小説家とペン
ことはたびひと
タカシさん
私が自覚をもったのはいつ頃だっただろうか。
気がついたら私はペンだった。
ペンが意識をもつのはおかしいだろうか。
気がついたら私はプラスチックの光沢を光らせ、文房具屋の棚に整然と並んでいた。
ペンになる前の出来事を思い出そうとしてもダメだった。
自分が文房具店の片隅に陳列される前の出来事は、頭の中に霧がかかったかのようにぼうっとしている。
まあ、私には頭なんてものはないのだけれど。
そういうことだから、私は自分がどのようにして作られたのか思い出せないし、なぜ私がこの世に存在するのかもわからない。
意識をもつペンというのはこの文房具屋には、私一人しか存在しないようだった。
大きな声で周りにいるペンたちに声をかけてみたが、返事が返ってくることはなかったからだ。
ついでに私の前を横切る人間たちにも、私の声は聞こえないようだ。
体を動かすこともできず、声も届かない。
私がこの世に存在していることに、誰にも気がつかない。
私は何のためにここにいるのだろうか。
途方に暮れる。
私は文房具屋の窓から街を赤く染める西陽を黙って見つめることしかできなかった。
ある日のこと。
私のことを手にとった男がいた。
年は三十歳前半で、スーツを着込んでいた。
体格は痩せ型で、着込んだスーツが浮いて見える。
男は私のことを漫然と掴み、カチカチとボールペンをノックすると、私をお買い物カゴの中に放り込んだ。
やけに手汗が多い男だなとこの時は思った。
私を買った男は商社マンだった。
商社マンと聞くと丸の内で働く高級とりのイメージをもつかもしれないが、彼の働く会社は下請けの下請け、零細企業といっても過言ではない。
商社マンの男は手帳に仕事のことをあれこれを書き込むめに、文房具屋で私のことを買ったようだが、私を使って手帳に書き込むほど仕事を抱えているということはないらしい。
なぜなら週に一度、おもむろに手帳を開き数行つらつらと書き記した後、私を手帳に挟んで彼のカバンの中に戻す。
そして手帳がまた開かれるのは1週間後。
それまで私は暗く陰気な男の鞄の中でじっと1週間の月日を耐え忍ばなくてはならなかった。
男と私は面と向かい合う機会があまりにも少なかったので、私はその男についてあまり詳しくない。
ただ男が私を使って手帳に予定もないのにわざわざ「予定なし」と書き込んでいたのを見るに、会社をクビにされたのだろうとは想像できる。
まあ、彼のことなんか知ったこっちゃないのだけれど。
あの日のことはよく覚えている。
男が私のことを使い始めて7回目のことだったから、文房具屋を後にしてから7週間が経過したころのことである。
男は公園のベンチに腰掛けなんともなしに目に映る景色を眺め、わかりやすく項垂れていた。
時刻は昼下がり。
公園で遊ぶ子供たちの嬌声がわいわいとにぎやかだった。
普通なら会社で働いているはずの男性が、この時間帯に公園でなんともなしにベンチに座って景色を眺めている。
おおかた、再就職先を見つけるのにまだ難航しているのだろう。
我が子を公園で遊ばせているママさんの男を見る目線が痛い。
男の手には手帳とペンの私。
手帳にはいつもと同じく「予定なし」の文字がむなしく書き込まれている。
ママさんたちの痛い視線にいたたまれなかったのか、矮小な自分に嫌気がさしたのか、男は深いため息を吐いた後、手を膝についてよれよれと力なく立ち上がった。
男が立ち上がった拍子に、手帳に挟まれた私の体がぐらりと揺れるのを感じた。
ふわりとした浮遊感。
あ、私は落下しているのかと自覚する前に、体に大きな衝撃が走った。
私は男の足元をコロコロと転がる。
男は私を落としたことなんかに気づかない。
男は呆然とした表情で足早に公園を去ってゆく。
えっ、ちょっと、拾っていきなさいよ。
待って。
私の動揺した声は男には届かない。
届いたとしても聞こえない。
投げるようにしてその場を立ち去る男の背中はどんどん小さくなってゆく。
私は声をあげて叫んだが無駄だった。
残されたのは楽しげに遊具で遊ぶ子供達と、それを温かく見守るママさんたち。
そしてベンチの下で転がり途方に暮れる私。
男は二度と私のもとに戻ってこなかった。
どれくらい経っただろう。
赤い夕日が公園を赤黒く照らしている。
遊具の影が夕陽を受けて長く長く引き伸ばされる。
私はこれからどうなってしまうのだろうか。
雨風にさらされ人知れず公園の隅で、壊れ果ててしまうのだろうか。
それは嫌だ。
漠然とした不安がもこもこと広がってゆく。
それと同時に希望という灯火が徐々に徐々に消えてゆく。
そんな時だった。
一人の青年が公園のベンチに座った。
白いシャツにメガネをかけたいかにも文学少年といった風貌の青年。
青年の手にはいくばくかの紙束が握られている。
青年は何かを探すように彼の着ている白いシャツの胸ポケットをさぐった。
「あれ?」
青年の方からひどくマヌケな声が漏れた。
白シャツの胸ポケットだけでは収まらず、青年は立ち上がってズボンポケットに手を突っ込んだり、カバンの中を引っ掻き回している。
どうやらお目当てのものが見つからないようだ。
しばらく慌ただしくお目当てのものをあちこち探していた青年だったが、探し物は見つからず、彼はとすんと力なくベンチに腰掛けた。
「ペン、家に忘れた」
ぽつりと彼のつぶやいた言葉がゆらゆらと風にのって消えていく。
青年は夕焼けに染まる公園をぼーと眺めた後、ふと私に視線を向けた。
青年の手が優しい手つきで私のことを拾い上げる。
青年は私のことをしげしげと眺めた後、カチカチと私のことをノックして動作を確かめた。
青年の瞳は夕焼けを受けてキラキラと輝いているように私には見えた。
青年は手にした紙束に私を使ってなにか書き込み始める。
ペンを走らせる
青年の手は止まらない。
私は嬉しかった。
なぜならこんなにもペンを長時間使ってくれる人がこの世にいるとは知らなかったから。
「書きやすい…」
吐息とともに青年の口から小さな言葉が漏れた。
青年の言葉は風が吹けばかき消えてしまうような、かぎりなく小さなつぶやきだったが、その小さくて素朴な彼のひとことが私の心を掴んで離さなかった。
私の胸の内に広がる陶然とした喜びに戸惑う。
夕焼けの赤も徐々に夜の黒に飲み込まれ、公園が暗闇に包み込まれた頃、青年はやっとペンを置いた。
青年は私を白シャツの胸ポケットに挟むと、よっこらしょっと、手を膝について立ち上がる。
やけに、おじさんくさい若者だ。
この青年はこれから私をどこに連れて行くのだろうか。
わからない。
わからないが、きっと私の心を満たすに足る素敵な場所に、この青年は私を連れて行ってくれるに違いない。
きっといいことが起こる。
なぜかそんな気がした。
それが当たり前であるかのように。
これが私と文学を愛する青年、タカシさんとの出会いだった。
タカシさんは某大学の文学部に籍をおいた大学生だった。
弱そうな体にメガネに白シャツ。
文学少年を絵に描いたような見た目のタカシさんにぴったりの学部ではないか。
私は胸ポケットに挟まったまま彼の通う大学の門をくぐると、キーンコーンカーンコーンと鐘の音が大学中に響き渡った。
それまで漫然と歩いていたタカシさんだったが、その鐘の音を聞いた途端に教室へと駆け出した。
勢いのあまりズボンにインしていた白シャツがはみ出ているにもかかわらず必死な思いで先を急ぐ彼。
それを見てマイペースでお茶目なんだなあと、彼のことを微笑ましく思った。
無事に教室に到着した彼はノートと教科書を広げて、偉そうに教壇でべらべらと喋る教授の一言一句を聞き漏らすまいと真剣に聞いている。
彼の手には私こと書きやすさ抜群のボールペン。
彼は一心不乱に教授が語る内容をノートにメモしていく。
タカシさんの手は止まるという言葉を知らないようだ。
私は初めてインクが切れるのではないかという、いまだかつてありえなかった不安を覚えた。
タカシさんは大きな将来の夢を持っていた。
彼の夢は壮大だった。
それは小説家になることだ。
タカシさんは自分の書いた物語が本になり、日本全国で読まれることを望んだ。
そして自分の書いた物語が、秦人の手に触れ人々の心に深く刻まれることを夢見ていた。
素敵な夢だと思う。
大学の授業が終わり家路についたタカシさんは、小さな部屋に一つしかない彼の机にどさりと原稿用紙を積み上げ、真剣な面持ちでその原稿用紙たちと対峙していた。
タカシさんの前に置かれている分厚い原稿用紙の束から色とりどりの付箋がはみ出ている。
彼の机の上には、原稿用紙のほかに分厚い辞書やら彼が今まで読んできた小説が乱雑に積まれ、都心のビル群の様相を机の上で呈している。
その机が彼の勉強机なのだろうけど、勉強をするには支障があるのではと訝ってしまうくらい、机の上はものが散らかりカオスな状態だった。
タカシさんは机の上に積み重なった原稿用紙をパラパラとめくると、私を白シャツの胸ポケットからひょいと取り出し、原稿用紙に何やら細々と文章を書き始めた。
タカシさんは大学で勉強をする傍ら、家では小説を執筆していたのである。
いつか新人小説家として社会に雄飛することを夢見て。
初めて会ったときも、彼は公園で物語を描いていたのだと思う。
タカシさんが私を握った瞬間、彼の手のひらの温かさがじんわり私に伝わってきた。
さえない商社マンでは味わったことのない感覚に私は戸惑う。
まるで柔らかい春の日差しを受けているかのような暖かさ。
私は彼の手の中で包まれながら陶然とした。
私のことを優しく掴んだタカシさんは、原稿用紙の上にすらすらときれいな文章を書き始める。
まるで清浄な河の流れのようだ。
澱みなく優しい。
彼の手は真っ白な紙の上でなおも動き続ける。
タカシさんが紙の上で文字を描くたびに、その振動がさざ波のように私の体に打ちよせた。
絶えず動き続ける彼の拳の中から、私は彼のことを見上げる。
氷の中に閉じ込められた静かな炎が彼の瞳に宿っているように見えた。
きれい。
私は思わず心の中で呟いた。
私は食い入るように彼を下から見つめた。
目が離せなかった。
タカシさんは息をするのも忘れてしまったかのように、真剣な眼差しで書き進めていく。
そして思い出したかのように、深い深い息をふうっと息を詰めて吐き出すのだ。
彼の熱い吐息を受けたとき、私の心は震えた。
まるで風に揺れる茂みのようにソワソワと。
心の中で芽生える想いに私は動揺した。
私が人間に対してこんな感情を抱くなんて想像すらしていなかったからだ。
サッサッサッ、カリカリ。
しんと静まり返った部屋の中で、彼がペンを走らせる音だけが明瞭に聞こえる。
紙から伝わってくるその振動がたまらなく気持ちいい。
今は流れに身を任せるように、彼の手の中でたゆたっている。
何も考えない。
いや、何も考えられない。
ただひとつ理解できるのは、彼の手で包まれて文字を書くことが、たまらなく嬉しいということ。
私は水に浮かぶ葉っぱのようなゆらゆらとした思考の中でそう思うのだった。
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