アオイ

 私がタカシさんに拾われて2週間ほど経過したころの話である。

  最近、私はおかしい。

 そう思う理由は、私の目の前でせっせと原稿を書くタカシさんにある。

 最近ずっと、彼のことを考えている。

 彼が私を握って何か文章を書いてくれるのを、心まちにしておる自分がいる。

 そして、いざ彼が私を使って文章を書き始めると、宙を舞う花びらのように、私の心はひらひらと心躍るのだ。

 しかし文章を書き終え、彼が私を机の上にコトリと置いてしまうと、夜の砂漠のような渇きに似た虚無感が私を襲う。

 ああ、もう終わってしまったのかと。

 始まりがあれば終わりもあるという、自明の理が憎たらしくてしょうがない。

 あの楽しいひとときが永遠に続けばいいのにとさえ思う。

 ぬくい彼の手から、ひんやりと冷たい机の上に戻った私はというと、私に背を向け部屋を立ち去っていく彼の背中を、私は名残惜しそうに眺めることしかできない。

 私はあるはずのない両手で、彼の腕を掴み引き留めたいという衝動に駆られた。

 またある夜には、彼がベットで横になって寝入っているのを、私は明かりの消えた部屋の片隅で、あてどもなく眺めていたことがあった。

 彼の寝顔を横で見ながら、彼が私を使って原稿を書き上げる姿を夜な夜な想像しては、むふふとうわの空でこころが満たされるのを感じるのだ。

 要するに私は彼に恋をしてしまったのだ。

 タカシさんといると、彼がしたこと言ったことが、過去にもそれと全く同じことが起こったかのように感じることが多い。

 まあ、一種の錯覚なのだろうけれど。

 彼と一緒にいるかけがいのない今を、ただ陶然と受け身で感じ取っている。

 その放心状態のあまり、現在そのものが曖昧になり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとしているのかもしれない。

 すべて、私の心を掴んで離さない、タカシさんの存在が私をそうさせるのである。

 タカシさんとの運命的な出会いが、私を変えたのだ。

 そう思うと、一輪のひまわりが心の中で花開いたかのように、なんだか思いがけないものが私の身に降りかかったものだと、私はタカシさんの胸ポケットの中でゆられながら、温かい心で満たされるのだった。

 この2週間で私の心境が変化したと同時に、タカシさんも彼が陥っている状態に変化が生じた。

 タカシさんは思いついたストーリーを原稿用紙に書いては、なんか違うなと首をひねり、せっかく物語を書き起こした用紙をくしゃくしゃと丸め、ゴミ箱にポイっと放り投げるという行動を彼は夜な夜な繰り返していた。

 この頃のタカシさんは物語の執筆に難航していたのである。

 それは私が初めて見る壁にぶつかり頭打ちに悩む彼の姿だった。

 どうにかならないだろうか。

 書いては捨てるを繰り返す彼の姿は、道に迷う子犬のように寂しげで非力だ。

 思い通りに筆の進まない彼を間近に見て、私は彼が道を見つけまた力強く歩き出すことを強く願った。

 心配だったのだ。

 今タカシさんを襲う苦難に彼が押し潰されてしまうのではないかと不安だった。

 心を寄せる人にはやはり崇高であってほしい。

 私は生まれて初めて誰かを心配するという、感情の揺れを経験したのだった。


 蝉の鳴き声が耳につくとある夏の日、タカシさんはいつもの白シャツの胸ポケットに私を刺して近所の図書館に向かった。

 物で溢れた雑多な家で作業をするより、静かで和やかな図書館で物語を書いたほうが、ちょっとした息抜きになっていいのかも知らない。

 いつ雪崩を引き起こすかわからない書類だらけの勉強机を離れ、普段とは環境の違う場所で作業をしようという彼の考えは私も賛成だ。

 リフレッシュは大切だからだ。

 炎天下の街へ繰り出したタカシさんを数匹の蚊が襲った。

 タカシさんは手足をふるふると振り、いちもくさんに歩を早めた。

 そんな蚊の猛攻に一時撤退中のタカシさんに、無情にもこブナの小枝にくっついていた毛虫が彼の肩にピトッと張り付く。

 もうここまでくると、自然の猛威が悪い意志を持ってタカシさんを翻弄させているのではなく、むしろ自然の方はタカシさんにうるさいくらいの好意を抱いているんじゃないかと思ってしまう。

 蚊の猛襲に辟易したタカシさんは、図書館へ向かうのを一時中断し、道すがら目についた街の花屋に駆け込んだ。

 店に入るとクーラーの涼しい風と花々の甘酸っぱい方向が私たちを包み込む。

 蚊の大群がいなくなるまで、彼はここに避難するつもりなのだろうか。

 よりによって花屋か。

 タカシさんとお花…と、タカシさんがお花に水をやり、優しく愛でる姿を想像しようとしたが、できなかった。

 イメージが湧かない。

 タカシさんは、この花屋でいったいどんなことをするのだろうか。

 気になる。

 私はタカシさんが花屋で所在なくうろうろするという、またとない稀有をじっくり観察することにした。

 タカシさんは店先に飾られた黄色に色づいたパンジーの花をタカシさんは店の外から何気なく眺める。

 興味をそそららたのか、タカシさんはその黄色のパンジーを手に取り顔に近づけた。

 目をつぶりパンジーの甘酸っぱい花の香りをすうっと吸い込む。

 タカシさんは突拍子もないものに興味関心を抱く性分なようだ。

 私はタカシさんの頭の中をちょっと覗き見したい衝動に駆られた。

 タカシさんはやっぱり不思議な人だ。

 花屋の店先でタカシさんが柄でもなく店に飾られた花たちを眺めていると、店の中にいた女性スタッフがタカシさんに声をかけた。

 タカシさんが人と喋ることはとても稀なことだ。

私は集中してタカシさんとスタッフさんの会話を聞くことにした。

「きれいですよね、ここにあるお花たち。みんな元気な顔をしていますよ」

 と女性スタッフはたおやかに微笑みながら、タカシさんに言った。

 彼女はカーネーションやリンドウ、キンセンカなどの花を一つの束にしながらタカシさんの向き直る。

「はい、そうですね。僕の部屋に彼女らを飾ったらきっと、部屋が華やかになるでしょうね」

 タカシさんが人差し指で頬をかきながら答える。

「お花、好きなんですか?」

「今好きになりました」

 でしょうね。

 タカシさんが前から花に興味を持っていたのなら私が気づいていたはずだ。

「何か気になるお花はありますか?」

 するとタカシさんは今まさに彼女の手によって包まれようとしている色とりどりの花束を指さした。

「今あなたが机の上で包んでいるお花、とてもきれいです。僕にもひとついただけませんか」

「あ、これは…」

 彼女は少し重巡した後、申し訳なさそうに答えた。

「申し訳ございません。今包んでいるお花は売り物じゃないんです」

「?」

「あそこに白いガードレールがあるでしょう。あそこの横断歩道で私をこの花屋に雇ってくださったのオーナーの娘さんが交通事故で亡くなったんです。」

 そう言って彼女は店の外を指差す。

 たしかに、花屋の向かい側のガードレールには何かが衝突したような大きなへこみがあり、そのガードレールの下には今彼女が手にしているものとよく似た花束が添えられていた。

 夏だというのにガードレールに添えられた花はまだ瑞々しい。

 それだけ頻繁に花が交換されているのだろう。

 愛されていた証拠だ。

 彼女は遠くを見るような目で訥々と語る。

「もう2年になります。笑顔が素敵な可愛い子。笑うと花が咲いたように明るくなるんです。手は柔らかくてふっくらしていて、花を手に取る手つきも優しかった。髪もツヤツヤで、髪を結んでオシャレをするのが大好きな子だったんです。でも、あの子はもう逝ってしまいました。私がこの花屋で働く3日前のことです」

「だから、心を込めてお花を包んでいるんですね」

「はい、花は人を笑顔にしますから。天国でもあの子が笑っていられるように、毎日花を送っています。私にできることはそれくらいですから」

 そう言って彼女は滴る汗を手の甲で拭いながら微笑んだ。

 彼女の笑顔は花瓶の花が少しずつ減っていって、水を入れ替え空気を入れ替えやっと形を保っている花のような、そんな苦しそうな笑顔だった。

「その子はきっと、あなたの優しさに救われていますよ」

 タカシさんは水を求める花のような彼女の目を見て優しく声をかけた。

「そして、あなたにもきれいなお花が必要です。あなたが元気を取り戻すため、僕があなたに花を贈ります。萎れたハートには花束を」

 そう言ってお金を支払うとタカシさんは、さっき店の外で眺めていたパンジーの花を彼女に差し出した。

 驚いた顔で彼女はタカシさんが差し出したパンジーの花を頬を赤て受け取る。

 それがタカシさんとアオイの出会いである。


 アオイと出会ってからタカシさんは頻繁に図書館へ足を運ぶようになった。

 もちろん物語を原稿用紙に書き出すためである。

 図書館で物語を執筆するタカシさんは明らかに勢いを取り戻していた。

 私を持つ手が止まらない。

 先程まで火の消えかかった焚き火のような状態が嘘のようである。

 今は彼の胸の内で物語の著者としての矜持がメラメラと燃えているのがわかる。

 図書館で書くようになったからか、それともアオイに出会ったからか、まあ明らかに後者の影響なのだが、タカシさんが調子を取り戻してくれて私も嬉しい。

 タカシさんは歌うように、穏やかな抑揚をつけてタカシさんは物語を紡いだ。

 タカシさんは今日も机の上に資料を広げて物語を書いている。

 タカシさんの周りに漂う静かな気配で、彼が息をするのも忘れるくらい、集中して物語を書き上げているのがわかる。

 しばらくして、水の中から顔を出すようにふうーと息を吐くと、また物語の中に潜ってしまう。

 タカシさんは、私がずっと彼を見守っていることに気がついていない。

 タカシさんは誰にも見られていないと信じて、何かに夢中になっていた。

 よもや、それは後でそれを思い出そうとしても、思い出せないような精神の中で、なにかにのめり込んでいる彼の姿を、彼の手のひらの中で飽きずにずっと眺めていた。


 タカシさんは滅多に喋らない寡黙な人間だ。

 彼の纏う凪のような静けさに、彼の胸ポケットの中でたまゆら浸ることが、私の密かな楽しみだった。

 彼を覆う眠るような静けさが私の胸を詰まらせるのだ。

 彼の泰然自若とした静寂に心惹かれたのは決して私だけではない。

 アオイもまた彼に心を救われたものの一人である。

 アオイはどこか憂いを帯びた人物だった。

 花屋で働いていると、その憂いは目立たないのだが、ふとした瞬間に、その森閑とした森の中の暗闇のような影が、アオイの瞳の中に映るときがある。

 その暗い影は一瞬で消えてなくなるのだが、そのときどき現れる生傷を隠すような彼女の闇が、やけに毒々しく近寄りがたい雰囲気を、彼女の周りで醸し出していた。

 しかしタカシさんと接しているアオイは、そんな鬱屈した傷跡みたいなものを見せることがない。

 彼女はタカシさんの横で、鈴が鳴るように口元を隠してころころと笑い、大事なものを見るような目でタカシさんを見つめた。

 タカシさんと接している時だけ、彼女の瞳にはやわらかい春の日差しのような暖かさが宿っていた。

 きっとそれが彼女の偽りざる、本当の姿なのだろう。

 タカシさんと一緒にいるアオイは、気を張ることなく十分に脱力していて自然体だ。

 私はそんな二人を見て、タカシさんが人を笑顔にする光景をじっと眺め、やっぱりタカシさんって私を含む、周りの人を和ませる力があるんだなあと、しみじみと実感した。


 図書館を出たタカシさんは帰りぎわ、決まってアオイが働く街の花屋に立ち寄った。

 そしてタカシさんはアオイと短い会話をし、花を買って帰っていく。

 タカシさんとアオイに許された時間は、花を包みそれを手渡すというほんの数分間。

 アオイはその限られた短い時間の中でタカシさんを笑顔にさせた。

 私にはできないことだ。

 私にはどうあがいたってできないことをアオイは、易々とこなしてしまう。

 私はペンで、彼女は人間なのだ。

 だから私はタカシさんを隣で支える心の友になることができないのだ。

 だから私はタカシさんとともに一生を添い遂げることができないのだ。

 そういって割り切ることができれば話はもっと単純だったに違いない。

 だけど胸ポケットの中で、タカシさんが彼女と自然な笑みで会話をする姿を見ながら思ってしまうのだ。

 もしも、もしも…。

 もしも私が人間だったらと。

 もしも私がアオイの立場になれたらと。

 そうなったらどれだけ嬉しいことか、言葉では言い表せないと思う。

 でも私はただのペンで、タカシさんに笑顔を向け楽しく会話ができるのは人間であるアオイだ。

 楽しそうに笑うタカシさんとアオイを見て、滴るインクが紙の上でしみ広がっていくように、青くて暗い感情がじわりと私の心のうちを支配した。


 そのうちアオイは仕事を休んでタカシさんと一緒に図書館で余暇を過ごすようになった。

 あいも変わらずタカシさんは図書館を訪れると、原稿用紙を広げせっせと私を使って物語を紡ぎ出す。

 アオイはペンを走らせるタカシさんの横で、ゆったりと静かに図書館の本を読んだ。

 図書館の中では二人はあまり喋らない。

 二人の間にはカリカリと紙に文字を書き込むせわしない音と、規則正しく等間隔でペラリと本のページをめくる音が静々と鳴り響いた。

 二人は互いにの間に満ちる沈黙を楽しんでいるかのようだった。

 身近に人の気配を感じるとヒトはそれだけで安心するものだ。

 互いに息の音が聞こえるほどの距離で、モノを書き本を読むことで、この二人は二人だけが共有できる何かを感じていたのだと思う。

 私は初めて沈黙が会話になり得るのだということを、二人の姿を見ながら深くそう思った。


 

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