異世界転生者たちの群がる風景

残機弐号

戸田さん、竜と出会う

 意識が戻ったあと、精密検査やら問診やらが一通り終わると、看護師が私を病室から連れ出し、明るい部屋へと連れて行った。部屋には大きな窓があって、陽光がたっぷり注ぎこまれていた。


 白い光の湖の底に白衣の男がひとり椅子に座っていた。ずいぶん体格が良く、豊かなヒゲを生やしている。まるで熊のようだ。看護師は退出し、私は男と向かい合って椅子に座った。男は机から黒いボードを取り上げ、挟み込んであった資料をぱらぱらめくった。


「戸田ヤスヂさんですね?」


「はい」


「またの名を竜騎士ムージル」


「はい。そうです」


「ご気分はいかがですか?」


「ずっと夢を見ていたようです。ここに来るまでのことはぜんぶ覚えています。でも、もう自分のこととは思えません。まるで他人の記憶のようです」


「世界観について教えていただけますか?」


「世界観?」


「ええ。異世界転生にはつきものでしょう? 私たちの世界とは勝手がちがうのですから、最低限の情報は必要です。なるべく手短にお願いします」


「ゲド戦記を読んだことはありますか?」


「昔、アニメ映画で観たことがあります。あまり覚えていませんが」


「竜と魔法の世界です。王様がいて、後継者の座をめぐり骨肉の争いが繰り広げられる中世の封建社会…。私が異世界転生したのもそんな世界でした。科学技術は子どもだましのレベルで停滞していて、かわりに魔法が高度に発達していました。魔法文明とでも言いましょうか。魔法で車が走り、情報が伝達され、税金が集められます。社会的地位は魔法の技量と相続財産の多さで決まります。しかしより重要なのは魔法の方です。名家の子どもでも、魔法の才能が無いと家臣に寝首を掻かれますから。すべてが魔法中心で回っている世界なのです」


「竜とは?」


「竜は審判者です。人間たちが魔法を悪用し世界の均衡が乱れたときに現れては、町を火の海に沈め、何万人もの人々を焼き殺します。魔法はいわば “チート” です。技量さえあればどんな魔法でもつくることができる。まるで小説家が言葉をあやつり、どんな小説でも生み出すことができるように。だから竜が必要なのです。竜が一種の規範となり、人間たちの度を超した欲望に罰を与えるのです。だから私たちにとって、竜は恐れるべき災害であり、世界の均衡を守る神でもありました」


「戸田さんは竜騎士だったのですね?」


「はい」


「たいへんなお仕事だったのではないですか?」


「平時はそうでもありません。閑職で、朝のコーヒーを入れた後は夕方までひたすら資料整理の毎日でした。しかし、魔法を悪用する者が現れると一気に忙しくなります。放っておけば竜たちがやってきて、町を焼き尽くしてしまいますから。私たち竜騎士の役目は、竜たちと交渉して数日分の時間の猶予をもらうこと。そして、その間に犯人を捜し出し逮捕することでした。いわば、人間社会と竜たちとの緩衝材というわけです」


「竜たちと交渉ですか」


「ええ、彼らは知的な存在です。この世界で数千万年前に滅びた恐竜たちとはちがいます。ただし、われわれとはロジックの組み立て方がちがうので、コツを知らない者が話してもかみ合いません。まるで禅問答です」


「戸田さん。あなたはなぜそんな世界に異世界転生したと思いますか?」


「さあ…。私はゲド戦記は好きですが、普段はそこまでファンタジーを読むわけではありません。異世界転生というジャンルがあるなんて、ここの看護師さんに教えてもらうまで知りませんでした」


「おそらく、何か使命があったのではないでしょうか?」


「使命?」


「ええ。使命がなくては異世界転生する意味がありません。たんなる輪廻転生とは違うのです」


「異世界転生を信じているかのような言い方ですね」


「もちろん信じてますよ。だからこうして戸田さんのお話をお聞きしているのです」


「ああ、なるほど。一種の療法ですね?」


「どういうことでしょうか」


「聞いたことがあります。幻聴が聞こえる患者に対して、それはただの幻聴ですよ、と言っても逆効果になるそうです。それよりも、相手に寄り添ってあげた方が良いそうですね。“幻聴さん”なんて呼んで、本当に幻聴が実在するかのように相手に合わせてあげるわけです」


「そうなんですね。興味深いお話です」


「からかってるんですか? あなたは精神科医でしょう?」


「いいえ」


「じゃあ何科の医者なんです」


「私は竜です」


「竜科…?」


「ええ、竜類竜目竜科です」


 私はまだ夢を見ているのだろうか? 部屋が明るすぎる。窓からどんどん光が入ってきて溺れそうだ。


「竜騎士ムージルさん。あなたには何かとお世話になりました。まずはお礼を言います」


 竜は椅子に座ったまま深々と頭を下げた。私もつられて頭を下げた。


「“竜騎士”とは人間たちが使う称号です。私たちはあなたたちのことを、“翻訳者”と呼んでいました。あなたのおっしゃる通り、私たちのロジックはあなたたちのロジックと大分違う。私もこちらの世界に来てからだいぶ苦労しましたよ。でも今はこのとおり、誰とでもスムーズにコミュニケーションできるようになりました」


「竜は学習能力が高いですからね」


 カラスは人の顔を覚えますからね、とでも言うように、私は向こうの世界の常識を当たり前のように口にしていた。


「そう言われていますね。それでもだいぶ手こずりました。ある意味、脳のOSをそっくり入れ替えるような作業ですから。逆に、元の世界に戻ったとき竜たちと昔のように話せるかどうか不安です」


「元の世界に戻れるのですか?」


「いえ、それは無理です。戻れたらの話ですよ」


「あのう…。だとしたら、もういいのではないですか?」


「何がですか?」


「戻れないのなら、もうこの世界がすべてですよね。あの世界のことを話しても、もう無意味ではないですか?」


「そうでしょうか」


「まるで、ファンタジー小説の感想を言い合っているようなものではないですか」


「あなたには美しい恋人がいましたね。もちろん、“美しい” とは人間たちの美醜の基準から見てですが」


「ええ。でもそれも、今の私にとっては読み終わったファンタジー小説の一節にすぎません。確かに素敵な思い出です。でも、現実はここなんです。私がいるここが現実です。彼女は実在しません。本に印刷されたインクのシミのようなものです」


「あなたはこちらの世界で交通事故に遭いました」


「ええ」


「1年前のことでした。信号が青になり、あなたが横断歩道を渡っていると、猛スピードで突っ込んできた車にはねられ、頭を強く打った。ドライバーは80過ぎの男性でした。ブレーキとアクセルを間違えたようですね。本人は、ブレーキが壊れていたのだという主張を最後まで変えないまま昨年末に肺炎で亡くなりました。あなたは一命を取り留めたものの、つい数日前まで意識が戻らなかった」


「そのあいだ、私は長い長い夢を見ていたわけです」


「ちがいます。あなたは異世界転生していたのですよ。あなたの使命はまだ終わっていません。邪悪な魔法使いがまだはびこっています。竜騎士たちはみな返り討ちに遭い、残るのはあなたひとりだけです。もう一度、向こうの世界に戻らなければなりません」


「戻れないっておっしゃったでしょう?」


「私はね。でも、あなたにはできます。なぜなら、あなたにはまだ命があるから」


「あなたにだって命はありますよ」


「今の私は転生後の私です。つまり、私は向こうの世界で死んだのです。あの邪悪な魔法使いに炎を無力化され、体内に爆発呪文をしかけられて死にました。死んだ者は生き返りません。だから向こうには戻れないのです。でも、あなたはまだ死んでない」


「私に死ねと?」


「はい」


「声を上げますよ」


「安心してください、殺しやしません。死ぬかどうかはあなたの意思に任せます。それに、どうせ人はいずれ死ぬのです。あなたの寿命はあと40年といったところでしょうか? 40年後、あなたは死に、再び向こうの世界に転生します。とはいえ、そのころにはもう、人間も竜も全滅しているかもしれませんが。その場合、別の生き物に転生することになるでしょうね。サルか、コウモリか、バッタか、ゴキブリか…」


「ふたつの世界の時間軸はリンクしているのですか?」


「いえ、かなり前後関係が錯綜しています。あなたは去年交通事故に遭い、この1年間、異世界転生していた。あなたが目覚めた後に例の魔法使いが現れ、私が殺され、47年前のこちらの世界に転生した」


「ぐじゃぐじゃだな。それではいつが過去でいつが未来なのかわかりません。いつ死んでも同じことではないですか?」


「いつ死ぬかはあなたの自由です。でも、使命があるうちに死んだ方があなたにとっても好都合なのではないですか? 使命を失った異世界転生者はみじめなものですよ。いつの時代に転生したとしてもね」


「あなたの使命は?」


「私の使命は、こうしてあなたに判断材料を与えることです。どうするかは戸田さんにお任せします。死にたくなったら看護師を通して私を呼んでください。楽な死に方ならいくらでもありますから」


 私は3日後に退院することになっていた。竜と話した翌日、家族が見舞いに来てくれた。妻と大学生の娘。妻は白髪が増えていた。入院費が心配だったが、私をはねた男性の家族から賠償金をもらってカバーできたそうだ。会社からも解雇されることなく、いつでも戻れるとのことだった。娘は就職活動で忙しいらしく、その日もスーツで来ていた。翌日東京で面接なのだ。「がんばれよ」と励ますと、娘はまちがって「ありがとうございます」と応えて赤くなった。面接練習のやり過ぎだ。「早く決まるといいな」と私は笑って言った。


 「死ぬ」という選択肢は私の中になかった。「生きる」という選択肢もない。選択する前に、私はすでに生きている。来週からは職場に戻る。迷惑をかけた人たちにあいさつするのが面倒だ。それでも私は職場に戻るだろう。「使命」だからではない。「日常」だからだ。生きるか死ぬかの選択もせずに、私は死ぬまで生きつづける。


 退院するとき、竜が毛むくじゃらの手を差し出した。私たちは握手した。竜の握手は力強かった。熊のような体格の竜。もう二度と会うことはないだろう。


「私はあなたの意思を尊重します」


 竜は言った。竜の目は怒っていなかった。笑ってもいなかった。


「意思ではありませんよ」私は言った。それでは何なのか。使命でもなく、運命でもなく。大げさな言葉は、どれもこれも私には嘘くさく思えた。竜は何も言わなかった。


 時々、日常のふとした途切れ目に、この世界の岸辺に打ち上げられた、果たされなかった使命たちのことを思う。今日もどこかで誰かが死に、この世界やあの世界に異世界転生している。たくさんの死が堆積し、幾重もの地層を成し、世界をかたちづくる。そんなことは思いもせずに、この地上で、私たちの日常はつづく。

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