不協和音

タカシさんとアオイがたまに付き合うようになって半年。

 秋はとっくに過ぎ、世間は真冬の凍てつく寒さに包まれていた。

 今日のタカシさんはたぶん彼の人生で一番と言っていいほど落ち込んでいた。

 無理もない、アオイに振られたのだから。

 今日は初めてのアオイとのデートの日だった。

 そうとうウキウキワクワクしていたに違いない。

 おしゃれなんて言葉を知らないタカシさんが、野暮ったかった彼の髪はきちんと整え、慣れない手つきでジャケットを着こなし、何度も試供品を試して購入した香水をつけている。

 それだけでタカシさんの天に舞うほどの浮かれ気分がわかるというのに、何度も失敗しながら鏡の前で告白の練習をするタカシさんの姿を発見した時は、さすがにタカシさんにゾッコンの私ですら少し呆れてしまった。

 帰路に着いたタカシさんはというと茫然自失。

 部屋の窓辺に寄りかかり、夜の街並みを呆然と眺めていた。

 タカシさんの瞳から涙がほろりと線つたう。

 それは花びらを濡らす雨粒のように、ほろほろと落ちていった。

 鼻歌混じりのるんるんだった昼間とは雲泥の違いである。

 ああ、もう!

 私が人間だったらどんなに良かっただろう。

 私が人間になりたいとどんなに望んだことだろう。

 もしも私に腕があったら、悲しみに暮れるタカシさんをぎゅっと抱きしめてあげるのに。

 そして、タカシさんの頬をつたう涙をそっと指でぬぐってあげるのに。

 耳元で暖かい言葉をささやいてあげるのに。

 泣かないでタカシさん!

 私はあなたが涙を流す姿なんて見たくないの。

 ああ、あなたに触れたい。

 声をかけたい。

 心の中で私は叫ぶ。

 でもできない。

 私はペンで、彼は人間だから。

 静謐な夜の下、寂しそうに涙を流すタカシさんを、私は物音を立てず静かに眺めていることしかできなかった。

 

 失恋したタカシさんを見守るのは辛かった。

 タカシさんはアオイとの未練がいまだ断ち切れないのか、彼女と最後に会った日を過ぎても彼は図書館に通い執筆活動を続けていた。

 あれからタカシさんはアオイと会っていない。

 タカシさんは図書館からの帰りぎわ、遠くから花屋で働くアオイの姿をぼんやりと見つめてから、ふるふると首を振って家路についた。

 花屋で働くアオイの方はというと、建物の陰で陽の光を手探りで探す花のように、どこか寂しげでしょんぼりしているように見える。

 そしてタカシさんの姿を見つけると、アオイは身を切る寒さを耐えるかのように、顔を歪めうつむくのだった。

 タカシさんを見た彼女の表情は、後悔だとか罪悪感というような自責の念というよりは、暗闇で救いを求める弱者のような光にすがる思いに覆われているように見える。

 もちろん、苦しさを耐え忍ぶような彼女の表情の中に、タカシさんと別れてしまった後悔だとか罪悪感だという感情は少なからず存在するだろう。

 でもそれ以上に、彼女の表情には救いを希求するような渇きが救っているように見えるのだ。

 どういうことだろう、これは。

 アオイにとっての救い、もとい光とはタカシさんなのではないか。

 なんのためにアオイはタカシさんと別れたのだろう。

 謎である。

 タカシさんと顔を合わせなくなって、アオイはタカシさんよりも苦しんでいるように見える。

 タカシさんを振るのならせめて、彼女は楽しそうに毎日を過ごしてほしいものだ。

 そうなれば別れを告げられたこちらも納得できるのだが。

 胸ポケットからタカシさんを仰ぎ見る。

 タカシさんはアオイから視線を引き剥がすように顔をそらす。

 アオイから目をさらすその一瞬、彼のその目が少し影を浴びたような気がした。

 その目は何を語っているのだろうか。

 知りたい。

 楽しいときも、悲しいときも、私はずっとタカシさんとそばにいたい。

 そして彼の浸る喜びも彼の抱える悲しみも、全て受け止めたいのだ。

 タカシさんを仰ぎ見て私はそう思う。

 タカシさんは手をポケットにつっこみ背中を丸めて、寒さで白くなった息をたなびかせて歩き出した。

 彼の後ろでアオイが呆然とタカシさんの姿を追う。

 彼女は何がしたかったのだろうか。

 わからない。

 が、もうこれ以上タカシさんを傷つけないでほしい。

 本当だ。

 私は彼女に忠告することもできない。

 私はタカシさんの胸ポケットで、どうか彼がアオイのことを早く忘れますようにと祈ることしかできなかった。

 

 ある夜。

 タカシさんは図書館からの帰り際、いつもそうしているように遠くからアオイの仕事姿を、なんともなしに眺めていた。

 タカシさんの目線の先、アオイはというと悲しそうな調子で鼻歌を歌いながら仕事にいそしんでいた。

 彼女の口ずさむもの悲しいエンドロールのような鼻歌が、風邪に乗って私たちの耳にかすかに触れる。

 その鼻歌は、水の中に沈んでいくような、重々しい声音をおびていた。

 タカシさんは彼女の口ずさむメロディーが、聞こえるか聞こえないかくらいの距離で、しばらくそれに耳を傾けている。

 彼女の口ずさむ鼻歌は、バッハのト短調のフウグらしかった。

 一つのメロディーが繰り返し繰り返し演奏されることで、曲調が少しずつ変化してゆく音楽だ。

 しばらくそのメロディーに聞き惚れていたタカシさんだったが、日が沈み影が伸びてくると、彼はアオイに背を向けて歩き出した。

 道すがら、タカシさんもアオイと同じ、バッハのフウグを調子ぱずれな音程で口ずさんだ。

 タカシさんの口ずさむフウグは、変わることなく同じメロディーを永遠にループしていた。

 そして曲調が変化しないまま自宅の玄関にたどり着く。

 同じメロディーをただループする彼のバッハのフウグが、彼とアオイの埋まらない距離感を暗に意味しているように感じて、気が重くなった。


 タカシさんがアオイと別れて2カ月ばかりの月日が流れた。

 世間のうら若き学生たちがバレンタインのチョコレートを我がものにせんとしのぎを削る2月の上旬、未だかつて起こりえなかった稀有が私の身にふりかかった。

 タカシさんが図書館に私を置いたままタカシさんは家に帰ってしまったのである。

 1月の内に今年度の大学の授業をすべて完遂したタカシさんは、余りある春休みを利用して朝早くからこの図書館に訪れていた。

 私を力強く握り息をするのも忘れる勢いでこの静かな図書館で黙々と小説を執筆していたタカシさんだったが、陽は傾き図書館の閉館時間が迫った夕暮れ、なかなか席を立たないタカシさんに業を煮やした図書館の館長が急き立てるようにして彼を図書館から追い出してしまった。

 険のある仏頂面をしている館長の前で、机に広げた原稿や筆記用具などをバタバタと掴んではカバンの中に押し込みペコペコしながら、逃げるようにして図書館を後にしたタカシさん。

 そのとき、どさくさに紛れて私はタカシさんの手から滑り落ちてしまった。

 そのとき私はカランカランと我ながら大きな音を立てて机の上に落下したと思う。

 しかし、早く立ち去らなければと切羽詰まったタカシさんの耳にはその音は届かず、私は図書館の机の上で彼が背中を向けるのを声もなく眺めることしかできなかった。

 タカシさんが私を忘れるなんて。

 考えられなかった。

 心がすうと冷える。

 今頃彼はどうしているのだろうか。

 家で必死に私を探しているのだろうか。

 そうであってほしい。

 もしかしたら私のことなんか気にせず手持ちのペンで原稿を仕上げているのかもしれない。

 そうなると私はー。

 いや、考えない。

 考えたくない。

 日は沈み夜に包まれた図書館の中で、ドアを施錠する金属音が断続的にこだましている。

 カチ、カシャ、ガシャン…。

 遠くでくぐもったドアロックの音が響く。

 その音が誰もいない密室に私を閉じ込める音のように聞こえて、私をひどく不安にさせた。

 その密室では私がどんなにタカシさんのことを望んでも、私は彼に触れることは叶わないし声も届かない。

 その部屋で私ができることといえば、ドアにつけられた小さな鍵穴を通じてしかタカシさんを垣間見ることがだけ。

 パチッ。

 ついに図書館の照明が落とされた。

 図書館員は仕事が終わりもう帰ってしまったのか、人の気配はしない。

 館内は息をひそめるかのような暗闇に沈む。

 不安だ。

 とても不安だ。

 図書館の静寂と暗闇。

 私の中で渦巻く諦念と絶望。

 図書館の夜はまだ始まったばかりだ。


 図書館に建て付けてあるピーピーピーとカン高い電子音を放った。

 時刻は夜の12時をまわったらしい。

 タカシさんが図書館を慌ただしく立ち去ってから6時間の時が経過していた。

 夜の図書館は相変わらず静かで、消火栓のセンサーがチカチカと細い光を点滅させているのを除けば、動くものなんて何一つない。

 時間だけがゆっくりと流れていく。

 図書館の中は報道されていた気温よりもひどく寒く感じられた。

 思いがけずタカシさんと離ればなれの時間を過ごすことになり、私は物思いに沈んでいた。

 タカシさんと一緒にいると、唯一無二の一瞬を彼と共に過ごしていることに満足していて、過去を振り返る余裕なんてなかった。

 タカシさん離れてみて改めて彼との日々を思い出す。

 そして考えてしまう。

 タカシさんと一緒にいるといろんなことを考える。

今まで考えたことのないことを考え、思いもしなかったことを思ってしまう。

 彼と初めて出会ったとき、私は感動した。

 彼がスランプに陥ったとき、彼が苦しんでいる姿を見たとき、彼と同じ苦しみを味わっているかのように私は感じた。

 彼に恋人ができたとき、それを自分のことのように私は喜び、そして嫉妬した。

 彼が破局を迎えたとき、ずっと彼のそばにいたいと心から願った。

 不思議だ。

 何かを考えるたび、何かを思うたびに、私は自分が日々変化していく不思議な感覚を覚える。

 そして、ふとしたきっかけで新しくなった自分に驚くのだ。

 私はこんなことを考えるのかと。

 私がタカシさんの思い出を噛み締めていると、暗闇に沈む図書館の空気がわずかに振動したように感じた。

 なんだろう。

 動けない体で気配を探る。

 暗闇で影が動いた。

 火災報知器のチカチカが一瞬、黒い影で遮られたのを目撃する

 間違いない。

 誰かいる。

 カツ、カツ、カツ…。

 図書館の中でカン高い足音が響く。

 その足音は徐々に大きくなり、私の周りに漂う緊張の濃度が上がる。

 こんな真夜中に夜の図書館に訪れるなんて、普通じゃない。

 泥棒だろうか。

 その割には足音を隠そうとするそぶりがなく警戒心が薄い。

 では、泥棒ではない?

 じゃあ誰が?

 私の中で疑問が渦巻く。

 困惑する私を尻目に侵入者はカツカツと歩を進める。

 侵入者の影が私のもとに迫る。

 そしてついに侵入者の影が私の目の前に現れた。

 こんな真夜中に図書館を訪れる人って誰だろう。

 私は恐る恐る侵入者の顔を仰ぎ見る。

 侵入者は女性だった。

 彼女の手には細い切り傷が多数見受けられる。

 そして、肩で切り揃えた艶やかな黒髪に、憂いを帯びた瞳。

 うつむきがちな小さなあご。

 私は見知りおきのその顔に一瞬、言葉を失う。

 真夜中に図書館へ侵入した女性は、健気に花屋で働くタカシさんの元恋人、アオイだった。

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