐藤昌介から牧師と教員の兼務を諫められ、牧師を辞している。

 その後、関西や甲府、宮崎や朝鮮半島の京城に教師として赴任。宗教家・教育者・言語学者として活躍。

 昭和13年(1938年)、79歳で亡くなっている。


 佐藤昌介。

 札幌農学校の卒業後に、同校の助手に就任。その後、教授を経て、明治27年(1894年)、札幌農学校校長に就任。

 明治32年(1899年)に新渡戸稲造らと共に、日本初の農学博士の称号を授与されている。

 明治40年(1907年)、東北帝国大学農科大学学長に就任。大正7年(1918年)、同大学が北海道帝国大学に移行したため、その初代総長に就任した。

 札幌農学校を帝国大学に昇格させた人物であり、「北大育ての親」とも呼ばれている。

 大正15年(1926年)、旭日大綬章を受賞。

 昭和14年(1939年)、82歳で亡くなっている。


<二期生>

 新渡戸稲造。

 明治13年(1880年)、眼病を患った彼は、卒業を待たずに、故郷の盛岡に帰ってしまうが、母が亡くなってしまい、うつ病を発症。

 札幌農学校卒業後は、北海道庁に採用され、さらに帝国大学に進学。

 明治17年(1884年)には、アメリカに私費で留学。さらにその後は、ドイツの大学に留学し、農業経済学の博士号を取っている。

 有名な名著「武士道」を英文で書き上げ、明治33年(1900年)に刊行。やがてこれがドイツ語、フランス語などに翻訳され、ベストセラーになる。

 その後は、台湾総督府の技師になったり、様々な大学の教授を務め、大正9年(1920年)には、国際連盟の事務次長に就任。

 かつての五千円札に描かれた人物としても知られている。

 昭和8年(1933年)、72歳で亡くなっている。


 内村鑑三。

 明治14年(1881年)、札幌農学校を主席で卒業し、北海道開拓使民事局勧業課に務め、水産を担当。

 勤務の傍ら、札幌に札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を建てた。

 その後は、伝道者になるため、職を辞して、牧師になり、結婚もするが、すぐに離婚。

 明治17年(1884年)には、私費でアメリカに留学したが、アメリカの拝金主義、人種差別の流布した現実を知って幻滅したという。

 その後は、様々なところで教員や新聞記者になり、晩年には非戦論を展開したり、聖書を改訳したりしている。

 昭和5年(1930年)、69歳で亡くなっている。


 宮部金吾。

 札幌農学校の卒業後に、開拓使の役人になり、明治14年(1881年)、開拓使より東京大学へ派遣される。

 明治16年(1883年)、札幌農学校助教に就任し、植物の研究を始め、日高地方・北見地方・千島列島に及ぶ調査を実施。

 明治19年(1886年)には、植物学研究を目的として、ハーバード大学に留学。帰国後は、札幌農学校教授となり、植物園主任に就任する。

 昭和2年(1927年)退官。同年、北海道帝国大学初の名誉教授になる。

 昭和26年(1951年)、92歳の長寿を全うし亡くなっている。


<教師>

 デビッド・P(ピアース)・ペンハロー。

 1878年に発生したヒグマによる人身事故「札幌丘珠事件」の際は、学生たちを率いて加害熊の解剖実習を担当したという。在任最後の1年はウィリアム・ホイーラーの後任として教頭心得を務めている。いわゆる「クラークの弟子」と言われる第一期生を入学から卒業まで見届けた外国人教師はペンハローただ一人だった。

 1880年に帰国後はハーバード大学サマースクール、ホートン農場試験場勤務を経た後、ハーバード大学教授エイサ・グレイの推挙により、1883年マッギル大学植物学講師となり、翌年教授となった。

 1910年,病気療養のためイギリスに向かう船上で56歳で亡くなっている。


 メリマン・C(コルバート)・ハリス。

 1882年に夫人の病気治療のためにやむなく日本を離れたが、メソジスト監督教会の太平洋ハワイ方面の宣教師として働いたという。

 アメリカ合衆国では笹尾鉄三郎、河辺貞吉、松岡洋右などの、太平洋沿岸の日本人を信仰に導き、それらは、「ちいさき群」と呼ばれた。

 日本人排斥問題に際しては危険を冒して同胞のために尽くした。同地の日本人からはハリスは父、妻フローラは母と称せられたという。

 1904年、日本及び朝鮮の宣教監督に挙げられ再び来日し、死に至るまで日本および日本人を心から愛した。妻フローラは、『土佐日記』を訳している。

 彼女は讃美歌作家でもあり、讃美歌343番『こよなき恵みの』を作詞したり、詩集も出版している。夫人は1909年に日本で夫に先立って逝った。1916年、ハリスは勲二等に叙せられた。

 1919年、フローラの姪に当たるエリザベス・ベスト(Elizabeth Best)と再婚し、2人は青山学院構内に新築されたハリス館に住んだ。

 1921年、75歳でハリス館で亡くなった。


 彼らは、いずれも「学問」を志し、明治から大正にかけて、活躍の足跡を残しており、デビッド・P・ペンハローを除き、彼らの経歴のどこを見ても「野球」をやったという形跡は見当たらない。

 

 ただ、歴史書は、確かに記している。

「明治10年(1877年)、札幌でベースボールが行われた」

 とだけ。


 そして、当時、北海道において、野球のボールとバットを持っていたのは、少なくとも札幌農学校に務めていた、デビッド・P・ペンハローだけだということだ。


(完) 

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北海道ベースボール事始め物語 秋山如雪 @josetsu

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