アオイの秘密
照明の落とされた夜の図書館で何か探しているのか、暗闇の中をきょろきょろしながら、でもどこかしっかりとした足取りでアオイは図書館の廊下を進んでいる。
どこか目的地があるようだ。
夜の図書館に何の用だろう?
いや、待て待て、そもそもなぜアオイが夜の図書館に侵入しなきゃいけないんだ?
私の心の中で疑問が泡のように湧き、疑問と疑問がぶつかり合いパチパチと音をたてる。
アオイは私の転がっている机の前に来ると、パチパチとはじける私の疑問に応えるように口を開いた。
「こちらにいらっしゃったのですね」
誰に声をかけたのだろう。
私は周りを見渡してみる。
誰もいない。
暗闇の中で図書館の空調設備が引きずるような重低音が響くばかり。
アオイの目線の先には私、タカシさんに使い古されたなんの変哲のないペンが机の上でコロリと転がっている。
もしかして私に声をかけた?
いや、ないない。
私はしがないボールペンですもん。
人間であるアオイに私の声が聞こえるはずが…。
「はい、聞こえています」
…。
マジ?
「マジです」
本当に?
「本当です」
ぜーんぶ筒抜け?
「ぜーんぶ筒抜けです」
…。
一瞬の静寂。
一歩遅れて私の心臓が跳ね上がった。
いや、心臓なんて私にはないのだけれど、心臓がはねたように感じた。
心臓が氷漬けにされたかのような緊張が私を襲う。
予想外の反応。
いや、予想なんてできるはずがない。
私の声が人間に聞こえるなんて。
ましてタカシさんの元恋人に看破されるなんて。
信じられない。
信じられないけど、私はアオイに対して興味がわいた。
ではなぜアオイには私の心の声が聞こえるのだろう。
気になる。
度を越した驚愕を経験すると、すうと海にもどる波のように、ヒトはかえって冷静になるようだ。
まあ、私はヒトではないのだけれど。
私はアオイの口から出る言葉が早く知りたくて、彼女が口を開くのをじっと静かに待った。
「私ね、人間じゃないの」
アオイは静々とわたしの前で独白した。
人間じゃない?
どういうことだろう。
わたしの声が聞こえることと、どんな関係があるのだろう。
「性格には"人外のものから人間に変身した"っていった方が正しいかな」
人外のもの?
「順を追って説明するね。昔、私もあなたと同じ、意思を持った物だったの」
物。
その言葉が私の心に深く突き刺さった。
「私が初めて意思があると自覚したの雑貨屋の中。私の前世は櫛だったの。櫛ってわかる?女性の長い髪をお手入れする道具。櫛を使って長い髪をすいて、髪のほつれをほどいて髪をさらさらにする。私はその櫛に生まれたの」
アオイはぽつぽつと過去を語っていく。
櫛。
私はその言葉を反芻してみる。
アオイはかつては櫛で、人間に使われる道具だった?
とても信じられない。
でもそういうことなのだろう。
物だったものが人間になったということか。
私はアオイに問い詰めようと口を開きかけたが、その言葉は私の心の中で重く沈殿し、次の句を紡ぐことはできなかった。
なぜなら、伏し目がちに語る目の前のアオイの姿は、主人を失いさまよっている子犬のように冷たく青かった。
ここは話を聞くべきだ。
そう思わせる寒々しい何かがアオイを包み込んでいた。
「雑貨屋さんでの生活は長かったわ。私はてんで売れなかったの。一年くらいかしら、私はずっと 雑貨屋のショーウィンドウに飾られていたの。私の前をいろんな人が通り過ぎて行ったわ。華やかな女子学生さん、長い髪がステキな大人のお姉さん、ヘアスタイリストを目指す若い娘さん。でも私を手に取ってくれる人はいなかった。だから私、その頃ノイローゼに悩まされていたの。私は誰にも必要とされていないんじゃないかって。そして人間に必要とされない道具のたどる末路なんて悲惨なものじゃん?在庫処分よ。私はそんな不安を抱えながら、夜な夜な店の窓ガラスから見える小さな月が雲に隠れるのを、ひたすらボーと眺めていたの」
その辛さは私にもわかる。
興味をもたれず素通りされ、ただそこに存在するだけの心持ちは、身が切られるように辛い。
「そんな時だったわ、あの子がお店に訪れたのは。お人形を持った小さな少女がね、私の目の前で立ち止まったの。母親と手を繋いで入店してきた子で、小さな顔にクリクリとした大きな目がキラキラしていたわ。じっとわたしを見た後、その子は私のことを指さして『あれ欲しい!』って、母親におねだりしたのよ。嬉しかったわ。人の手に取られたこともなかったんだから。私は晴れてその女の子の持ち物となったのよ。その子の名前はキッカちゃん。お花とおしゃれが大好きな女の子だった」
キッカちゃん。
漢字で書くと、菊花。
黄色くて、すっとまっすぐ立った姿は凛としていて、秋に盛りを迎えるきれいな花。
無邪気で、まっすぐで、笑顔が絶えない、人を惹きつける健気な少女の姿がぼんやりと思い浮かんだ。
「キッカちゃんはね、ずっと私を大切に扱ってくれたのよ。毎朝鏡の前で私を使って髪を整えてくれた。彼女はね、ポケットに私をしまっていろんなところに連れて行ってくれたの。公園にも連れて行ってもらった。学校にも。そして行く先々で私を使って髪の毛を好いてくれたの。嬉しかったわ。日々ヒトに使われることが、こんなに私の心を満たしてくれるなんて、知らなかった。あの子の持ち物になってから、私の運命は変わったの」
そう言って、アオイは遠くを眺めるように目を細める。
その姿はまるで、届かないと知りつつそれでもなお、星の光に手を伸ばしているかのように寂しげだった。
「あの頃は楽しかったわ。あの子は私のことをちゃんと大切に扱ってくれて、私をいろんな場所に連れて行ってくれたの。私はキッカちゃんと出会えて幸せだった。ずっとこのままでいいと思っていた。でもね、いつしかこう考えるようになったの。いつか私も人間になれないかなって。あなたも思ったことあるでしょ?あの子の顔をむぎゅーて抱きしめたい、あの事手をつないで外を歩きたい、あの子を膝の上にのせて髪の毛をすいてあげたい。私の世界はキッカちゃんがすべてで、キッカちゃんの世界は私のすべてだった」
絶句。
言葉が出てこない。
私と同じことを考えていた人物がほかにもいたなんて。
たしかにタカシさんをぎゅっと抱き寄せてることができたら、手をつないだり、からめたり、時には彼の耳元で本音を囁いたりすることができたらと、考えない日はなかった。
彼に触れ、寄り添い、ささやき、ふれあうこと。
それをずっと私は夢見てきた。
私は目の前にいる娘を見上げた。
前世を人間になりたかった道具であると告白したその娘を。
そしてその目をのぞき込む。
やはりわからない。
彼女は人間になりたかったと言った。
そして現に目の前にいる女性はまごうことなき人間である。
ではなぜ、全てを叶えたであろうアオイは、こんなに苦しそうな顔をして私と向かい合っているのだろうか。
「夢ってね、願うと叶うものなの。つくも神って知ってる?長いあいだ人の手で大事に使われた道具には命が宿る精霊。キッカちゃんが大事に大事に私のことを扱ってくれたから、私はつくも神として命を授かることができたの」
どうやって命を授かったの?
それは知りたい。
私も人間になれるのだろうか。
なりたい、彼女のように。
「神様がね、くださったの。今のあなたと同じように、キッカちゃんが公園で遊んでいたとき、私を落としてしまったの。そういうことは初めてで、もう二度とキッカちゃんに会えないんじゃないかって不安だったわ。でもね、誰もいなくなった公園で、じっと地面に放置された私のもとに、一人の女神様が現れたの。比喩じゃないの。本物の神様。純白の絹輪まとい、ブランドの髪は風でなびいていた。そしてその神様は暖かい光で包まれていた。女神様が私にね、『あの少女のもとへ無事に帰れるよう、あなたに新しい命を授けよう』って言って命をくださったの。そして『その体で、あの少女のもとへお帰り』って、体までもらったの。嬉しかったわ、その時は。言葉で言い尽くせないくらい、嬉しかった。私は鳥が空を飛ぶよりも早く、キッカちゃんの家へ向かったわ。でもね…」
でも?
そのときアオイに何があったのだろう。
この話を聞く限り、アオイと少女が出会ってハッピーエンドではないのか。
アオイの顔を仰ぎ見る。
アオイは、ごめんなさいもう昔のことなのにねと、浮かべた涙をすっと指でぬぐった。
「でもね、私が行った時にはもう遅かったの」
遅かった?
「キッカちゃんの両親は花屋を営んでいてね、家を改装してお花を売っていたの。キッカちゃんもよく両親のお手伝いで、お花を売ったり、花束を包んだりしていた。あの子はね、両親のお手伝いをしながら、夢はお花屋さんで働くことだと言っていたわ。だから私はキッカちゃんのお店へ急いで向かったの」
花屋の娘。
花屋の娘って確か…。
「そう、交通事故でね、亡くなっていたの」
やっぱり。
「私が駆けつけた時にはもう、トラックに引かれた後だった。私はそのとき初めてキッカちゃんの手を握ったの。初めて手と手を触れ合ったその瞬間は、温かみを時徐々に失う彼女の手だった。私は動かないキッカちゃんを抱きしめて、頭を優しく撫でてあげたの。彼女の顔は擦り傷でいっぱいだった。雨なんて降っていないのに、キッカちゃんの顔は私の涙でびしょびしょだった」
ぐすっと、一粒のしずくがアオイの瞳からこぼれる。
頬をつたうそれを指で拭うと、アオイは自分を落ち着かせようとふうーと深く息を吸った。
「人間になったわたしはそれからどうしたかというと、私はキッカちゃんの両親の営む花屋で働くことになったの。それ以外やることもなかったし、行き場もなかったから。それからずっと花屋で働いていたわ。休んだり暇な時間ができると、キッカちゃんの顔が思い出されて、また悲しくなるから、私は休む間も無く働いたの。キッカちゃんを失った悲しみで溺れかけていたわたしの元にタカシさんが現れたのはそんな時だった」
タカシさん。
その言葉を聞いて胸がぎゅっと熱くなる。
まあ、私には胸なんてものはないのだが、タカシという言葉は私の心を温かくしてくれる。
「これまでも不幸な私に優しい言葉をかけて励ましてくれる人は少なからずいたのだけれど、みんな言葉だけで通り過ぎて行ってしまうの。タカシさんは違った。彼はね私にずっと寄り添ってくれたの。彼は言葉じゃなくて、時間で私を癒してくれたの。そんなこと初めてだった。仕事をしていない暇な時間を彼と過ごすと、悲しみとか寂しさとか忘れることができたの。嬉しかったわ。言葉にするのは難しいくらい、嬉しかった。私はいつしかタカシさんに会うのが楽しみになったの。彼と一緒にいると身が押しつぶされそうな辛い切なさを忘れることができたから」
わかる。
タカシさんはそういう人だ。
無意識に人を和ませる力があるのが彼だ。
「でもね…」
ここで、アオイの声のトーンが落ちる。
そして彼女は困ったように顔をふせ、ちからなく私にむかって独白した。
「彼のそばにはあなたがいたの。あなたは彼の胸元で愛を叫んでいたの。この世界で彼を一番愛しているのは自分だって、あなたは叫んでいたわ。だから、私は早い段階で気がついたの。私なんかが出る幕じゃなかったんだって」
そんな。
私はそんなことを…。
「言ってたわ!あなたの叫びを聞いて、あなたと彼のあいだに割って入るなんてできっこない。できないのよ。あなたは彼を愛していて、私は彼を奪おうとしているのよ。大事なものを失う苦しさは知っている。だからこそ、できないのよ…」
アオイは湯玉のような熱い涙とともに、血がにじむような言葉を身を引き絞るようにして語った。
彼女の熱い熱い涙は、消火栓の赤いランプに照らされ、まるでいく筋もの光を反射する赤いルビーのようにきらきらと宙を舞い、そして輝いた。
少しわかったような気がする。
輝くものを追いかけて掴みとったそれは、宝石なんかじゃなかった。
アオイが掴んだそれは、手にしたら砕けて溶けてしまうような氷の結晶だったのだ。
「私なんていなければよかったのよ。キッカちゃんという存在を失ったときに、私も彼女とともに消えてしまえばよかった。そうすれば、こんなに苦しむこともなかったし、こんなに嫉妬することもなかったもの」
それはアオイの心からの叫びだった。
アオイは言いたいことを、一息ですべて吐き出してしまったのか、胸を上下させて私を力ある目線で見つめている。
その目は嫉妬や羨望、諦念、絶望、そして免罪といった、紅くて暗い感情が渦巻いていた。
私はというと、身にふりかかる不条理に顔をゆがめる彼女を、ただ言葉なく眺めることしかできなかった。
この場合、何か彼女に言葉をかけるべき何のだろう。
不幸ばっかり数えないで!とか、あなたを必要としている人は必ずどこかにいるじゃないか!早まらないで!とか、いろいろ。
そして、そう言うべきで、それをするべきなのが正解だってこともわかっている。
でも、声を出すことができなかった。
こんなにつらい目にあっているのに、こんなにもがき苦しんでいるのに、私はアオイがうらやましくてたまらない。
私はこんなに人を羨ましいと思ったことは、生まれて初めてだ。
アオイが熱く熱く思いのたけを私に告白するたびに、私の心はひやりひやりと指数関数的に静かに遠くなってゆく。
「だから私、命をあなたにあげようと思うの」
アオイは静かにそう言った。
涙の果てたアオイの瞳は、夜の湖を覗きこむかのように、ただただ暗く果てしない。
ただ、寂しいだとか悲しいだとか、そういったアオイを覆う切ない感情が、痛いくらいに私の心に突き刺さった。
静々とアオイが胸に両手を当てると、彼女の胸元がぼうっと、淡い青色に輝き始めた。
その胸の光は、青い炎のようにゆっくりと揺れている。
まるで小さな生命がゆっくりと鼓動しているみたいだ。
アオイは胸元から取り出した青い光を両手に乗せ、私の前に差し出す。
いや、待て待て、そういう展開は考えていなかった。
え、つまり?
アオイが命を差し出し、それを私が受け取るということは、アオイはどうなってしまうんだ?
「これが私に人間の体を与えてくれた命の光です。これをとりこめば、あなたは人間になれます。お願いします。どうか受け取ってください」
いーーーーーや、いやいやいやいやいや!
できない。
できるわけない。
命を受け取るということはつまり、アオイがこの世から消えてしまうことを意味しているはず。
うん、そうだ、間違いない。
そんな殺人まがいなこと、できるわけないじゃないか。
「受け取ってください。私は自由になりたいんです。自由になって、天国にいるキッカちゃんに会いに行きたいんです。お願いです。私を解放してください。私はこの命を持っているかぎり、地上につなぎ留められたままなんです。私を縛るこの鎖をどうか断ち切ってください。そうすれば私は思う存分、愛しい人のもとへ羽ばたいていけます。私の乾ききった心にはキッカちゃんが必要なんです。タカシさんじゃダメなんです。あなたがタカシさんを必要とするように、私のハートにはキッカちゃんが必要なんです」
アオイは切実に我が心情を打ち明ける。
私を見るアオイの目は真剣だ。
私はアオイじっと見て、それから彼女の言い放った言葉を、ゆっくりと咀嚼して、それからじっくりと時間をかけて嚥下した。
アオイには言いたいこと、聞きたいことがいっぱいある。
アオイに対するいろんな言葉がのど元までせりあがってきたが、ぐっと我慢して、私は彼女に一つだけ質問を問うた。
あの子に会いたい?
コクリ。
アオイは間断なくうなずいた。
両手を机について、私を見据えるアオイの瞳。
あと残るは、私の覚悟だけ。
本当に大丈夫なのだろうか。
不安とちょっぴりの期待とが、ぐるぐると私の心の中で渦巻く。
よし、覚悟を決めた!
あとは野となれ山となれだ。
グダグダ言ってもしょうがない。
アオイ、君の気持ち、しかと受け取った!
あと腐れなくその命、私に預けるがいい。
さあ、私にその命を頂戴!
悔いのないよう、一生この命を使い倒して見せるから!
すると私が心を決めた瞬間、アオイと私のあいだで、青いくてまばゆい閃光があたり一面を覆いつくした。
閃光はあたりの影という影をねこそぎ塗りつぶしてゆく。
まぶしい。
直視できない。
青い光はどんどん大きくなる。
あたり一面が青白い光に包まれた。
かろうじてアオイの、長い長い夜が明けたような、晴れ晴れとした顔がうっすらと確認できた。
そして、アオイの唇が優しく開かれる。
「(ありがとう)」
そう、つぶやいたように感じた。
そして、ふわりと優しくほほ笑むと、徐々にアオイの姿は青白い光に塗りつぶされ、夜明けの太陽が星の光を追い払うように、その姿は徐々に消えていった。
私はその青白い光の中で、あるがままに身をゆだねていたが、アオイの姿を見送ったあと、ゆっくりと意識を手放していった。
これが私の持っている、ペンとしての最後の記憶である。
〈注〉
ただ今、続きを執筆中です。
書き終わり次第、随時、Twitterにてお知らせいたします。
Twitterユーザー名 : @Kotonohatyosyo
Twitterアカウント名: コトノハ・ライブラリー(ことはたびひと)
小説家とペン ことはたびひと @Kotoha-Tabihito
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